【断章:灰色の日常に灯る火③】
藤沢市役所の三階、行政フロアの最奥。
そこは、避難民たちの喧騒や自衛官たちの怒号も届かない、
時間が腐敗したような沈黙が支配する場所だった。
かつては「広報課」と呼ばれていた部屋の扉は、蝶番が歪み、半分開いた状態で固まっている。
恭二と正人は、山口一曹の目を盗んで、この「聖域」とも呼べる機械の墓場へと足を踏み入れていた。
室内には、かつての平和な行政を支えていた広報用デスクや、
市民に情報を届けていたであろう放送機材が、厚い埃を被って整然と並んでいた。
窓から差し込む午後の光は、宙に舞う細かな塵を白く照らし出し、まるで銀河のように見せる。
だが、その光の先にあるのは、引きちぎられた配線と、二度と鳴ることのない電話機の群れだった。
「……おい、恭二。見てみろよ、これ」
正人が部屋の隅、防音材の剥がれかけた小部屋のデスクを指差した。
そこには、蛇のような長いアームに支えられた、無骨な卓上マイクが鎮座していた。
かつては職員が優雅に市民へ語りかけていたであろうそのマイクは、今や冷たい鉄の塊に過ぎない。
正人は冗談半分に電源スイッチに触れた。カチ、カチ。
数度の空振りの後、背後のラックに収められた旧式の真空管アンプが、
老人の溜息のような低い唸りを上げ始めた。
「……生きてんのか、これ」
二人は顔を見合わせ、唾を飲み込んだ。
恭二が震える手でマイクアームを自分たちの目線まで引き下ろす。
アームの継ぎ目が「ギギッ」と錆びた声を上げた。
回路が繋がった合図である「オンエア」の赤いランプが、血を吐くように弱々しく点滅する。
正人は一度、大きく息を吸い込んだ。
それは、死の街の空気を吸い続けてきた彼らにとって、
自分たちがまだ「高校生」であることを思い出すための儀式だった。
「……あー、あー。マイクテスト。……本日の授業はすべて中止。
全員、速やかに校庭……ではなく、ロビーで昼寝をすること。以上、生徒指導の加藤正人より」
スピーカーから流れた、ひどく割れた声。
地下ロビーの冷たいコンクリートに横たわり、絶望と空腹に慣れきっていた避難民たちが、
弾かれたように顔を上げた。
それは、この場所で日々流れる「配給の知らせ」でも「治安維持の命令」でもない、
あまりに場違いで、あまりに懐かしい「日常」の音色だった。
恭二も、込み上げる奇妙な高揚感に突き動かされ、正人からマイクを奪い取った。
「こちら新井恭二。……工藤奈々さん、聞こえますか。
あとで一緒に、最高級の……ええと、豪華なパンを食べに行きませんか。
あ、パンは現在在庫切れだ。代わりに、冷たい水を一杯いかがでしょう」
二人の声は、コンクリートの壁に反響し、地下の隅々にまで届いた。
その声は震え、ノイズにまみれていたが、
そこには確かに「未来」を信じていた頃の無邪気さが宿っていた。
その放送を、救護所で聞いていた奈々は、包帯を巻く手を止めて立ち尽くしていた。
視界には、レヴァナントに傷つけられた人々のうめきと、消毒液の冷たい色しかない。
けれど、マイク越しに届く恭二の不器用な誘い文句に、彼女の視界は不意に滲んだ。
(……何言ってるのよ、バカね)
奈々は、頬を伝いそうになる熱いものを手の甲で拭った。
かつての校舎で、チャイムの音と共に当たり前のように流れていた、あの騒がしくて退屈だった放送。
それを必死に模倣しようとする彼らの稚拙な抵抗が、
彼女の心を一瞬だけ、瓦礫の街から救い出していた。
隣で薬瓶を整理していた桜も、顔を輝かせて天井を見上げた。
「いいなぁ、校内放送。……ねえ、奈々ちゃん。次、私に歌わせてって、あの二人に言っておいて」
そんな他愛もない、明日には消えてしまうような会話が、
灰色の壁に覆われた牢獄のような日常に、失われた色彩を呼び戻していた。
やがて、放送室のアンプが耐えきれなくなったように小さな火花を散らし、
赤いランプがゆっくりと消灯した。
恭二と正人は、訪れた再びの沈黙の中で、自分たちの掌を見た。
「……パン、本当にあれば良かったのにな」
「ああ。……でも、少しだけ、学校にいるみたいだったな」
二人は、マイクを元の位置に静かに戻し、部屋を後にした。
彼らが去った後の放送室には、再び塵が舞い降り、静寂が降り積もっていく。
けれど、彼らの放った「幻の放送」は、避難民たちの乾いた心の中に、
消えない残響となって微かな熱を残し続けていた。




