【断章:灰色の日常に灯る火⑥】
藤沢市役所の地下駐車場へと続く、長く、急なコンクリートのスロープ。
そこは排気ガスの煤と、結露した湿気が混じり合い、常にカビ臭い沈黙が淀んでいる場所だった。
非常用発電機の重低音が壁を伝って絶え間なく響き、日常と戦場の境界線を曖昧にさせている。
山口一曹による、死線を想定した苛烈な訓練が終わった直後のことだ。
恭二と正人は、泥と油にまみれたタクティカルウェアを纏ったまま、
そのスロープの最下部にへたり込んでいた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、肺は酸素を求めて焼けるように熱い。
普段ならそのまま動けなくなるまで横たわっているところだが、
その日の二人の間には、妙な熱が溜まっていた。
「……なぁ、恭二。山口さんのしごき、今日は一段とキツかったな」
正人が、額の汗を汚れた袖で拭いながら、暗いスロープの先を見上げた。
地上へと続くその道は、出口の見えない奈落のようにも、あるいは唯一の希望のようにも見えた。
「ああ……。あの人の『あと一回』は、だいたい十回の意味だからな」
恭二は、重い防刃ベストの締め付けを少しだけ緩め、荒い呼吸を整えた。
「でもよ……このまま寝床に戻るのも、なんか癪じゃないか? 俺たちの身体、まだ動こうとしてるぜ」
恭二の瞳に、悪戯な光が宿る。
それはかつて、放課後の校庭で意味もなくボールを追いかけ、
夕暮れまでふざけ合っていた頃の、あの向こう見ずな少年の輝きだった。
「いいか、正人。ルールは単純だ。ここからスロープの一番上まで、どっちが早く駆け上がれるか。
……フライングはなし。負けた方は、明日の配給の水、半分譲る。どうだ?」
「はっ、受けて立つよ。お前こそ、最近『リーダー』なんて呼ばれて、
少し身体が重くなってんじゃねーのか?」
二人は泥だらけの膝を突き立て、スロープのスタートラインに並んだ。
かつては最新のランニングシューズで土を蹴っていた彼らの足元は、
今や頑丈だが重い軍靴に変わっている。
けれど、その足に込められた「力」は、平和な日々には想像もできなかったほど、
切実に、そして力強く脈打っていた。
「位置について……用意……どん!」
正人の掛け声と同時に、二つの影がコンクリートを蹴った。
軍靴がアスファルトを叩く硬い音が、地下の静寂を乱暴に打ち砕く。
スロープの傾斜は、疲労困憊の身体には絶壁のように感じられた。
数歩進むごとに、大腿筋が千切れるような熱を発し、喉の奥からは鉄の味がせり上がってくる。
視界が白く霞み、心臓の鼓動が耳元で鐘のように鳴り響く。
これは訓練ではない。誰に命令されたわけでも、敵から逃げているわけでもない。
ただ、自分の意志で、自分の限界を超えて、隣にいる親友を追い抜く。
その純粋すぎるほどの「生」の衝動が、彼らを突き動かしていた。
「……っ、負けるかよ!」
正人が、喘ぐような声を絞り出し、恭二の半歩前へ出る。
恭二は、その背中を見つめながら、歯を食いしばった。
かつては恭二の後ろばかりを歩いていた正人が、今、自分の前を走っている。
その背中が、この数日間でどれほど頼もしくなったか。
その成長を、恭二は痛みと同時に、誇らしく感じていた。
「……甘いんだよ、正人!」
最後の数メートル。恭二は身体がバラバラになるような錯覚に陥りながらも、ありったけの力を足首に込め、地を這うように加速した。
ゴールライン代わりの鉄扉を、二人はほぼ同時に、倒れ込むようにして叩いた。
「……ははっ、……俺の、勝ちだ……!」
恭二が、壁に背を預けてズルズルと座り込んだ。
「……バカ言え、……俺の方が、指一本分早かった……ぞ」
正人もその隣に、投げ出された人形のように転がった。
二人は、焼け付くような肺の痛みに耐えながら、天井を仰いで笑い転げた。
顔は泥と汗で判別がつかないほど汚れ、軍靴の底は削れ、手はコンクリートに擦れて血が滲んでいる。
戦うための筋肉を、ただ「遊び」のために、ただ「笑う」ために使い果たす。
そのあまりにも贅沢な、そして無駄な疲労感こそが、彼らにとっての「日常」の貴重な残滓だった。
「……お前、足早くなったな、正人。山口さんに褒められたのは、伊達じゃねーんだな」
「……お前こそ。奈々に見せてやりたかったよ。……あ、今のなし。内緒だぞ」
二人は互いの肩を、乱暴に小突いた。
明日にはまた、汚名を着せられたまま、死の静寂が包む街へと繰り出さなければならない。
自分たちが「矛」となり「盾」となって、仲間たちの居場所を護らなければならない。
その重圧から解き放たれるための、唯一の戦い。
泥だらけの顔で見つめ合い、呼吸を合わせる。
かつての「友人」が、地獄を共に歩む「戦友」へと形を変えていく過程。
その痛みさえも、彼らには心地よかった。
「……よし、戻るか。……明日は、テラスモールにあるチョコ、全部お前に譲ってやるよ」
「……当たり前だ。水の貸しは、それでチャラにしてやる」
二人は重い身体を引きずるようにして、再び灰色のロビーへと戻っていく。
その足取りは、先ほどよりも少しだけ、軽やかになっていた。




