第11話 真の敵血天秤の蛇
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
アルディスが剣を突き立てた姿勢のまま、荒い息を吐く。
過剰な多重強化魔法の反動と、全魔力を絞り出した負荷により、彼の全身から猛烈な蒸気が立ち上っていた。
「アルディス様! 無茶をなさって……大丈夫ですか!?」
エルネが駆け寄り、彼の身体を必死に支えようとする。
「ああ……大丈夫だ。エルネが無事なら……俺の身体など、いくらでも——」
「ダメです! ご自分の身体も大切にしてくださいと、いつも言っているでしょう!」
エルネが少し涙目になって怒ると、アルディスは困ったように、けれど幸せそうに目を細めた。
その時であった。
ザザッ……ザザザッ……。
氷漬けになった培養槽の脇、壊れかけた魔導装置が、突如として不気味なノイズを撒き散らし始めた。
「……ん? まだ生きている魔導石があるのか?」
アルディスがエルネを庇いながら警戒の視線を向ける。
空中へ投影されたのは、歪んだ青い立体映像。
漆黒のフードを深々と被り、顔の半分を不気味な蛇の仮面で覆った「謎の人物」の影であった。
『フフフ……素晴らしい。実に素晴らしい鑑賞劇だったよ』
歪んだ音声加工が施された低い声が、静まり返った広間に響く。
『まさか、我が組織の試作型『寄生黒魔石』の暴走を、即興の中和と局所物理凍結で力技突破する者がいるとはね。陸の『氷結公爵』アルディス……そして』
映像の影の視線が、アルディスの背後にいるエルネへと向けられた。
『伝説の超絶鑑定眼を持つ幼きエルネ。……君の観察眼と判断力は、我々の想定を遥かに超えていた』
「貴様……『血天秤の蛇』の幹部か!?」
アルディスが冷酷な声で問いただす。影はクックックと愉しげに肩を揺らした。
『我々は血天秤の蛇マルクスという老いぼれは、救いようのない無能だったがね。……まあ、我が組織の実験データ採取体としては、最後まで実に良い仕事をしてくれたよ。感謝しているくらいだ』
「仲間を使い捨てにして……何とも思わないのですか!?」
エルネが怒りに震える声で叫ぶ。影は冷淡に言い放った。
『仲間? 勘違いしないでいただきたいな、小さな鑑定士よ。我らにとって、教義にそぐわぬ者はすべて実験材料に過ぎない。……今回の「植物と鉱石の融合毒」のデータはすべて手に入った。アトランティクスでの実験はこれで終了だ』
影の手元で、何かしらの魔導記録石が光る。
『だが……覚えておくといい。我ら『血天秤の蛇』の真の悲願は、このような辺境の海の毒などではない。……いずれ世界が正しき天秤によって裁かれる時、君のその美しい『超絶鑑定眼』を、直接我が手で奪い取りに行くとしよう』
「戯れ言を……! 次に俺の前に面を晒した時が、貴様の命日だ!」
アルディスが凍気を放ち、通信装置ごと映像を氷砕した。
バシィンッ!
ノイズが途切れ、広間に再び静寂が戻る。
マルクスとの復讐の連鎖には完全な決着がついた。
しかし世界を影から脅かす真の敵の存在が、はっきりとその姿を現した瞬間でもあった。
『——アルディス! エルネ! 聞こえるか!? 通信が復活したぞ!』
耳元の通信機から、レオンの切羽詰まった声が飛び込んできた。
『上層の残党はすべて片付けた! 深海の魔力反応が消えたが……二人は無事なのか!?』
『エルネ様! お返事をくださいませ!』
セシリアとルチアの悲哀の混ざった声も聞こえてくる。
「……ああ、みんな。聞こえているよ」
エルネが通信機に向かって、温かい笑みを浮かべながら答えた。
「毒の核も、自爆魔法陣も……そして暴走した魔物も、すべてアルディス様が撃退してくださいました。私たちは無事です!」
『おおおっ! 本当か!! 良かった……本当によかった!!』
レオンの歓声と、上層で作戦を見守っていた宮廷魔導士たちの割れんばかりの歓声が通信越しに爆発した。
『まったく……冷や冷やさせないでくださいまし! 早く上がってきてスイーツでも召し上がらないと、わたくしの気が済みませんわ!』
『ふふ、セシリア様ったら。……アルディス様、エルネ様、本当にお疲れ様でした。アトランティクス全土を挙げて、二人をお迎えいたしますわ』
仲間の温かい声に包まれながら、エルネは深く安堵の息を漏らした。
「ふう……本当に、終わったんですね……」
緊張が途切れた瞬間、エルネの膝から完全に力が抜けた。
身体がふわりと宙に浮く感覚。
「あっ……!?」
気づいた時には、アルディスが彼女の身体を優しく、けれど決して逃がさない強固な力で抱き上げていた。いわゆる完璧なお姫様抱っこの姿勢である。
「ア……アルディス様!?」
「もう一歩も歩かなくていい。……よく頑張ったね、エルネ。君は俺の、そして世界の誇りだ」
アルディスは至近距離でエルネの瞳をまっすぐに見つめ、愛おしくてたまらないというように、彼女の髪にそっと額を重ねた。
「あ……あの、アルディス様……通信が繋がったままですし、抱きしめられると恥ずかしいです……っ!」
エルネの顔が真っ赤に染まる。
「恥ずかしがる必要などない。俺は今、世界で一番幸せな男であり、世界で一番過保護な夫なのだからな。……さあ、地上へ帰ろう。君の淹れてくれた温かいお茶が飲みたい」
『……あー、アルディス? 聞こえているぞ? 帰ってくるのは勝手だが、上層に着いてからそのあつあつぶりを見せつけられたら、俺は毒とは別の意味で倒れるかもしれん』
ガルドの呆れ果てた声が通信から聞こえ、セシリアとルチアのクスクスという笑い声がそれに続いた。
「ふふっ……はい! 帰りましょう、アルディス様!」
エルネは照れながらも、アルディスの首元にしっかりと両手を回した。
海を切り裂いて降りてきた氷結の騎士は、最愛の調合師をその胸に強く抱きしめたまま、アトランティクスの魔導士たちが維持する蒼い氷の回廊を蹴り、光あふれる上層の世界へと滑行を開始した。
深海の闇を抜け、輝く海の王国へ。
二人の絆は、どんな毒をも打ち破る絶対の強さとなって、新たな未来へと紡がれていくのであった。




