第5話 異形のサンプルの鑑定
翌朝、アトランティクス王宮の一角にある高規格実験室。
水魔導の結界で三重に封印された円形の観察台の前に、エルネをはじめとする使節団の面々と、レオン、ルチアが参集していた。
透明な結晶容器の内部に収められているのは、以前レオンたちが『深海の大穴』の浅域から回収してきたという「異形植物」のサンプルである。
それは、イソギンチャクと漆黒の薔薇が歪に融合したかのような気味の悪い姿をしていた。
太い茎からは毒々しい紫色と黒の斑模様が浮かび上がり、すでに死んでいるはずにもかかわらず、黒い魔力をのたうたせるように放ち続けている。
「……うう、なんて禍々しい光景ですの……。見るだけで気分が悪くなりそうですわ」
ルチアが思わず目を背け、エルネの背後に隠れる。
「エルネ、無理に触れる必要はない。危険を感じたらすぐに引き下がりなさい」
アルディスが優しく声をかけ、いつでも氷結魔法を展開できるよう、エルネの肩にそっと手を添えた。
「大丈夫です、アルディス様。……素材が悲しんでいます。こんな歪な形に変えられてしまって……私、ちゃんと確かめないと」
エルネは意を決して静かに歩み寄り、結界越しに観察台へ両手をかざした。
深呼吸を一つ。
その直後、藍色の前髪の奥で、彼女の瞳が静謐な蒼白い光を宿す。
鑑定眼の発動である。
エルネの視界の中で、異形植物を構成する魔力素と物質構造が、細かな光の粒子となって解体・再構築されていく。
「やっぱり。この根の深層にある重みと、魔力を腐敗させる独特の波長は……!」
一分、二分……息をのむような沈黙が部屋を支配する。
やがて、瞳の光を収めたエルネが、固い表情で振り返った。
「エルネ殿……何か分かったのか?」
息をのんで見守っていたレオンが問いかける。
エルネはきっぱりと首を頷かせた。
「はい。この異形植物の核に使われているのは、間違いありません……我が国の王都で騒動を引き起こした、禁忌の植物『死蝕の黒蓮』です」
「な……ッ! 『死蝕の黒蓮』だと!?」
レオンが目を見開く。
「はい。本来なら、高水圧と豊富な水魔力に晒される深海では、死蝕の黒蓮は自己維持ができずに自滅・拡散して溶けてしまうはずです。ですが……この植物は、アトランティクス特有の『深海紫水晶』を芯にして、黒蓮の根を寄生・融合させています」
「深海紫水晶に寄生だと……!? あれは紫色に輝く反面強烈な毒性を帯びているはずだ。安定性が極めて低く、調合素材としては使い物にならないだろう!」
「それを可能にしているのが、極めて精密な触媒の多重抽出術です」
エルネは真摯な瞳でレオンとアルディスを見つめた。
「この多重抽出の理論……そして黒蓮の防護膜の作り方は、王立薬草院の術式そのものです。これは国外に持ち出し禁止の技術です。……間違いありません。王都の地下牢から脱走したマルクス元院長が、この調合法を持ち込み、海の素材と融合させたんです!」
「マルクス……! あの往生際の一番悪い老いぼれめ!」
セシリアが扇子を握りしめ、キーッと歯噛みした。
「婚約パーティーを台無しにしようとしただけでなく、海を超えてアトランティクスにまで毒を振りまくなんて……どこまで卑劣なのですの!」
その頃——王宮での鑑定が行われているのと同時に、アトランティクスの下町エリア『旧港水路街』の暗がりに、一つの影が溶け込むように動いていた。
その一人は、巨躯に無数の刃物を隠し持ち、気配を完全に消しているギルドマスター、ガルドである。
ガルドが潜入していたのは、かつてアトランティクスで反乱を起こし鎮圧された『海蛇の歯』と呼ばれる組織の元潜伏先。半ば水没した捨て倉庫であった。
その額には見慣れないバンダナがつけられており、鱗のようなガラスが怪しく輝いていた。
「……足元に気をつけて、ガルド。水魔導の防犯トラップは無効化したけど、いつ残党が戻ってくるか分からないわ」
ガルドの耳にはシリルの使い魔である小型蜘蛛がはりつき、遠く離れた場所でもその声を響かせていた。
「わかってるよ。ただレオン殿下の警備隊が見落としていたこの『地下密売ルートの台帳』……どうしても直接確認して来いって言ったのはお前だろ」
シリルはガルドの持つガラス越しに視界を共有していた。
薄暗い倉庫の奥、潮風で腐食した隠し金庫を目指すようガルドに指示を出した。
ガルドは前にしゃがみ込み、手慣れた手つきで解除用の魔導鍵を差し込んだ。
カチリ。
小さな音が響き、重い鉄扉が開く。
中から出てきたのは、防水加工が施された数冊の極秘文書と、見慣れない漆黒の金属で鋳造された『小さなレリーフ』であった。
「これは……?」
ガルドがゴツゴツした手でそのレリーフを拾い上げる。
『歪んだ三日月に、蛇が巻き付いた血塗られた天秤』
それが刻まれた、禍々しい紋章であった。
シリルの小型蜘蛛が腹部を光らせ、魔法陣を起動した。
何冊かあった本、文書は即座にシリルの元に転移させられた。
眼鏡の位置を正し、ページを高速でめくっていく。
「アトランティクスの反乱分子の紋章ではありませんね。……それに、この極秘文書の筆跡と使われている暗号は、王国の闇市場で流通しているものと同型です」
そこに記されていたのは、マルクス元院長が脱走した夜の手引きの記録、そして大量の深海紫水晶と死蝕の黒蓮の取引データであった。
「……やはり、そうでしたか」
「どういうことだ、シリル?」
ガルドが眉をひそめると、シリルは冷徹な眼光で静かに言った。
「マルクス元院長は、確かに優れた調合知識を持っていました。ですが、彼はあくまで『陸』の鉱物、植物の専門家です。アトランティクスの深海素材の特性や高水圧下での多重抽出術など、彼一人の頭脳で一から開発できるはずがありません」
ガルドは漆黒のレリーフを見つめ、低く呟いた。
「なるほどな……。お前のいう、マルクス院長ひとりの頭脳でこれほどの深海兵器を作れるはずがありません……背後に『悪の組織』が存在する、か」
「ええ。マルクスは自らが主導権を握っているつもりでしょうが……実際は、この『謎の紋章』を掲げる組織に躍らされ、実験台として利用されているに過ぎないでしょう」
王宮の応接間に戻ってきたガルドは、回収したレリーフと文書について報告した。
「これは……! 我が国の反乱分子が持っていた金庫から出てきたものなのか!?」
レオンが息をのんでレリーフを手に取る。
「エルネの鑑定眼によって、異形植物は新海紫水晶、死蝕の黒蓮が使われていることが証明されました。そしてこの文書は、その二つの禁忌素材を結びつけた『第三者の存在』を物語っています」
アルディスが冷ややかな視線をレリーフに落とした。
「『血天秤の蛇』……謎の秘密結社だな。国境を越え、陸と海の双方で禁忌の兵器開発を進めていると見て間違いない」
「そんな……! マルクス元院長は、その組織と手を組んで……!?」
エルネがショックに胸を押さえる。
「ええ、エルネ様」
シリルが静かに説明を続けた。
「マルクスは貴女の『超絶鑑定眼』と才能に嫉妬し、自らの権威を取り戻そうとする焦りから、この組織の手を取ったのでしょう。ですが……組織の本当の狙いは、マルクスを利用して『陸と海を同時に崩壊させる究極の毒』を完成させることにあるかもしれない」
「究極の毒……」
「ええ。『深海の大穴』の最深部でその毒が完成し、海流に乗って世界中に拡散されれば……海上の都市だけでなく、陸の生態系までもが完全に死滅します」
部屋全体に、重苦しい沈黙が降り積もった。
「……絶対に、そんなことはさせないわ!」
沈黙を破ったのは、セシリアの気丈な声だった。
彼女はバッと扇子を開き、力強い眼差しで一同を見回した。
「わたくしたちも、この美しく活気に満ちたアトランティクスも、どこぞの陰気な悪の組織に壊されてたまるもんですか! ええ、絶対に阻止して差し上げますわ!」
「セシリア様……!」
アルディスが静かに立ち上がり、エルネの肩を優しく抱き寄せた。
「俺たちの幸せな未来を脅かす者は、どんな影の組織であろうと俺が凍てつかせる。……エルネ、君の知識が、この未曾有の危機を救う鍵だ。俺と一緒に来てくれるか?」
エルネはアルディスのぬくもりを感じながら、しっかりと背筋を伸ばした。
左手の『星紡ぎの月見草』の指輪が、彼女の決意に寄り添うように力強く輝く。
「はい、アルディス様! 毒を作るために素材を汚すなんて……絶対に許せません。海の素材たちの声を聴いて、私が必ず元の綺麗な海に戻してみせます!」
「頼もしいぞ、エルネ」
レオンが不敵な笑みを浮かべ、拳を握りしめた。
「我が国が誇る最新鋭の潜水艇『深海皇』の準備は整っている! 明朝、我ら使節団とアトランティクス王家が結託し、『深海の大穴』の最深部へ殴り込みをかけるぞ!」
「お兄様、不穏な表現はやめてくださいな。……ですが、私もエルネ様をお守りするために同行しますわ!」
ルチアも気合十分といった様子で胸を張る。
忍び寄る「悪の組織」の影。
そして、まともな潜む暗黒の深海へ。
陸と海の絆を胸に、エルネたちの命運をかけた深海探索が、今まさに始まろうとしていた。




