第三章:要塞の揺りかご [第三十六話] 偽りの残像
「……暦さん、手を止めて聞いてください」
康二の掠れた声に、暦は眼鏡の奥の瞳を鋭くさせました。
彼女は康二がただならぬ緊張感の中にいることを察し、持っていたペンを静かに置く。
「どうしたの、康二くん。そんなに青い顔をして」
「……『蜘蛛』がいます。最上階の黒田一尉です。
彼はこの拠点のカメラをジャックして、村田さんの……沙耶さんの動きを秒単位で記録している。
それだけじゃない。僕たちが持っている資料の内容も、遠隔で見ようとしている形跡がある」
康二が震える指で示した画面には、無数の通信ログが滝のように流れていた。
暦は資料を抱え直し、周囲の寝静まった避難民たちに視線を走らせる。
彼女の強みは、デジタルな知識ではなく、記録の裏にある「人間の意図」を読み解く洞察力にあった。
「……なるほどね。あの黒田という男、私たちのことを救うべき市民ではなく、
観察すべき標本として見ているわけね」
暦は低く呟くと、康二のデバイスを覗き込みた。
「康二くん、デジタルで勝てないなら、アナログで誤魔化しましょう。
彼はカメラの向こう側にいる。なら、彼が見ている『現実』を
私たちが書き換えてあげればいいのよ」
二人の密かな作戦が始まった。
康二は黒田の監視網を逆手に取り、極めて巧妙な「偽のループ映像」をネットワークに流し込む。
康二の役割は黒田の監視システムに、数分前の「何も起きていない拠点」の映像を断続的に上書きし、
監視者の目を欺く。
暦の役割は資料の原本を、市役所の図書コーナーから持ち出した無関係な古い行政資料の
束の中に紛れ込ませる。
さらに、沙耶が寝ている姿勢を毛布と荷物で擬態させ、カメラからは「常にそこで眠っている」ように見せかける「デコイ」を作成。
「康二くん、このパケットの隙間に、私の作った『偽の解析ログ』を流せる?」
暦が差し出したのは、それらしく書き換えられた、A.L.とは無関係な遺伝学の基礎データだった。
「……できます。これなら黒田も、僕たちがまだ核心に辿り着いていないと思い込むはずだ」
守るための嘘
作業の最中、沙耶が音もなく二人の背後に立ちました。
彼女は言葉にはしませんでしたが、二人が自分を「隠そう」としている意図を肌で感じ取っていた。
「……康二。何を、している」
康二は一瞬肩を震わせましたが、今度は逃げずに沙耶を見つめ返した。
「……村田さん。いや、沙耶さん。……君は、二階より上では決して全力を見せないでほしい。
できれば、少し足を引きずるくらいの演技をしてほしいんだ」
「なぜだ」
「……君を『化け物』だと思いたがっている人間が、上にいる。
僕と暦さんで、その視線を遮る壁を作る。
だから……君は、ただの『少し運が良かった女の子』でいてくれ。……僕たちが、君を護るから」
康二の言葉は、以前のような弱々しさはなく、仲間を守るという明確な意志が宿っていた。
沙耶は無言で康二と暦を見比べ、やがて小さく頷いた。
「……分かった。……任せる」
闇に潜む「眼」への反撃
最上階のモニター室。黒田一尉は、画面の中で静かに眠り続ける沙耶の映像を見つめていた。
「……ふん。停滞しているな。所詮は中学生の集団か」
黒田の瞳には、康二たちが仕掛けた「残像」が映し出され、その裏で進む真実の解読作業には、
まだ気づいていない。
康二はデバイスの電源を落とし、暗闇の中で深く息を吐いた。
隣で暦が、彼の肩を優しく叩いた。
「……よくやったわね、康二くん。あんな嘘をつくなんて、あなたも随分『悪い大人』に近づいたわよ」
「……暦さん、それは褒め言葉として受け取っておきます」
かつて他者との関わりを拒んでいた少年は、
今、最も孤独で過酷な「情報の戦場」で、誰よりも頼もしい盾となっていた。




