第三章:要塞の揺りかご [第三十五話] 電脳の蜘蛛の巣
深夜の藤沢市役所。
ロビーを埋め尽くす避難民たちの寝息と、時折響く乾いた咳の音が、
コンクリートの壁に反響して重苦しく沈殿している。
段ボールで囲われたグループの拠点の中、康二は自作のデバイスを膝に乗せ、
青白い液晶画面の光を眼鏡の奥に反射させていた。
傍らでは暦が、手書きのメモを整理しながらうたた寝をしている。
恭二や正人は訓練の疲れで深い眠りに落ち、沙耶もまた、壁に寄りかかりながら意識を外界のノイズに研ぎ澄ませていた。
康二が試みていたのは、市役所の内部ネットワークへの、目立たない形での侵入だった。
表向き、この建物は「自治体と自衛隊の共同運営」ということになっている。
しかし、康二のエンジニアとしての直感が、システムの「歪み」を捉えていた。特定の区画からのアクセスだけが、異様に優先され、かつ高度に暗号化されている。
「……おかしい」
康二の指先が、キーボードの上で踊る。
かつて平和だった頃、彼は誰とも関わらず、ただ画面の向こう側の世界を支配することで己の存在意義を確認していた。
その「孤独な戦い」の経験が、今、目に見えない敵の存在を浮かび上がらせる。
彼が市役所の監視カメラのログを遡ろうとした、その瞬間だった。
画面の隅で、パケットの応答速度がコンマ数秒、不自然に遅延した。
——誰かが、僕を見ている。
康二の背中に、冷たい汗が伝った。
それはシステムの防壁による自動的な反応ではない。
もっと粘着質で、こちらの意図を推測し、泳がせているような……獲物が罠にかかるのを待つ、蜘蛛のような気配。
「……気づいていないふりを、しなきゃダメだ」
康二は心臓の鼓動を抑え、指先の震えを止めた。
彼はわざとセキュリティの甘い行政用データベースを検索し、無害な食料備蓄の数字を表示させた。
その裏側で、バックグラウンド・タスクとして「トレース・プログラム」を起動させる。
数分後。画面に表示されたパケットの経由地点は、地階のロビーでも、二階の事務局でもなかった。
すべての監視データと、通信の断片が集約されているのは——最上階、黒田一尉のいる「災害対策本部」。
「……あの人だ」
黒田の冷徹な、すべてを実験動物として眺めるような瞳が脳裏をよぎる。
康二は確信した。黒田は単に要塞を管理しているのではない。
この市役所内に張り巡らされた監視カメラを私物化し、特に「村田沙耶」の挙動を、一秒単位で記録し続けているのだ。
さらに恐ろしい事実に、康二の思考が凍りつく。
黒田が操作しているネットワークのログの端々に、ある特定の文字列が刻まれていた。
——[Project A.L. / Observation Phase 4]
「資料(A.L.)だけじゃない……。黒田一尉は、沙耶さんそのものを……『検体』として見ている」
康二は、デバイスの電源を静かに落とした。
画面が消えると、暗闇の中で沙耶がふっと目を開け、康二の方を見た。暗視に慣れた彼女の瞳が、康二の恐怖を射抜く。
「……どうかしたか」
沙耶の低い囁き。康二は生唾を飲み込んだ。
今ここで、すべてを話すべきか。
けれど、黒田のような狡猾な男を相手に、下手に動きを見せれば、
グループ全員が「不適格」として処理されるリスクがある。
「……いや、なんでもないよ、村田さん。少し、データの解析で煮詰まっただけだ」
康二は初めて、意識的に「嘘」をついた。
仲間を守るために、自分一人の胸に「毒」を収める覚悟。
眼鏡を押し上げた彼の指先は、まだ微かに震えていたが、
その瞳には平和だった頃の臆病な少年ではない、知略を武器にする「戦士」の光が、
静かに灯り始めていた。
要塞の最上階。
黒田は、突然途切れた「接続エラー」の通知を眺めながら、薄い唇を吊り上げた。
「……あの少年、気づいたかな。いいよ、宮増康二くん。
君のような『優秀な計算機』が混ざっている方が、実験はより複雑で、美しくなる」
電脳の海で始まった、目に見えない死闘。
康二は、自分がこれまで避けてきた「人間同士のドロドロとした駆け引き」の最前線に、
図らずも立たされていることを自覚した。




