第五章:泥濘の祈祷 [第五十七話]白煙の急襲
(視点:新井 恭二)
「俺が、ルールを決める」
小林先生のその低く、
しかし絶対的な重みを持つ一言が、
エントランスの喧騒を完全に凍りつかせた。
鼻血まみれの竹本が、
すがりつくように小林先生へと向き直る。
「せ、先生! あんたも大人だろ!
このクソガキどもが食糧を独占して……っ!」
「黙れ」
ドゴォッ! と。
小林先生の軍靴が、アスファルトの床を踏み抜くように鳴った。
ただそれだけの動作で、
竹本は首を絞められたように言葉を失い、
その場にへたり込んだ。
小林先生は竹本たち避難民を見下ろし、
氷のように冷たい声で言い放つ。
「安全な壁の裏で震えていただけの人間が、
どの口で『権利』を語る。
あの二十五トンの物資は、一人の少女が全身の血と引き換えに持ち帰ったものだ。
多数決で奪い取る権利など、お前たちには一ミリもない」
「そ、そんな……! じゃあ俺たちは飢え死にしろって……」
「分配はする」
小林先生の言葉に、
絶望しかけていた大人たちが顔を上げる。
「だが、配分と管理は俺たちで行う。
お前たちには、物資の運搬やバリケードの補強など、
食うための『労働』を強制する。
……それが不満なら、今すぐ手ぶらで外へ出て行け」
有無を言わせぬ、
生存のための絶対条件。
死の恐怖を突きつけられた大人たちは、
誰一人として反論できず、青ざめた顔で押し黙った。
小林先生は次に、
銃を構えたままの黒田一尉へと視線を向ける。
「……黒田一尉。
非常事態の軍法会議ごっこはそこまでにしろ」
「小林元三佐。
いくらあなたの言葉でも、我々SDFの任務は……」
「あんたの部隊の残弾は、あと何発だ?」
小林先生の鋭い指摘に、
黒田一尉の眉間がピクリと動く。
「……ここで民間人を相手に発砲し、暴動を起こせば、
あんたたちの部隊は内側から崩壊する。
仮に制圧できたとしても、
銃声を聞きつけた外のバケモノの群れを、その残弾で捌き切れるのか?」
「…………ッ」
「軍としての合理性を重んじるなら、銃を下ろせ。
俺が民間人の首輪を握る。
その代わり、SDFには最優先で必要な物資を回す。
……この避難所を維持するための、最も現実的な妥協案だ」
小林先生から放たれる、
歴戦の戦術家としての圧倒的なプレッシャー。
数秒の重い沈黙の後、
黒田一尉は舌打ちと共に、アサルトライフルの銃口を下ろした。
「……SDFはこれより、周囲の警戒任務に戻る。
山口一曹、部隊を引け」
「はっ!」
軍靴の音と共に、SDFがロビーから下がっていく。
避難民のエゴも、軍の論理も。
小林先生という圧倒的な『暴力と知性』の前に、
完全にねじ伏せられたのだ。
重苦しい静寂が、
ロビーにようやく戻ってきた。
「先生……! 恭二!!」
静まり返ったその空間で、
せき止めていたものが決壊したように、
康二の悲痛な叫びが響き渡った。
「康二! どうした、そんなに顔を青くして」
俺が駆け寄ると、
康二は俺の腕を強く掴み、
ガチガチと歯の根を鳴らしながら叫んだ。
「外の争いどころじゃない……!
来てるんだ! すぐそこまで!!」
「来てるって……バケモノの群れがか?」
「違う! 人間だ!
でも、普通の人間じゃない……!
肉体を強制強化された『狩人』の部隊が、
真っ直ぐにこの市役所に向かってきているんだ!」
「なんだと……!?」
小林先生の顔色が変わる。
「標的は……SAYAって暗号化されてた!
あいつら、沙耶を狩りに来たんだよ!!」
俺と正人の背筋に、
氷柱をぶち込まれたような悪寒が走った。
あの絶望的な生存能力を持つ沙耶を、
ピンポイントで『狩り』に来る連中。
それが今、
沙耶が昏睡状態で倒れているこの市役所に迫っている。
「全員、壁から離れろォッ!!」
小林先生が、
喉が裂けるほどの声で怒号を発した。
直後。
パァァァァンッッ!!!
市役所の一階の窓ガラスが、
全方位から一斉に吹き飛んだ。
「きゃあああああっ!?」
「うわああああっ!」
鼓膜を破るほどの爆音と閃光。
スタングレネード(閃光音響手榴弾)だ。
目が眩み、
ロビーにいた避難民たちが次々と床に転げ回る。
もうもうと立ち込める白い煙の向こうから、
『それ』は音もなく侵入してきた。
「敵襲ゥッ!!」
ロビーの奥で警戒に当たっていた山口一曹が叫び、
アサルトライフルの引き金を引く。
タタタタタタタタッ!!
火線が煙を切り裂く。
だが、その弾丸は敵を捉えなかった。
「な……っ!?」
山口一曹の驚愕の声。
煙を突き破って飛び出してきた完全武装の男たちは、
天井の梁や壁を蹴り、
まるで蜘蛛のような異常な軌道と速度で、
銃弾の雨を易々と躱していたのだ。
人間の骨格構造を完全に無視した、
バケモノじみた跳躍力。
「……嘘だろ」
俺は、
折れた右拳を庇いながら呆然と呟いた。
「恭二! 正人! ぼさっとするな!」
小林先生がハンドガンを抜き放ち、
迫り来る黒い影に向けて連射する。
「医療スペースへ走れ!!
何としても、沙耶の部屋を死守しろォッ!!」
沙耶は、今、目を覚まさない。
圧倒的な力を持つ敵を前に、
俺たちの、絶望的な防衛戦が幕を開けた。




