逃げるは恥だが追えはしない③
泥水を流したような、小汚い薄曇り。
かつてリノシマやらシングウとか呼ばれた、下層の天気は変わらない。一日中分厚い雲に覆われたまま、決して晴れることは無い。これは上層でも同じだが、発達した技術で、人工的に気候を作り出していた。晴れも雨も、花も四季も存在する……そうだったと、思う。聞いたのもだいぶ前だ。
しかしそんなものは、下層の住民にはとりとめのない空想でしかない。下層に住む者は、下層で生きて下層で死ぬ。曇り空だけを見て、森など見たことがないまま、人生を終える。高い壁に囲まれたまま、東和から出ることは叶わない。
拠点にしている水道から出、向かうのは商店街……と称した露店街。表向きには露店が禁止されているそうだが、家賃も満足に払えない下層の下層ということで見逃されているらしい。
生きるための糧、趣味、食い扶持の稼ぎに。食料、衣服、薬、調度品、挙げ句の果てには違法すれすれの横流し品など、品質も善悪も問わず店の数だけは多い。
扱う商品によって、大ざっぱに区分けがされている。服を扱う箇所は正面から見て、西側のエリア。大木の前まで。
ここに入ったのは久し振りだ。やたら黒い服の多い店の前を通りかかる。店主と目が合う。とっさに逸らしたが、向こうはどうしてか友好的だった。手を振ってくる。
「ようお前、誰かと思えば敏明じゃねぇか! 相変わらずカビてんなぁ! いるか? このチェーンが無駄につきまくった謎の服! 今なら溝掃除1時間で売ってやるぜ!」
こちらの名前を知っているようだが、知らない奴だ。
掛けられた声を無視し、女性物を扱うエリアに入る。安っぽく、きつい香水の香りが鼻と喉を殴りつけてくる。軽く咳き込むと、すれ違った熟女が、鬱陶しそうに敏明を睨んだ。睨み返しながら、立ち並ぶ露店の端を目指す。
壁のすぐ脇、アリが行列を成す一画。薄い板を釘で留めただけの簡素な台に、服が山積みにされている。穴が開いたり口紅がついたり土で汚れたり、商品として扱えなくなった服をここに置いておく。誰かが持っていく。いわば売れなくなった商品のリサイクル場所として利用されている。
いつからかあっただろう。少なくとも、敏明がここにやってきた頃から在った、と思う。
山の中から、きれいそうな服を一枚抜く。白いTシャツ。サイズからして女物だろう。襟に、ピンクの糸でレースの刺繍がされている。少し土で汚れているが、水で洗えば落ちる。そして、シンプルなスカート。
適当にたたみ、ポケットに入れる。いちおう番らしきものをしているような老婆が、新しい在庫をどさりと上に置く。
水滴が鼻を濡らした。空を見上げる。雨粒が、線を描いて落ちてきた。やがて、線は面となり、路地を濡らしていく。店を出していた者たちが、一斉に服を引き上げていく。
「おいおい雨かよ、予報になかったじゃねぇか。ついてねぇな」
と、さっきも聞いた声が。だが今は水滴に濡れないことが大事だ。不快感はもちろん、汚染物質が溜まった下層の雨はそれだけで毒になる。
フードを被る。獲物を濡らさないようにしながら、足早に市場を後にした。
◆
「あっおかえりー」
「……お前」
敏明は返事も忘れ、女を見つめた。まだいたのか、とも言えない。
巫女は部屋を掃除していた。小さなペットボトル、雑巾らしき布の端切れ、凹んだ小さなバケツ。カビで真っ黒だった部屋の隅が、ほんの少し元の白さを取り戻そうとしている。
「これから私も来るもんね! ということは私の場所だもんね! きれいにしなきゃ!」
「なんだその理論」
掃除など、何年振りに見ただろうか。二年くらいか。意外と経ってなかった。
彼女がバケツの上で雑巾を絞ると、緑色の何かが大量に滲み出た。思わず顔をしかめる。心まで黴びていたとはいえ、あの汚れはない。やばすぎるだろう自分。
ともあれ、敏明はポケットから服を取り出す。
「最初で最後だ。やるよ」
「へ?」
巫女の前に放り投げる。彼女はいそいそと、広げて全体を見た。途端、表情を強張らせた。突然のプレゼントを怪しんでいるのだろうか。敏明は心なしか視線を逸らして呟く。
「いいから貰え。タダだ。代金の請求はしねぇよ」
「……………………・・・、あ、あの…………これ、……スカートにものすごい穴が開いてるの」
曖昧な沈黙が、部屋を包んだ。
敏明は、女を見た。だいたい150センチくらいだろうか。体つきは平均的。いや、どうであっても穴の開いたスカートなど着ない。着れない。
ゆっくりと天井を見る。灰色に埃が積もっている。
床を見る。あちこち黒ずんでいる。
曖昧に正面を見る。申し訳なさそうな、なんとも言いがたい表情をした彼女がいる。
「……………………………………さらばだ」
「ふぎゃーやめてー!?」
踵を返した。向かうのは外であり、意図せず恥を晒すことになってしまった己を流すのはうってつけの水道であり、溝であり、もっと言えば下水道である。
おあつらえむきに今は雨だ。痴態ごと敏明を流してくれるだろう。どこか遠くに。
今の自分は、わざわざ女物の服を取りに行って、ヘンタイ的な服を見繕った、ただのヘンタイである。使命もプライドも忘れ、思わず全てを投げ出したくなったこれどうしよう。
「着るから! 穴が開いてもちゃんと着るから! 別の布当てるくらい私も知ってるから! デザインが合わなくても換えにするから、ってびやああああああシャツの背中にも穴が!? なんでどーしてこんな大穴がぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!」
サイズはもちろん、前面しか見なかった。どうして、といえば何となく気恥ずかしかったからである。20歳も越えたというのに、あまりにも少年すぎる理由だ。
あぁ、どうしてもうすこし慎重に選ばなかったのだろう。咎められれば、カビた男だけれどカノジョが出来ました、カノジョが着る下着を見繕っているのですよ、で良かったではないか。一切合切、女と縁がなかった人生でもない。辿って辿れば幼稚園で幼なじみの美海とか、仲の良かった女はいたようないなかったような。
「さらばだ」
ふらふらとふらふらと、己ごと事実を流しに。
そんな恥さらし敏明の耳に、別の声が届いた。
「お兄さん! まだ死ぬのは早いですよ!」
「その声は! 由香ちゃん!」
あと3センチまで迫っていた足は、突き飛ばされることで軌道を変えた。もっと言えば通路に向かって倒れた。凹んでいたくせに、反射的に取った受け身で痛くはない。だが、顔を上げる気力はもはやなかった。
誰かが走ってくる。倒れた敏明からは、足だけが見える。多少土がついているものの、清潔そうなスニーカー。カバンを持っているのか、中身が振動する音も。
「美菜ちゃん! 会いたかった……着替えと食料と暇つぶしの本とDVDレコーダーを持ってきたわ!」
「ありがとう由香ちゃん! 由香ちゃんは最高の親友だよ!」
「美菜ちゃん……!」
「由香ちゃん……!」
頭の上で交わされる、感動の再会。……を、敏明は胡乱な目で見つめる。黒い髪。着物姿。……また巫女が増えた。
ただ、ひとつだけ。
あの酒飲み巫女の名は、美菜。
今更知った。




