第99話 喋れること
氏名を聞かれた。男は答えた。声は掠れていたが、出た。自分の口が開き、舌が動き、喉が震えた。名前、生年月日、住所、表向きの職業。そういうものは、順番に口から出た。「間違いありませんか」「……はい」答えた直後、男はほんの少しだけ息を吐いた。喋れる。その事実に、救われた気がした。白い部屋だった。壁も、机も、椅子も、妙に清潔で、床には余計なものがない。机の向こうに警察の人間が二人。少し離れた位置に、異常空間を扱う部署の人間らしい男が一人。壁際には記録係か、医療関係者か分からない女が立っている。ガラスの向こうにも誰かがいる気配があった。録音されている。記録されている。分かっている。だが、それよりも男にとって大きかったのは、自分の声が出たことだった。名前を言えた。住所を言えた。生まれた日まで言えた。つまり、まだ自分の口は自分のものだ。そう思い込もうとした。
「弁護士の選任については、先ほど説明した通りです。黙秘する権利もあります。理解していますか」
「……理解、しています」
出る。言葉になる。喉は詰まっていない。舌も動く。男は、自分の膝の上に置かれた両手を見た。手首には拘束具がかかっている。指先がわずかに震えていた。震えているだけだ。動く。動かせる。右手の親指を曲げる。人差し指を曲げる。できる。左手も同じだ。俺の体だ。まだ、俺の体だ。「では、現場について確認します」警察の男が紙をめくった。「あなたは、川沿いの廃業倉庫の地下搬入口にいましたね」「……はい」「誰といましたか」男は仲間の名前を二つ挙げた。残りは黙った。黙ることはできた。言いたくないことを言わない。その自由は、まだ残っていた。「全員ではありませんね」「……覚えて、いません」嘘もつけた。そのことに、男は嫌な安心を覚えた。嘘がつけるなら、自分はまだ壊れていない。脅しも取引も保身も、全部自分の中にある。
「なぜ、あの場所にいたんですか」
「……呼ばれたんです」
「誰に」
「知りません。仕事だって」
「何の仕事ですか」
「荷物を運ぶだけだと聞いていました」
口から出た言葉の半分は嘘だった。呼ばれたのは本当だ。仕事だったのも本当だ。だが、荷物の中身を知らなかったわけではない。知らないふりをしただけだ。それでも喉は詰まらなかった。知らない。覚えていない。自分は下っ端だ。言われて行っただけだ。銃を持っていたのは別の男だ。袋の中身は見ていない。地下が変な場所だなんて知らなかった。そういう言葉は、掠れながらも口から出た。自分に都合のいい嘘。仲間を切るための嘘。責任を薄めるための嘘。そんなものは、通った。通ったことが、男を少しずつ追い詰めていった。
「地下で、何が起きましたか」
喉が止まった。最初は、ただ息を呑んだだけだと思った。警察の前で、事件の核心を聞かれた。答えに詰まるのはおかしくない。黙秘することもできる。知らないと言ってもいい。覚えていないと言ってもいい。だが、違った。言葉を選ぶ前に、声が消えた。胸の奥から喉へ上がるはずの空気が、音になる直前でほどけた。舌を動かそうとした瞬間、舌の根が固まる。唇は開く。息は出る。なのに、言葉にならない。「地下で何があったか、話せますか」話せる。話せるはずだ。男は説明しようとした。あの場所へ入った。撃った。倒した。運んだ。そこへ誰かが来た。一人だった。変な男だった。何をされたのか分からなかった。気づけば床に転がっていた。体が動かなかった。そこまでは、頭の中にあった。だが、口まで来ない。
「……ぁ」
「黙秘しますか」
違う。黙秘ではない。言いたくないのではない。言おうとしている。言いたい。少なくとも、言わなければならないことがある。男は首を横に振ろうとした。動かなかった。正確には、動きかけて止まった。顎がほんのわずかに横へ逃げる。その先に進まない。誰かに押さえられているわけではない。首の筋肉が固まったわけでもない。命令が、途中で消える。自分が自分に出した命令が、届く前に細く裂かれる。「黙秘ではない?」頷こうとした。それもできなかった。首は、白い部屋の中で静止したままだった。
「答えにくいなら、順番に確認します」
警察の男は淡々と言った。男の異常には、まだ踏み込まない。怯えている。混乱している。責任逃れをしている。そう見えるのだろう。「被害者二名を撃ったのは誰ですか」「……俺じゃない」言えた。声は細かったが、言葉になった。「では誰ですか」「向こうにいた奴です。俺は止めようとした」嘘だった。止めようなどとしていない。むしろ邪魔なら撃てと言った側だ。だが、嘘は出た。自分を軽くするための嘘は、何の抵抗もなく通った。「黒い袋について聞きます。中身を知っていますか」「……知りません」これも嘘だった。「以前にも同じ場所を使っていましたか」「……今回が初めてです」また嘘。「異常空間の入口だと知っていましたか」「……知らなかった」それも嘘に近い。完全に知っていたわけではない。だが、普通の場所ではないことは分かっていた。分かっていて使った。それでも喉は詰まらない。
男は、そこでおかしさに気づいた。嘘は言える。保身の言葉は出る。誰かのせいにする言葉も出る。知らない、覚えていない、俺はやっていない。そういう薄汚い言葉は、自分の口から流れていく。なのに、本当に言いたいことだけが止まる。俺の中に何かいる。その一言だけが、喉の奥で潰れる。なぜだ。何を基準にしている。この体の中のものは、どうやって今の言葉が危ないと知った。嘘ならいいのか。事件ならいいのか。あの場所のことでも、都合よく濁せばいいのか。自分の中のことを言おうとしたから駄目なのか。あの時のことに近づくと駄目なのか。分からない。分からないのに、止められる。
「あなたを制圧した人物について聞きます」
警察の男が言った。男の腹の奥が冷えた。「その人物は、警察や消防が到着する前から現場にいましたか」「……後から、来ました」言えた。「一人でしたか」「……たぶん」言えた。「顔を覚えていますか」「暗くて、見えませんでした」言えた。嘘だった。はっきりとは見ていない。だが、まったく見ていないわけでもない。目の前に立っていた。変なほど静かだった。こちらを見ていた。人を殴り倒した直後の顔ではなかった。「どうやって制圧されましたか」喉が閉じた。腕を取られた。膝を折られた。床に叩きつけられた。そこまでは、言えるはずだった。実際、そこだけなら言ってもいいのかもしれない。だが、その先を思い出した瞬間、体の奥が冷たくなった。
倒された後のこと。床に顔を押しつけられ、息をしながら、動かない指を見ていた。拘束されたわけではなかった。首を踏まれていたわけでもない。それなのに体が動かなかった。何かが入った。そう思った。見たわけではない。説明できる形で覚えているわけでもない。だが、体の内側に、知らない冷たさが走った。喉の奥、胸の裏、腹の底、指先。自分の体の中に、そこまで細かく触れられる場所があると、その時初めて知った。それを言おうとすると、喉が塞がる。男は、机の上の録音機を見た。ここで言えば残る。誰かが聞く。誰かが調べる。自分の中にいるものを見つけるかもしれない。言え。言え。言え。
「……覚えて、いません」
違う。覚えている。覚えているのに。「気を失っていた?」「……はい」嘘が通る。男はその瞬間、吐きそうになった。気を失ってなどいない。全部覚えている。床の冷たさも、仲間の呻き声も、遠くから聞こえた足音も、自分の体が自分を裏切って動かなかったことも。それなのに、嘘は許された。許された。男はその言葉に引っかかった。誰が許した。何が許した。自分か。違う。自分は、助けを求める言葉を選んだ。だが、出たのは保身の嘘だった。
男はそこで初めて、自分の口が塞がれているのではないと気づいた。塞がれているだけなら、まだ分かる。これは違う。選ばれている。言っていいことと、言ってはいけないことを、自分ではない何かが先に選んでいる。しかもそれは、男の言葉を聞いてから止めているのではない。言葉になる前に止めている。頭の中で形になる、その手前で、もう知っている。男は膝の上の自分の手を見た。指は動く。動け、と命じれば動く。だが、あることを考えた瞬間だけ、爪の先まで冷たくなる。俺の体だ。そう思いたかった。けれど、自分より先に自分の言葉を判定しているものが、体のどこかにいる。声も出さず、怒りもせず、ただ必要なところだけを押さえている。
「顔色が悪いですね。休憩しますか」
「……大丈夫、です」
それは言えた。大丈夫なはずがない。だが、それは言えた。「無理はしなくていい」警察の男が言う。無理。男は、その言葉で笑いそうになった。無理をしているのは誰だ。俺か。俺なのか。喋ろうとして止められているのが、俺の無理なのか。それとも、中にいる何かが、俺を壊さない程度に止めているのか。考えるほど、頭の中の床が傾いていく。
「あなたは、被害者二名が撃たれた後、何をしましたか」
「……逃げようと、しました」
嘘ではない。逃げようとはした。だが、助けようとはしなかった。「救護は」「していません」これは言えた。「誰かが救護しているところを見ましたか」喉の奥が冷えた。見た。はっきりとは見ていない。だが、見た。あの場にいた二人は、あんな状態で助かるはずがなかった。少なくとも一人は、もう駄目だと思った。なのに生きていた。何かがあった。その何かを口にしようとした瞬間、舌が止まる。「……見て、ません」嘘が出た。通った。何の抵抗もなく。男は、今度こそ笑いそうになった。助けてくれと言えない。中に何かいると言えない。あの時、自分たちに起きたことを言えない。だが、見ていないという嘘は言える。おかしい。おかしいだろ。
男の呼吸が荒くなりかけた。胸が上下する。喉が鳴る。汗が背中に滲む。すると、体の奥から、すう、と冷たいものが広がった。呼吸が整っていく。肩の力が抜ける。心拍が落ちる。恐怖で崩れかけた体が、勝手に元へ戻される。落ち着かされている。そう分かった瞬間、男の腹の底が抜けた。やめろ。落ち着かせるな。俺の恐怖まで触るな。「続けられますか」「……はい」答えたのは自分だった。自分の声だった。なのに、自分で決めた気がしなかった。
警察の男は、目の前の男をしばらく見た。疑っている顔だった。怯えか、芝居か、薬か、外傷か、ただの責任逃れか。その程度の疑いだ。そこにいる何かまでは、見えていない。当然だ。見えるわけがない。男にだって見えていないのだから。「あなたは、今回の件について、誰の指示で動きましたか」男は、しばらく黙った。この質問は危ない。だが、違う意味で危ない。答えれば上につながる。黙れば自分に来る。どう逃げるかを考える。この沈黙は、自分のものだった。「……名前は、知りません」嘘が出た。「連絡手段は」「消しました」これは本当。「端末は」「捨てました」嘘。「どこに」「川です」また嘘。
選べる。この程度の嘘なら、自分で選べる。男はそのことにすがりつきかけた。まだ全部は奪われていない。自分はまだ取引できる。黙ることも、嘘をつくことも、誰かを売ることもできる。だが、そのすぐ横に穴がある。そこへ一歩踏み込むと、言葉が消える。自分の中にいるもの。あの地下で何をされたのか。なぜ体が動かなかったのか。それを伝えようとするたび、喉も首も指も、自分ではない規則に従う。規則。そうだ。これは規則だ。男は、そこまで考えて震えた。感情で止められているのではない。怒って罰しているのではない。たまたま詰まっているのでもない。何かの規則で処理されている。ある言葉は通り、ある言葉は止まる。ある嘘は通り、ある真実は消える。ある動作は許され、ある合図は奪われる。その規則を、自分だけが知らない。自分の体なのに。
「もう一度確認します。地下で制圧された時、相手は武器を使いましたか」
「……分かりません」
「殴られた?」
「……はい」
「投げられた?」
「……たぶん」
「拘束された?」
男は答えようとした。拘束。されていない。されていないのに動けなかった。そのことを言おうとした瞬間、喉が止まった。「拘束されたか、分からない?」違う。分かる。縛られていない。押さえられてもいない。なのに動けなかった。だから怖いんだ。男は首を横に振ろうとした。止まる。頷こうとした。止まる。指で机を叩こうとした。止まる。視線だけが泳いだ。
「混乱が強いようですね」
女が小さく言った。
混乱。そう見えるのだろう。男は、もう反論しようとしなかった。反論しようとしたところで、そこにも同じ穴があるかもしれない。どこまでが許されて、どこからが止まるのか分からない。分からないなら、考えること自体が危ない。だが、考えるなと思った瞬間、男はさらに怖くなった。考えることは止められていない。そこだけは自由だった。いや、自由なのか。止める必要がないだけではないのか。頭の中でどれだけ叫んでも、外へ出なければ困らない。自分の中で狂いかけても、椅子に座ったままなら支障はない。声にならなければ、記録には残らない。この中のものは、それを知っているのか。知っていて、放っているのか。
男の口元が、わずかに引きつった。笑いたいわけではない。泣きたいのでもない。頭の中で、何かが一つずつ噛み合わなくなっていく。自分はまだ喋れる。自分はまだ嘘をつける。自分はまだ指を動かせる。それなのに、本当に助けを求めるための言葉だけが、自分のものではない。
「今日はここまでにしましょう」
警察の男が言った。椅子の脚が鳴る。紙が閉じられる。録音が止められる。女が近づき、男の顔色を見る。「歩けますか」「……歩けます」言えた。実際、立てた。足は動いた。拘束具を外され、別の警察官に腕を取られ、男は白い部屋を出る。足の裏に床の感触がある。膝は折れない。心臓は動いている。呼吸もできる。普通に歩ける。普通に返事ができる。普通に嘘がつける。その普通さが、もう耐えられなかった。
廊下に出る直前、男は一度だけ振り返った。机の向こうにいた異常空間担当の男が、記録用紙に何かを書いていた。そこに何が書かれているのか、男には分からない。だが、きっと大したことではない。供述不安定。混乱あり。重要部分で黙秘。責任逃れの傾向。そんな言葉だ。違う。違うんだ。俺は、黙っているんじゃない。そう言おうとして、やはり喉は動かなかった。
男は廊下へ連れていかれた。体の中では、何も動いていない。何も聞こえない。声もない。命令もない。痛みもない。ただ、そこにいる。怒らず、脅さず、急がず、眠りもせず、自分が何を喋れて、何を喋れないのかを、男より先に知っている。
それが一番、怖かった。




