第三章:要塞の揺りかご [第三十四話] 硝子越しの観察者
地下のロビーを埋め尽くす避難民たちの汗の臭いや、生きるための醜い罵り合い。
それらはすべて、黒田にとっては「ノイズ」に過ぎなかった。
彼が管理するのは、正確な物資の残数、生存率のグラフ、
そして——画面の中で不器用にバスタオルを畳んでいる、一人の少女のデータだった。
「……重力加速度に対する骨格の反応速度、そして筋繊維の弛緩。
どう見ても『正常な教育』を受けた個体のそれではないな」
黒田は、かつて自分が関わっていた「特殊研究班」の極秘資料と、
監視カメラが捉えた沙耶の動きを照らし合わせていた。
彼がこの藤沢市役所に派遣されたのは、単なる治安維持のためではない。
混乱に乗じて消失した「検体」、あるいはそれに関する機密情報の回収。
それが、彼に与えられた真の任務だった。
「黒田一尉。また、あの娘の記録を?」
背後から声をかけたのは、行政側のトップである原田部長だった。
かつては市民の生活を第一に考える好々爺として知られていたが、
今は権力の維持と、いつ尽きるとも知れない食料備蓄の数字に追い詰められ、
その表情には常に余裕のない影が張り付いている。
「原田部長。……彼女は単なる避難民ではありません。
この要塞に紛れ込んだ、最も危険で、かつ価値のある『異物』です」
黒田は振り返ることもせず、淡々と答えた。
その声には抑揚がなく、まるで機械がエラーコードを読み上げているかのようだった。
「危険だと? 彼女は田辺巡査長の遺言を届け、子供を助けたヒーローだという噂だが……。
竹本たちの煽動でロビーが揺れている今、下手に彼女を刺激して暴動でも起きれば、私の立場がない」
「部長。あなたが守ろうとしている『立場』も、このデータの前では無意味です」
黒田は冷たく言い放ち、タブレットを原田に向けた。
そこには、市役所の全避難民を数値化したリストが表示されていた。
「食料はあと十一日で底を突く。竹本のような無能な集団に媚を売り、
わずかな延命を図るよりも、彼女のような『超越的な戦力』をどう飼い慣らすかを考えるべきです。
……彼女が持っているはずの『資料』があれば、事態は劇的に変わる可能性がある」
「資料……? 何のことだ」
「あなたが知る必要はありません。あなたはただ、表向きの『善人』として、彼女たちをこの場所に留めておいてくれればいい」
黒田の言葉には、上官への敬意など微塵もなかった。
彼はこの未曾有の災害を、壮大な「実験」として捉えていた。
法が死に、倫理が崩壊した極限状態で、人間がどこまで醜く堕ち、
そして「作られた英雄」がどこまで抗えるのか。
彼は再びモニターに視線を戻した。
画面の中では、桜に笑い飛ばされながら、沙耶が不器用にタオルを丸めている。
その平和で滑稽な光景は、黒田の硝子の向こう側にある瞳には、
いずれ破綻することが運命づけられた「砂上の楼閣」にしか映っていなかった。
「村田沙耶。……君の隣にいるその少女たちが、君の『リミッター』なのか。それとも……」
黒田は細い指先で画面をなぞり、沙耶の瞳を拡大した。
「……君を完全に覚醒させるための『生贄』になるのか。じっくりと見せてもらうよ」
冷房の効いた部屋の中で、黒田は独り、薄い唇を歪めた。
彼の手元にある無線機からは、竹本一派が夜間に「新参者」の居住区を
襲撃しようと画策している報告が入っていた。
彼はそれを止めるつもりはなかった。
むしろ、その火種がどう燃え上がるのかを観察することこそが、彼の愉悦だった。
要塞の最上階。
そこは、人間たちの苦悩を盤上の駒として眺める、冷徹な神の領域だった。




