第五章:泥濘の祈祷 [第五十六話]見えない足音
(視点:新井 恭二)
「ふざけるなッ!!!」
俺の怒声と共に、
亀裂骨折した右拳が竹本の顔面を捉えた。
ゴルッ、と骨の潰れる嫌な感触。
「……っあ、ぐえっ!?」
竹本は無様な悲鳴を上げて派手に吹っ飛び、
アスファルトの上を転げ回った。
「い、痛え……! 殴りやがったな……!」
竹本は鼻から盛大に血を吹き出していたが、
ふらつきながらも立ち上がると、
その血まみれの顔をあえて拭おうともせず、
大袈裟に両手を広げてみせた。
「皆さん、見ましたかァッ!!」
ロビーに響き渡る、けたたましい絶叫。
竹本は俺を指差し、芝居がかった身振りで演説を打ち始めた。
「これが奴らの本性だ!
少しばかり外の化け物と戦えるからといって、自分たちを特別な特権階級だと勘違いしている!
挙句の果てには、こうして善良な市民に暴力を振るい、力で俺たちを支配しようとしているんだ!」
「……っ、てめぇ……!」
俺が再び踏み出そうとするが、
竹本の言葉に呼応するように、避難民たちの目が明確な敵意を帯び始めた。
「俺たちは真面目に税金を払ってきた一般市民だ!
この非常事態において、あの二十五トンの食糧は、この避難所にいる全員の共有財産だろうが!
それを独占する権利なんて誰にもない! 民主主義の基本、多数決で平等に配分されるべきなんだ!!」
竹本の声に熱がこもる。
飢えとストレスで限界を迎えていた大人たちが、
その都合の良い「正義の言葉」に次々と酔いしれていく。
「そうだ! あの食い物はみんなのものだ!」
「野蛮なガキどもに独占させるな!」
「俺たちの権利を取り戻せェッ!!」
「そうだァ! 立ち上がれ皆の衆!」
竹本が鼻血を撒き散らしながら拳を突き上げる。
俺の怒りの一撃が、最悪の形で連中を「正義の暴徒」として団結させてしまった。
一触即発。
興奮した群衆が、暴力で俺たちを排除しようと押し寄せてくる。
「……触るな」
地を這うような低い声と共に、
正人が俺の隣に歩み出た。
ズリ、ズリ……と。
アスファルトに鉄パイプを擦りつけながら、
正人は一切の感情を消した目で、狂騒する群衆を睨みつけた。
「沙耶の血で贖った糧を……お前らの薄汚いエゴで汚させるか」
正人がゆっくりと鉄パイプを構える。
「食糧に触る奴は、殺す」
純度百パーセントの殺気に、
暴徒化しかけていた大人たちが悲鳴を上げて後ずさりした。
「……そこまでだ」
チャキッ。
冷たい金属音が、静寂を引き裂いた。
「民間人同士の殺し合いなど、見過ごすわけにはいかない」
群衆を割って現れたのは、
アサルトライフルを構えた黒田一尉とSDFの部隊だった。
「く、黒田一尉! 助けてくれ!」
「暴動を確認した。現在、藤沢市は非常事態宣言下にある」
すがりつく竹本を冷酷に見下ろし、
黒田一尉がロビー全体に響く声で言い放つ。
「よって我々SDFが、
この二十五トンの物資を全て接収し、厳重に管理する」
「……なんだと!?」
竹本の顔から血の気が引いた。
「ふざけるな! 俺たち市民の多数決で配るのが当然だろ!」
「我々は軍だ。民間人の多数決など知らん」
避難民の都合の良いエゴ。
SDFの絶対のルール。
そして、俺と正人の譲れない怒り。
血まみれの沙耶が奥で生死を彷徨っているというのに、
大人たちはここで、醜い所有権争いを始めている。
「みんな! 外の争いどころじゃない……!!」
そこへ、
息を切らした康二が飛び込んできた。
顔は異常なほど蒼白で、靴も半分しか履いていない。
「お願い、聞いて!
すぐそこまで、とんでもない奴らが……!」
康二が必死に叫ぶ。
だが。
「軍の独裁反対!」「銃を下ろせ!」「権利の侵害だ!」
竹本に扇動された暴徒たちの怒号が、
康二の悲痛な声をいとも簡単にかき消してしまった。
外からは未知の精鋭部隊が迫り、
内側では人間同士が銃を向け合う。
ここは、正真正銘の地獄だ。
「……全員、その減らず口を閉じろ」
爆発寸前の喧騒の中。
低く鋭い声が、全員の心臓を鷲掴みにした。
振り返ると、
エントランスの入り口に、小林先生が立っていた。
元・特殊作戦群の男から放たれる、
圧倒的なまでの武力と威圧感。
そのプレッシャーが、暴走する場を強制的に凍りつかせる。
「俺が、ルールを決める」
小林先生のその一言が、
屍の上の狂宴に、絶対的な冷や水を浴びせた。




