第三章:要塞の揺りかご [第三十七話] 呼び名の距離
地下一階の拠点。
段ボールの壁に囲まれたその狭い空間で、宮増康二は朝から猛烈に、
自分の「立ち位置」について苦悩していた。
きっかけは、今朝がたの何気ないやり取りだ。
「康二くん、おはよ! はい、これ、お直ししたボタンだよ」
桜が、昨夜のうちに修繕した康二の予備のシャツを笑顔で差し出した。
彼女は当然のように自分を「康二くん」と呼ぶ。恭二も正人も、いつの間にか「康二」と呼び捨てだ。
しかし、康二の口から出る言葉は、いまだに厚い壁に隔てられていた。
「あ……ありがとう、遠藤……さん」
その瞬間、拠点の空気がわずかに固まった。
夜勤の交代で戻ってきたばかりの奈々が、
面白そうな獲物を見つけたような目で康二をじっと見つめる。
「ねえ、康二くん。……いつまで、私たちのこと苗字に『さん』付けで呼ぶつもり?」
「えっ……? いや、それは……礼儀というか、その……」
康二は慌てて眼鏡を押し上げた。
平和だった頃、彼はクラスの輪から外れ、図書室やPCルームを聖域として過ごしてきた。
他人を名前で呼ぶ、あるいは呼び捨てにするという行為は、
彼にとって「相手のプライバシー領域に土足で踏み込む」ような、恐ろしい暴挙に思えるのだ。
「だって、恭二くんや正人くんのことは、もう呼び捨てにしたり、くん付けで呼んだりしてるじゃない。どうして私たちだけ『遠藤さん』『工藤さん』なのよ」
奈々がいたずらっぽく顔を近づける。
「それは……その。彼らとは、あの、男子特有の……何て言うか、不可抗力でそうなったというか……!」
「康二くん、照れてる! かわいいー!」
桜が手を叩いて笑い出した。
「いいじゃん、もう『奈々』『桜』で! 私たち、もう死線を共にした仲間でしょ?」
「無茶を言わないでくれ……っ! 僕にとってそれは、暗号解読よりも難易度が高いんだ!」
顔を真っ赤にして俯く康二。
その様子を、暦が配給の薄い粉末コーヒーをすすりながら、観賞魚を眺めるような目で見守っていた。
「康二くん。あなたが昨夜、あんなに大胆な嘘を黒田一尉についたのに、女の子の名前を呼ぶことにはそんなに臆病なのね。そのギャップ、嫌いじゃないわよ」
暦の追い打ちに、康二はいよいよ逃げ場を失う。
そこへ、訓練から戻ったばかりの恭二と正人が、汗を拭いながら割って入ってきた。
「なんだ? 康二、また何か難しいデータでも見つけたのか?」
恭二が無造作に康二の肩に腕を回す。
「いや、こいつ、奈々たちの呼び方に悩んでるんだってさ」
正人がニヤニヤしながら説明すると、恭二はハハハと笑い飛ばした。
「なんだよそんなことか! ほら、言ってみろよ康二。な・な、さ・く・ら、だぞ?」
「……っ、恭二! 君は少し無神経すぎるぞ!」
康二は恭二の腕を振り払い、視線を彷徨わせた。
そして、拠点の隅でバスタオルをじっと見つめていた沙耶と目が合う。
「……村田、さん」
康二は、彼女にだけは、まだ「沙耶」と呼ぶ勇気を持てずにいた。
彼女は昨夜、自分と暦が護ると誓った対象であり、同時に、いまだ底の知れない「畏怖」の対象でもあったからだ。
沙耶は、康二の動揺を不思議そうに見つめていたが、やがて短く口を開いた。
「……好きに、呼べばいい。名前は、ただの識別コードだ」
「識別コードって……。沙耶ちゃんは、夢がないなぁ」
桜が肩をすくめたが、康二はその無機質な肯定に、少しだけ救われた気がした。
「……分かった。少しずつ、努力する。……工藤……さん、遠藤……さん」
「あー! また戻ってる! 努力する気ないでしょ!」
奈々と桜の楽しそうなブーイングが、殺風景なロビーに響く。
かつて孤独だった少年が、名前を呼ぶというたったそれだけの行為に震える。
それは、この壊れた世界で彼が取り戻そうとしている、最も不器用で、
最も人間らしい「抵抗」の形だった。
その様子をカメラの向こう側、ループ映像に騙されながら眺めている黒田一尉は、
まだこの「識別コード」を巡るささやかな戦いには気づいていない。




