第10話 捨て駒の末路と氷の城
水深四千メートル。
極高の水圧と死の冷気が支配する古代深海廃プラントの中心。
真っ赤に点滅する自爆警告灯の閃光が、氷漬けにされた鉄骨とガラス壁を気味悪く赤黒く染め上げていた。
ブゥゥゥン、ブゥゥゥン。
響く低周波の重低音が、施設全体を刻一刻と崩落の淵へと追い詰めていく。
「アルディス様、あそこです! 培養槽の真下、脈打つ黒い魔力脈が十字に交差している支点。あそこが『死蝕の黒蓮』と『深海紫水晶』、そして自爆魔法陣の物理的・魔術的な真の【核】です!」
エルネが一点を指し示した。
その瞳には、世界の真理を見ることのできる鑑定眼が美しく輝いている。
「捉えた。……エルネ、俺から絶対に離れるなよ」
「はいっ!」
「アトランティクスの使節たち、そしてエルネの希望に……応えよ、蒼氷の刃!」
アルディスが細身の剣を水平に構える。
その瞬間、彼が纏うアトランティクス王家至高の魔道具たちと、遠隔通信を通じて上層の宮廷魔導士から送り込まれる膨大な魔力が、爆発的な氷の奔流となって剣身に集約された。
絶対零度の極寒。
空気が結氷し、分子の運動すら停止させる絶対的な威圧が、プラント内の不気味な熱気を一瞬で叩き潰す。
「氷華絶槍、『絶対零度』!!」
ドドドドドドガァァァァァンッ!!!!
アルディスの一閃が放たれた。
それは単なる斬撃ではない。
光すら凍てつく青白い巨槍となって空間を穿ち、押し寄せる崩壊の瓦礫も、濁流となって噴き出していた黒い毒液もろともすべてを粉砕・凍結させながら直線的に突進した。
世界は真っ白に静止した。
そして、アルディスとエルネは調合した最高級結晶薬『冷晶中和剤』を持って走る。
その氷槍の先、氷の道を走りたどり着いた。
「エルネ! それを渡すんだ!」
「はい!」
アルディスは中和剤を手に取り、走りながら氷のつららを生成した。
その先に中和剤を取り付けると、エルネを抱き寄せ、立ち止まった。
「ここからなら届く!」
力いっぱいつららを投げ込む。
ドカァァァァンッ! パキキキキキキキンッ!!
氷槍が毒の核を正確に貫いた。
その瞬間、核の内部で『冷晶中和剤』が弾け飛び、眩い蒼銀色の粒子が爆発的に拡散する。
『死蝕の黒蓮』の黒い毒素と『深海毒魔鉱』の強酸性が、中和剤の粒子に触れた瞬間から急速に無力化されていく。
ドロドロと脈打っていた青紫色の異形植物は、毒性を奪われて透明な水滴へと還元され、自爆魔法陣へ注ぎ込まれていた狂暴な魔力の循環がピタリと停止した。
プシューー……ッ……。
不気味な警告音が途切れ、点滅していた赤光が次々と消灯していく。
施設を包んでいた不穏な震動が、嘘のように鎮まっていった。
「や……やった……! 自爆魔法陣の不完全停止、および毒素の完全中和に成功しました……!」
エルネが安堵の息を漏らし、その場に膝をつきそうになる。
アルディスはすぐさま左腕を回し、彼女の華奢な体をしっかりと腕の中に抱きとめた。
「見事だ、エルネ。君の知識と鑑定眼が、この海を、そして世界を救ったんだ」
「いいえ……アルディス様が私を信じて、剣を振るってくださったからです……!」
安堵の温もりが二人の間に満ちようとした、まさにその時であった。
「あ……あ……あああ……ッ!!」
不快な擦れ声が、静まり返った広間に響いた。
氷漬けにされたまま首だけを出していたマルクス元院長である。
毒素が中和され、自爆が阻止された光景を目撃した彼の顔面は、屈辱と絶望、そして底なしの狂気によって凄惨なまでに歪んでいた。
「私の……私の長年の研究が……『血天秤の蛇』から授かった至高の毒が……このような小娘の即興の調合などで……打ち破られるはずがない……! 認めん……認めんぞぉぉぉッ!!」
「マルクス、諦めろ!」
アルディスが力強く言った。
アルディスの胸元から顔を出し、エルネも強い口調で言いはなつ。
「貴方の研究は、素材への愛も、生命への敬意も欠けていました! 他者を傷つけるためだけに歪められた毒など、調合術の真理の前には届きません!」
「黙れぇぇぇッ! 小娘が……上から目線で私を教導するなぁぁぁッ!!」
マルクスが血を吐くような叫び声を上げた。
その瞬間。
彼の首元の氷の隙間から覗いていた皮膚の下で、不気味な黒い瘤が蠢いた。
マルクスは激痛に顔を歪めながらも、身動きできず首を回す。
首筋が裂け、黒紫色の血が噴き出す。
そこから蠢き這い出てきたのは、脈打つ黒い肉塊に包まれた、不気味な触手の生えた石であった。
「私は……私は組織の最高幹部になる男だ! 組織から……幹部候補の証として授かった『最終兵器』……これさえ起動すれば……お前たちなど……!!」
「待て、マルクス! 」
アルディスが何かを察知して氷の刃を向けようとしたが、一足遅かった。
マルクスはその黒い魔石を、自らの口内へと力任せに押し込み、飲み込んだのだ。
ドクン…………ッ!!
心臓を直接叩いたような、重苦しい波動が周囲の空間を揺らした。
「ガハッ……!? あ……がっ……あぁぁぁぁぁぁッ!?」
マルクスの目がカッと見開かれ、眼球の白目部分が漆黒へと染まっていく。
次の瞬間、彼の体内から無数の黒い根のような触手、『寄生型黒石』の呪導線が、皮膚を破って爆発的に噴き出した。
「ひ、熱い……!? 体が……魔力が吸い上げられて……!? なんだこれは……何が起きているんだぁぁぁッ!?」
悲鳴を上げるマルクスの肉体を、彼が信奉していた魔石が内側から喰らい尽くしていく。
首から下を封印していたアルディスの氷が、内側から膨れ上がる圧倒的な異形の肉塊によって内破された。
肉を削ぎ、骨を砕き、マルクスの生命力と魔力を貪欲に吸い上げながら、黒い魔石は肥大化を続ける。
彼の右半身はすでに人間の形をとどめておらず、巨大な蠢く無数の触手が融合した、グロテスクな塊へと変貌していった。
『ヒヒ……ヒヒヒヒ……!! モット……魔力ヲ……生命ヲ……!!』
魔石から直接、おぞましい精神汚染の思念波が撒き散らされる。
「騙さ……れたのか……! 組織は……私に……最高幹部の力を授けたのでは……なかったのか……!?」
頭部だけを異形の肉塊の頂点に残したマルクスが、涙と血を流しながら絶望の叫びを上げた。
「私は……最初から……ただの……ただの『苗床』だったというのかーッ!!?? ガハッ……あぁぁぁ……ッ!!」
「マルクス様……!」
エルネは絶句した。
かつて王国学院学長として君臨し、栄華を極めた男。
今では権力と復讐に狂ったあまりにも無惨で、自業自得とはいえ凄惨な末路。
『ヒシャアアアアアッ!!!』
マルクスの生命力を完全に吸い尽くした暴走兵器は、彼の意識を塗りつぶし、眼前に立つアルディスとエルネを最優先の排除対象と認識して巨大な触手を振り上げた。
その触手の先端からは、先ほどの中和剤すら即座に無効化するような、超高濃度の魔石から出る瘴気が黒い霧となって噴出している。
「下がっていろ、エルネ! 今のあいつは、ただの暴走した魔物だ!」
アルディスが剣を構え、過保護全開でエルネを背後に隠す。
だが、暴走兵器が纏う黒い障壁は、四千メートルの水圧と融合し、アルディスの通常の氷結魔法を弾き返すほどの強度を誇っていた。
「くっ……障壁が硬い……! 水圧を利用して魔力を循環させているのか!?」
「いいえ、アルディス様! 違います!」
エルネがアルディスの背中から身を乗り出し、鑑定瞳で暴走兵器の全貌を凝視した。
情報解析能力が、極限の集中状態で限界突破する。
「あの魔石は、マルクス元院長の生命力を核にして、プラント内に残留していた『深海紫水晶』の超濃度の魔力を触媒に無限再生しています! 表面の黒い障壁を切り裂いても、魔力が供給される限り一瞬で再生してしまいます!」
「再生を上回る速度で凍らせるか?」
「それでは魔力比べになってしまいます! 弱点はあそこマルクス元院長の額の直下、肉塊の奥深くに埋もれている寄生魔石の導魔結節点です! あそこに養分、魔力が届かないよう、一瞬だけでも切り離した部分を作り出し、結節点だけを局所凍結させれば、暴走の連鎖は完全に崩壊するはずです!」
言葉の途中で、エルネは自らの調合ポーチから最後の一瓶、お手製の体力、魔力回復ポーションを取り出し、アルディスに渡した。
「アルディス様! もしものための最後の一本です。 飲んでください! そして、皆様の魔力のすべてを乗せて!!」
「わかった!」
アルディスの瞳に、絶対的な愛の光が宿った。
「来い……深海の悪夢よ! 私とエルネの愛の力をその身に刻め!!」
アルディスポーションを一気飲みして、脚の補強術式を爆発させた。
バババババァァァァンッ!!
残像すら残さぬ超神速の踏み込み。
暴走兵器が放つ無数の毒触手が、空を切って床や天井を粉砕する。
アルディスの足取りには、かすかな迷いすら存在しなかった。
「ハアァァァァァッ!!」
空中を滑るように肉塊の懐へと飛び込んだアルディスは、細身の剣を直線的に突き出した。
アルディスの持つ剣身が、暴走兵器の黒い障壁に触れた瞬間、周囲の魔力の結びつきが物理的に中和され、一筋の隙間が生まれた。
「そこです! アルディス様っ!!」
「おおおおお!」
ズバァァァァァァァァンッ!!!!
アルディスの剣先が、肉塊の奥深くに潜む『寄生魔石の導魔結節点』を捕らえた。
次の瞬間、剣から放たれたのは、これまでの氷結魔法とはことなる全てを包むよう球体であった。
ピキ……ピキキキキキキキキンッ!!
狂暴に蠢いていた無数の触手が、一瞬で動きを止めた。
黒い肉塊。
噴出していた毒の霧。
そして絶望に顔を歪めたままだったマルクスの頭部までもが、青白く澄み切った巨大な『永久不融の氷塊』の中へと封印されていく。
魔力の供給を絶たれた黒い魔石は、氷結晶の中心で成長できず、パキンと甲高い音を立てて木端微塵に砕け散った。
『ガ……ア……ッ……』
思念波の断末魔とともに、暴走兵器は完全に沈黙した。
残されたのは、水深四千メートルの闇の中で美しく、そして静かに輝く、巨大な蒼氷の記念碑だけであった。
全てが氷に飲まれ、遺跡ごと凍りついた城が出来上がった。
マルクスは、己の欲望と復讐の果てに、組織の捨て駒として永遠の氷の底に眠ることとなったのだ。




