【断章:灰色の日常に灯る火⑦】
夕刻の配給が終わり、藤沢市役所のロビーには、プラスチックの器が触れ合う虚しい音と、
人々の低く抑えられた呻きのような雑談が漂っていた。
この日のメニューは、いつにも増して「効率的」だった。
具材の姿をほとんど留めていない、白濁とした薄い塩味のスープ。
栄養士が計算した最低限のカロリーは含まれているのだろうが、
そこには「食欲」をそそる要素は微塵もなかった。
ただ、命を繋ぎ止めるための無機質な燃料。それが、彼らに与えられた現実だった。
拠点の隅で、沙耶は無言でそのスープを口に運んでいた。
彼女にとって、食事とは機体をメンテナンスする油のようなものだ。
味が薄かろうが、見た目が灰色だろうが、細胞が活動を維持できればそれでいい。
だが、その隣に座る桜は、自分の器をじっと見つめたまま、何かを迷っているようだった。
「……毒でも入っているのか」
沙耶がボソリと問いかける。桜は一瞬驚いたように顔を上げ、やがて悪戯っぽく微笑んだ。
「ううん、違うよ。……ちょっとだけ、魔法をかけようかなって思って」
桜は、古びたパーカーの深いポケットから、掌に収まるほどの小さなガラス瓶を、
壊れ物を扱うように慎重に取り出した。
それは、前回の探索で廃墟となったスーパーの棚の隅、誰にも見向きもされず、
瓦礫に半分埋もれていたものだった。
瓶の中には、乾いた鮮やかな緑色の粒が半分ほど残っている。
――乾燥パセリだ。
「……何だ、それは。ただの乾燥した植物の断片か」
「そうだよ。でもね、これがあるだけで全然違うんだから」
桜は瓶の蓋を回し、自分の器、そして沙耶の器の上で、パラパラと数粒の緑を落とした。
灰色のスープの表面に、小さな緑の星が散る。
たったそれだけのことで、死んだように沈んでいた汁物が、
不意に「料理」としての表情を取り戻したように見えた。
沙耶は、自分の器の中に浮かぶ緑の粒子を、分析するように凝視した。
「……香りが、変化した」
「そうでしょ? 鼻をくすぐるこの感じ。……いただきます」
桜が一口、スープを啜る。その表情が、さっきまでの疲れを忘れたように、ふんわりと和らいだ。
沙耶も、促されるようにスプーンを動かした。
口の中に広がるのは、相変わらずの薄い塩味だ。
しかし、そこに微かな、しかし鮮烈な植物の苦味と、爽やかな芳香が混じる。
たった数ミリグラムの乾燥パセリが、舌の上の味蕾を、そして眠っていた彼女の感覚を、
鋭くノックした。
「……味が、変わった。なぜだ。化学的な組成には、熱量に影響するほどの大きな変化はないはずだ。
満腹感に寄与するデータも、誤差の範囲内に過ぎない」
沙耶の真剣な「演算」に、桜は堪えきれずに吹き出した。
「あはは、沙耶ちゃん。それはね、栄養を摂ってるんじゃなくて、心を温めてるんだよ」
「心を、温める?」
「そう。明日も頑張ろうとか、美味しいねって思う気持ち。
それが一番の隠し味なの。
このパセリはね、ただの植物じゃなくて
『私たちはまだ、美味しいものを食べる権利があるんだ』っていう、おまじないなんだよ」
桜は瓶の蓋を閉め、再びポケットの奥深くへ、宝物を隠すように戻した。
過酷な現実。
奪われる食糧。
そして、自分たちを「化け物」や「泥棒」と呼びたがる人々の悪意。
そんな泥のような日々の中で、桜はこうして、
誰にも奪われない小さな「魔法」を必死に守り続けていたのだ。
沙耶は、再びスープを口にした。
緑の粒を舌の上で転がす。
それは確かに、施設で与えられていた合成栄養剤には存在しない、
不確かな、しかし強烈な「生の味」だった。
沙耶は、自分には到底真似できない、桜のこの「強さ」を思った。
敵を殺し、壁を越えるための強さではない。
絶望の中でパセリの色に感動し、スープ一杯に魔法を見出すための、魂の強さ。
沙耶は、器に残った最後の一滴まで、パセリの欠片と共に飲み干した。
「……悪くない。……次は、私がその瓶を見つけてこよう。もっと、多くの『魔法』を」
「うん、約束だよ。沙耶ちゃんが選んだスパイス、楽しみにしてるね」
ロビーの隅、冷たいコンクリートの上で、二人の少女の間にだけは、
わずかなハーブの香りと春のような温かな空気が流れていた。
それは、どんな高度な戦術理論よりも深く、沙耶の心に「守るべきもの」の味を刻み込んでいた。




