第五章:泥濘の祈祷 [第五十八話]砕け散る防衛線
「医療スペースへ走れ!!
何としても、沙耶の部屋を死守しろォッ!!」
小林先生の怒号と同時に、
俺と正人はエントランスロビーに背を向け、
奥へと続く太い廊下へ向かって全速力で駆け出した。
目指すのは、
ロビーと仮設医療スペースを繋ぐ、
幅三メートルほどの直線通路の入り口だ。
広いロビーで囲まれては勝ち目がない。
この狭い廊下の入り口を「栓」のように三人で塞ぎ、
医療スペースへ向かう狩人たちをここで全て食い止める。
「来るぞ! 構えろ!」
小林先生が廊下の入り口の中央に陣取り、
ハンドガンを構える。
俺と正人がその両脇を固め、前衛の陣形を組んだ。
「……アァァ……、……グルルル……ッ」
直後、
スタングレネードの白煙の奥から、
獣のうねり声と、人間のくぐもった呻き声が混ざったような、
ひどく不気味な音が響いてきた。
姿を現した『それ』を見て、
俺は背筋に氷柱をぶち込まれたような悪寒を覚えた。
全身を黒ずくめのタクティカルギアで覆っているが、
強制強化された筋肉が異常に肥大化しており、
服のあちこちが内側からはち切れそうに膨張している。
顔面は無機質な防毒マスクで完全に覆われており、
表情は一切読み取れない。
だが、そのマスクの隙間から、
シューシューと、異常な量の『湯気』が噴き出していた。
体内の細胞を、限界を超えて強制稼働させている証拠だ。
周囲の空気が、あからさまに熱を帯びていく。
「撃つぞ!」
小林先生のハンドガンが火を噴き、
先頭の狩人の腹部を正確に撃ち抜いた。
黒い服が弾け、どす黒い血が飛び散る。
だが、
狩人は、一切の回避行動を取らなかった。
銃声に怯むこともなく、
撃たれた傷口を押さえることすらしない。
銃という兵器の仕組みを理解する知性も、
死を恐れる自己保存本能も、すでに完全に焼き切れている。
ただ【標的】へと突き進むためだけに駆動する、
熱暴走した肉の塊。
「ここは、通さねぇッ!」
痛覚を無視して一直線に突っ込んできた狩人が、
分厚いマチェット(山刀)を力任せに振り下ろす。
正人が踏み込み、
愛用の鉄パイプをフルスイングで下からカチ上げた。
ガキィィィンッ!!
金属同士が激突する、鼓膜を破る轟音。
正人の一撃は狩人のマチェットを正確に捉え、
その手首の骨ごと、天井へ弾き飛ばした。
だが。
「……なっ!?」
狩人は武器を失い、
手首が奇妙な方向にへし折れたことなど全く意に介さず、
そのままの勢いで正人の首元へ飛びかかってきた。
「正人!」
俺は砕けかけた右拳をあえて鈍器のように振りかぶり、
空中にいる狩人の胴体へ、
捨て身の体当たりをぶちかました。
ゴシャッ、と、
右腕が完全にスクラップになる音がした。
激痛で目の前が真っ白になる。
だが、その執念の一撃で狩人の軌道がわずかに逸れ、
壁に激突して体勢を崩す。
「そこだァッ!」
後方から、
小林先生が連続で引き金を引いた。
放たれた弾丸が、狩人の両膝の関節と、頭部を物理的に粉砕する。
ビタンッ、と。
脳と運動器官を破壊された狩人が、ついに床に崩れ落ちた。
だが、死闘は終わらない。
「……なんだ、この熱は……っ!?」
床に倒れ、完全に機能停止したはずの狩人の死体から、
むせ返るような熱気と、肉の焦げる異臭が立ち上り始めたのだ。
死んでなお、暴走した細胞が自己修復を試みているかのように、
異常な発熱を続けている。
呼吸をするだけで、肺が焼けるように熱い。
その異常な熱気と死臭の向こうから。
ヒュンッ、ヒュンッ、と。
風を切るような速度で、
壁や天井を這い回る後続の二体の狩人が、
俺たちの頭上と壁の隙間を縫うようにすり抜けていった。
「しまっ……! 抜かれた!!」
俺が叫んで振り返ろうとするが、
次々と迫り来るロビー側の敵に阻まれ、
持ち場を離れることができない。
湯気を吹き出す黒い影は、人間離れした速度で廊下を駆け抜け、
沙耶と奈々たちがいる、
十メートル先の医療スペースの扉へと一直線に迫っていた。
(視点:山口 一曹)
「……来い。バケモノ共」
医療スペースの分厚い扉。
その後ろには、昏睡状態の少女たちと、丸腰の民間人がいる。
私はその扉を背にし、
アサルトライフルを構え、
十メートル先の廊下の入り口で死闘を繰り広げる小林元三佐たち越しに、
暗い廊下の先をじっと見据えていた。
私の戦い方は、小林元三佐のように派手なものではない。
自衛隊の教本に忠実な、
極めて合理的で無駄のない近接戦闘(CQB)。
扉という最も狭い進入路に陣取り、
前衛を抜けてきた敵に対して、
正確な三点バーストを浴びせて確実に削り落とす。
銃床を肩に強く押し当てながら、
私の脳裏には、
この地獄が始まってからの吐き気のするような光景が、
フラッシュバックしていた。
『俺たちは真面目に税金を払ってきたんだ!』
『多数決で食い物をよこせ!』
先ほどまでロビーで喚き散らしていた、
身勝手な民間人たちの顔。
彼らは、安全な壁の内側で権利を主張するだけで、
決して自ら血を流そうとはしない。
そのくせ、誰かが命懸けで手に入れた物資だけは、
自分たちの当然の権利として貪ろうとする。
そして、もう一つの顔。
『民間人の不満を抑えるためだ。
自衛隊の威信にかけ、至急、食糧を確保せよ』
通信機越しに響く、
分厚いコンクリートの地下壕に引きこもった上層部の声。
現場がどれほどの地獄か。
外を徘徊する脅威が、いかに従来の兵器を凌駕しているか。
そんな現状を一切理解しようとせず、
古いマニュアルとメンツだけで無謀な命令を下す、無能な幹部たち。
身勝手な民間人と、
現場を知らない上層部。
私は、この国を守るために自衛官になったはずだった。
だが、いざ地獄の蓋が開いてみれば、
私が命を懸けて守らなければならないのは、
そんな醜い大人たちのエゴばかりだった。
……うんざりだ。
こんな世界に、守る価値などあるのか。
絶望に呑まれそうになったことは、一度や二度ではない。
だが。
「……アァァ……ッ!」
前衛の防衛線をすり抜けた二体の狩人が、
獣のような呻き声と異常な熱気を伴って、
一直線にこちらへ飛び出してくる。
「……ッ!」
私は一切の感情を排し、
引き金を引いた。
タタタンッ! タタタンッ!
教本通りの、完璧な制圧射撃。
放たれた5.56ミリ弾が、
先頭の狩人の胸部と腹部を正確に捉える。
血飛沫が舞う。
だが。
「……なっ!?」
狩人は、その異常な前進速度を全く落とさなかった。
被弾の衝撃すら無視し、
銃弾を避けようともせず、ただ標的を目指して距離を詰めてくる。
マニュアル通りの合理的戦術など、
この狂ったバケモノたちには一切通用しない。
カチッ。
無情にも、弾倉が空になった音が響く。
再装填の時間は、ない。
「舐めるなァッ!!」
私は空になったライフルを鈍器として構え直し、
襲い来る狩人の腕の前に、
自らの肉体を、盾として投げ出した。




