第9話 解読された最悪のシナリオ
氷漬けにされたマルクスの背後で、培養槽のガラス壁が不気味な青紫色の光を明滅させていた。
アルディスの耳元に装着されたアトランティクス特製通信機から、カチカチと魔導計算機を叩く乾いた音が響き渡る。
『——聞こえるか、アルディス。シリルのサポートのもと、解読作業が完了した』
通信機から聞こえてきたのは、冷徹なまでに落ち着いたガルドの低い声だった。
先ほどアトランティクスの旧水路街で回収した『血天秤の蛇』の極秘文書と、反乱分子が残していった通信暗号を照合していたシリルが、決定的な事実に辿り着いたのだ。
『事態は思っていた以上に最悪だ』
「どういうことだ、ガルド?」
アルディスがエルネを左腕で抱き寄せ、過保護全開で庇いながら通信機に向かって短く問う。
ガルドの緊張した声が続いた。
『マルクスは、自らが悪の組織と対等な同盟を結び、己の復讐と権威のために陸と海の融合毒を開発していると思い込んでいたようだが……それは完全に彼の思い上がりだったみたいだ』
「思い上がり……?」
首から上だけを出して氷漬けにされているマルクスが、ギロリと目を剥いて通信機の魔導石を睨みつけた。
『暗号化された通信記録の全容を解読したところ……「血天秤の蛇」にとって、マルクスは最初からただの使い捨ての実験体に過ぎなかったようだ』
「な……何だと……!? 実験体だと……!?」
マルクスが掠れた声で叫ぶ。
『やつらの目的は、最初からマルクスの肉体と魔力を極限まで活性化させ、マルクス自身を「毒の核」と一体化させることだった。調合術式には、調整者の精神と肉体を蝕み、最終的に培養槽の素材に呑み込ませる呪導陣が組み込まれているそうだぞ』
「そんなバカな……! 私が……この私が利用されていたというのか!? 私は組織の最高幹部として迎え入れられる約束で——」
『黙れ! クソ野郎!』
ガルドの冷ややかな声が、マルクスの言葉を容赦なく切り捨てる。
『さらに最悪なのは、その「不始末」の処理方法。文書には【実験が成功しようと失敗しようと、成果物の回収完了と同時に、または外部からの侵入を検知した時点で、プラント内の自爆魔法陣を強制起動し、証拠を深海の底へ隠滅せよ】……と』
「自爆……隠滅だと!?」
通信の向こうでレオンが叫ぶ。
『外部から強力な氷魔力で廃プラントの隔壁を破壊して侵入したこと、そしてマルクス元院長が拘束されたことにより……すでに自爆プロトコルが自動起動しているはずだ!』
ブゥゥゥゥン……ブゥゥゥゥン……。
言葉を裏付けるように、プラント全体の天井に配置された赤い警告魔導石が一斉に不気味な点滅を始めた。
重厚な機械音が足元から響き渡り、四千メートルの水圧に耐えてきた施設全体が細かく震え始める。
『自爆発動まで、残り時間は恐らく十分を切ってらだろうと。爆発の規模はプラント全体を消滅させるだけでなく、充満した「融合毒」を一気に海全体へ飛散させるほどの威力だそうだ』
「そんな……っ!」
エルネが息をのむ。
「ク……クク……ハハハハハ!」
氷漬けのマルクスが、突如として壊れた器のように笑い出した。
顔の右半面の爛れた皮膚を歪ませ、血走った目でエルネとアルディスを交互に見つめる。
「見たか、エルネ! 私を笑いに来たお前たちも、ここで私と一緒に死ぬのだ! 失敗しても成功しても……世界は毒に包まれて滅びる! ハハハ、最高の死に場所ではないか!!」
「マルクス様……」
「絶望しろ! お前たちが誇る愛も知識も、この深海の圧力と爆発の前には何も残らんのだぁぁぁッ!!」
『アルディス、エルネ! 今すぐ脱出するんだ!』
通信機からガルドの叫びが上がる。
『アトランティクスの魔導士部隊が、アルディスにかけた身体強化魔法の余力を絞り出せば、二人だけであれば爆発の範囲外まで緊急退避できるはずだと言っている! 毒の核は惜しいが、まずは二人の命が最優先だ!』
『お兄様の言う通りですわ、エルネ様! 早く戻ってきてくださいませ!』
レオンとルチアの切実な声が響く。
アルディスは表情を硬くし、抱きしめているエルネの肩をしっかりと掴んだ。
「……エルネ。レオン王子の言う通りだ。俺の全魔力と強化術式を使えば、君を抱えてこの深海から脱出できる。……行こう」
アルディスがエルネを抱き上げようとしたその時。
「……いいえ、アルディス様」
エルネはそっとアルディスの胸に手を当て、首を静かに横に振った。
「エルネ……?」
「逃げるわけにはいきません。……ここで私たちが逃げたら、このプラントが爆発して、中に溜まった大毒素が海を通じてアトランティクス全体へ……そして陸の王国へまで広まってしまいます」
エルネの瞳には、逃亡や諦めの色は一切なかった。
真っ赤に点滅する不気味な警告灯の光を浴びながらも、彼女の瞳は、透明で澄み渡るような決意に満ちあふれていた。
「私には見えます。あの培養槽の奥にある自爆魔導陣の波長と……『死蝕の黒蓮』と『深海紫水晶』が結びついている核の歪みが」
エルネは自分の胸元、アルディスから贈られた『星紡ぎの月見草』の藍色魔石に一度触れると、氷漬けの培養槽へと向き直った。
「鑑定士として、素材を愛する者として……私はこの毒を野放しにはしません。残り十分……いいえ、十分もあれば十分です! 私がこの毒の核を中和し、自爆の連鎖を断ち切ってみせます!」
「……わかった。君がそう決めろと言うのなら、俺は命に代えても君とこの場所を守り抜く」
アルディスは一切の迷いを捨て、鋭い眼光で迫り来る崩落の破片を見据えた。
「自爆発動まで残ら僅かだ! エルネ、指示を!」
「はい! 『死蝕の黒蓮』の毒素と『深海紫水晶』が、自爆魔法陣の暴走魔力を触媒にして増殖しています! この二つの魔力結び目を断ち切るには、アルディス様の力をかりて極低温で中和させる必要があります!」
エルネはアルディスが運んできたいつもの調合ポーチの中から、王国で作ってきた 『死蝕の黒蓮』の解毒薬と、アトランティクスで手に入れた希少な水の魔石を素早く取り出した。
「アルディス様! まずは私の持つ瓶に、氷魔力を極限まで絞って注ぎ込んでください! 凍らせるのではなく、薬液自体を細かい雪のように結晶化させるのです!」
「任せろ!」
アルディスがエルネの手元にある薬瓶へ指先を向けた。
彼が纏うアトランティクスの多重強化魔法と、絶対零度の氷魔力が融合し、青白い閃光となってフラスコを包み込む。
シュワァァァァッ……!
アルディスの緻密極まりない魔力制御。
常識ではあり得ない深海での過酷な即興調合が、二人の揺るぎない絆によって凄まじい精度で進められていく。
「ありがとうございます! この結晶を増やします!」
エルネはポーチの中から大きなワインボトルのようなものを取り出し、液体と薬草を調合し始めた。
だが、自爆プロトコルの進行に伴い、廃プラントの崩壊は苛烈を極めていた。
ゴゴゴゴゴガァァァァンッ!!
天井から数トンの重量を持つ古代の鉄骨と巨大な石材が、四千メートルの水圧を伴ってエルネの頭上へ牙をむいて落ちてくる。
「君には……一片の塵すら触れさせん!!」
アルディスが右手を掲げ、咆哮した。
ズバァァァァァンッ!!!!
巨大な氷のドームがエルネを覆うように展開され、落ちてきた瓦礫を力任せに跳ね返す。
さらにアルディスは、プラントの外壁から浸水してくる黒い毒素の濁流に向かって両手を広げた。
「凍れぇぇぇッ!!」
アルディスの身体から放たれた極寒の波が、プラント内部を駆け巡る。
壁の亀裂、崩れる天井、暴走する毒の配管——そのすべてが瞬く間に分厚い氷で固定され、物理的な崩壊の連鎖が力技で停止せしめられた。
「くっ……あぁっ……!」
しかし、いくら身体強化魔法をかけられているとはいえ、四千メートルの水圧と施設全体の崩落を一人で支える負荷は絶大だ。
アルディスの口元から血が伝う。
『アルディス殿! 持ちこたえろ!!』
通信機からレオンの叫びが響く。
『アトランティクスの宮廷魔導士隊! 全員、遠隔魔力パスをアルディスへ集中させろ! 陸の公爵一人に我が国の海を守らせてたまるかッ!!』
『——了解!!』
通信越しに、五十名の宮廷魔導士たちの必死の詠唱が重なって聞こえてくる。
『アルディス様、絶対にエルネ様と生きて戻ってきてくださいませ!』
『みんなで魔力を送りますわ! 負けないでアルディス様!!』
ルチアとセシリアの切実な祈りが、通信魔導石を通じてアルディスのもつ魔道具へと眩い光を供給する。
「……感謝する、海の国の魔導士たちよ!」
アトランティクス全土の想いを受け取ったアルディスの全身から、再び眩い蒼光が爆発した。
崩れかけた深海プラントが、完全に氷の城郭へと姿を変えていく。
集中して作業をするエルネは、全てをアルディスに任せ、信頼しているためその様子にも気がついていないようだった。
エルネが調合を終えたのボトルに解毒薬の結晶を入れると、中の液体がうっすらと輝き出した。
「アルディス様……できました! 『冷晶中和弾』の完成です!!」
エルネの手元で、深みのある蒼銀色に輝く美しい結晶薬が完成していた。
「自爆まであとどれくらいなのか……。これをあの毒の核の物理的中心へ撃ち込みます!」
「よし……道は俺が拓く!!」
アルディスが細身の剣を構え、氷漬けの培養槽の最奥不気味に脈打つ毒の核へと真っ直ぐに視線を定めた。
エルネはその隣に立ち、ボトルをしっかりと両手で握った。
「あそこへ向かいます!」
二人の最後の悪あがきが始まろうとしていた。




