第五章:泥濘の祈祷 [第六十話]継承される盾
(視点:稲美 先生)
ドゴォォォンッ!!
医療スペースの分厚い鉄扉が、
外からの凄まじい衝撃で、ミシリと嫌な音を立てて歪んだ。
「ひっ……!」
傍でガーゼを握っていた奈々ちゃんが、
短く悲鳴を上げて肩をすくめる。
「奈々ちゃん、手元を止めないで!
クーパー(医療用ハサミ)を渡して!」
「は、はいっ!」
私は震えそうになる自分の手を必死に抑え込み、
手術台の上に横たわる、
血まみれの少女――沙耶の傷口に意識を集中させた。
扉の向こうからは、
間断なく発砲音と、重い金属が激突する音、
そして、獣のような不気味な呻き声が響いてくる。
外に残ったSDFの山口一曹と、恭二くんたちが、
未知のバケモノを相手に、
この扉を死守してくれているのだ。
『……民間人を守るのが……自衛隊の、任務だァァァッ!!』
壁越しに、
山口一曹の、血を吐くような凄絶な咆哮が聞こえた。
彼が今、命を削って時間を稼いでくれていることが、
痛いほどに伝わってくる。
(早く……私が早く、この子の処置を終わらせなきゃ……!)
私は焦る心を落ち着かせ、
沙耶の全身を覆う凄惨な裂傷の縫合を急いだ。
だが。
彼女の傷を診れば診るほど、
私の『医師としての常識』は、完全に崩壊しかけていた。
全身の至る所が深く切り裂かれ、
本来なら、失血性ショックで即死していてもおかしくない状態だ。
にもかかわらず。
ピッ、ピッ、ピッ、と。
心電図モニターは、
弱々しくも、決して途切れることのない生命の鼓動を刻んでいる。
それどころか。
沙耶の深くえぐられた傷口から、
微かな白い湯気のようなものが立ち上り、
むき出しになった赤い筋肉の繊維が、
まるで自らの意志を持っているかのように蠢き、
ゆっくりと傷口を塞ごうとしていたのだ。
(細胞が……自ら修復しようとしている……?
そんなこと、人間の体で起こり得るの……?)
しかし、
傷が塞がろうとするその驚異的な生命力に対して、
それを支える体内の血液が、圧倒的に足りていない。
顔面は蝋人形のように蒼白で、いつ心不全を起こしてもおかしくない。
(ダメ、ここで血圧を下げたら終わる……!
止血を最優先して!)
私が新たな縫合糸を手に取った、
その時だった。
ブチャッ……!!
扉の外から、
大量の肉と血が潰れるような、ひどく嫌な音が響いた。
同時に、
「山口一曹ォォッ!!」という、
恭二くんたちの悲痛な絶叫が、廊下にこだまする。
「……あ……」
奈々ちゃんの顔から、さぁっと血の気が引いた。
私も、呼吸を止めた。
壁の向こうで私たちの盾となってくれていた圧倒的な防壁が、
たった今、突破されたのだ。
ギシッ、……ミシィッ……。
分厚い医療スペースの鉄扉が、
外から押し破られようと、不気味な軋み音を立て始めた。
「嫌ぁっ……来ないでっ!」
奈々ちゃんが沙耶を庇うように、その小さな体に覆い被さる。
「奈々ちゃん、離れなさい!」
私はメスを逆手に握り直し、
扉と手術台の間に立ち塞がった。
ガァァァンッ!!
扉のヒンジが、ついに耐えきれずに弾け飛んだ。
歪んだ扉の隙間から、
シューシューと高温の蒸気を吐き出す、
どす黒い筋肉で膨れ上がったバケモノの腕がねじ込まれる。
(……ここまで、なの……?)
私が絶望に目を瞑りかけた、
その瞬間だった。
ズドンッッ!!!
鼓膜を完全に破壊するような、
凄まじい発砲音が、廊下側で炸裂した。
「……アァ、ァ……?」
ねじ込まれていたバケモノの腕が、
びくっと痙攣し、そのままズルリと扉の向こうへ滑り落ちた。
「班長! あんたこんなとこで終わる玉かよ!!」
歪んで半開きになった扉の向こう。
もうもうと立ち込める硝煙の中から、
若い男の切羽詰まった怒声が響いた。
ズザァァァッ! と。
床を強く擦る音と共に、
血まみれで倒れ伏す山口一曹の体が、背中側の襟首を強く引っ張られ、
扉の隙間から医療スペースの内側へと強引に引きずり込まれる。
「先生! まだ生きてる!!」
山口一曹の襟を鷲掴みにしたまま私に向かって叫んだのは、
返り血で泥沼のようになった戦闘服を着た、
SDFの若い隊員だった。
「陣内さん……! 外の警戒任務だったのでは……!?」
背後の廊下から、
右腕をだらりと下げた恭二くんが、驚愕の声を上げて敬語で叫ぶ。
陣内と呼ばれたその若い隊員は、
左手に握った『即席の長槍』――鉄パイプの先端にサバイバルナイフを固定した得物を脇に抱え、
右手で持った散弾銃を「ガシャッ」とポンプした。
「いやー、パトロールから戻ったら、
とんでもないことになってるじゃないスか」
彼は先ほどの必死な様子から一転して、
いつもの少し気の抜けたような、飄々とした口調でそう嘯いた。
だが、その瞳の奥には、どす黒い怒りの炎が燃え盛っている。
「恭二くん、正人くん! 班長を奥へ!」
陣内さんの指示に、
恭二くんと正人くんが激痛に耐えながら駆け寄り、
山口一曹の体をさらに安全な部屋の奥へと運んでいく。
「さてと」
背後の安全を確保した陣内さんが、
長槍を構え直す。
通路の奥から、
シューシューと異常な高温の蒸気を吹き出しながら、
残る二体のバケモノが壁を蹴って殺到してきた。
「陣内さん、気をつけてください!
そいつら、撃たれても痛みを感じないから避けません!
頭か関節を完全に破壊しないと止まらないんです……!」
恭二くんの必死のアドバイスに、
陣内さんはフッと口角を上げた。
「痛みを感じない? 避けない?
……上等っスね。
わざわざ的のほうから当たりに来てくれるなんて、最高じゃないスか」
直後、
一体目のバケモノが、分厚い刃物を振りかぶって陣内さんに迫った。
陣内さんは全く怯むことなく、
自衛隊の『銃剣道』の構えから、
電光石火の踏み込みで、長槍を前方に突き出した。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に放たれた、神速の刺突。
ナイフの切っ先が、バケモノの右肩関節の隙間に、
寸分の狂いもなく深々と突き刺さる。
「まずは片腕」
陣内さんが槍の柄を思い切り捻ると、
ゴキィッ! という硬い音と共に、バケモノの肩関節が完全に外れた。
だが、バケモノは痛覚を持たない。
片腕をぶら下げたまま、異常な熱を発して殴りかかろうとする。
「からの、害獣駆除」
陣内さんはすでに、右手一本で散弾銃の銃口を、
バケモノの顎下に押し当てていた。
ズドンッッ!!!
ゼロ距離で放たれたスラッグ弾が、
バケモノの頭部を、防毒マスクごとスイカのように消し飛ばした。
首から上を失った巨体が、ドサリと床に崩れ落ちる。
「あと一体。
……さて、害獣駆除の延長戦と行きますか」
血の海と化した廊下で、
陣内さんは瞳の奥に静かな怒りを燃やしながら、
残るバケモノに向かって、自ら一歩前へ踏み出した。




