第100話 処分ではなく
会議室の空気は、報告書の枚数に対して重かった。
内閣府異常空間対策室の会議室。机の上には、廃業倉庫奥異常空間事件の概要資料、警察から共有された暫定報告、救急搬送記録、異常空間管理窓口の対応記録、そして正式五級登録者である戸張透の活動記録が並んでいた。
村瀬は、資料の一枚目をめくった。見出しは事務的だった。川沿い廃業倉庫地下搬入口における拉致・銃撃・異常空間内制圧事案。言葉にすれば、そうなる。そこに書かれている中身は、日本国内の事件としてはかなり歪だった。
「被疑者五名。うち複数名が銃器所持。サプレッサー付き拳銃一丁を確認。別の銃器については継続捜索中。被害者二名は銃創あり。うち一名は搬送時点で重篤と見られたが、現在は生命の危険を脱しています」
説明役の職員が読み上げる声は、普段よりわずかに硬い。
「現場は地下搬入口の奥、異常空間化が疑われる区域です。通報者は正式五級登録者、戸張透。通報、位置情報共有、現場写真送信、互助会関係者への救援要請を行った後、単独で地下へ進入。警察および関係要員到着時、被疑者五名は制圧済み。被害者二名は生存。戸張本人に大きな外傷は確認されていません」
そこで、会議室の誰かが小さく息を吐いた。
内容は既に資料で共有されている。それでも、声に出されると違う。正式五級登録者が、異常空間内で、銃を持つ犯罪者を含む五名を相手にし、被害者を生かし、犯人を殺さずに確保させた。
冒険譚としてなら、分かりやすい。
制度資料としては、分かりにくい。
「制圧方法は」
警察庁側の出席者が聞いた。
「戸張本人は、よく覚えていない、必死だった、相手の手を止めようとした、と説明しています。被疑者側の供述は不安定です。黙秘、責任逃れ、混乱が混在しています。互いに責任を押しつけ合う供述も多く、現時点で制圧手順を再構成できるほどではありません」
「外傷は」
「被疑者側には打撲、関節部の損傷、手首・肘・肩・膝周辺の負傷が目立ちます。刃物や銃撃によるものではなく、近接での制圧、転倒、関節を取られた際の損傷と見られます」
「一人で、ですか」
その問いに、説明役は一度だけ資料へ目を落とした。
「現時点では、そう記録されています」
説明役は断定を避けた。資料上、別人の関与を示す材料もまだない。
会議室の奥で、自衛隊側の出席者が腕を組み直した。三宅一等陸尉だった。水門事案後の対策会議にも出ていた男で、異常空間内の戦闘について、銃火器中心では足りないと早い段階で言っていた一人だ。
「銃器を持った相手を五名。しかも被害者二名を抱えた状況で、民間五級が単独制圧」
三宅は、確認するように言った。
「通常環境なら、まず成立しません」
誰も笑わなかった。
成立しない。
その当たり前が、異常空間という言葉の前では揺らぐ。
「異常空間内では身体運用が変わる、という仮説は既に検証段階に入っています」
別の職員が資料を差し替えた。
深町浩一。元陸上自衛官、現正式五級登録者。自ら申告してきた身体記録の件が、簡潔にまとめられている。異常空間内での反応、踏み込み、持久、姿勢保持、外との違い。筋力が単純に増すというより、環境内での身体の使い方そのものが変わる可能性。
村瀬は、そこまで読んでから、戸張の資料へ視線を戻した。
戸張透。三十歳。元会社員。正式五級登録者。神隠し型入口の発見報告あり。採取物および危険物の申告歴あり。講習、追加確認、正式登録手続きへの参加あり。公式活動時の記録協力あり。短棒二本の使用を希望し、貸与装備の返却、指示遵守、報告に大きな問題はなし。
その下に、今回の注意記録が加わっている。
未申告異常物品使用疑い。正式処分なし。活動制限なし。ただし再発時の判断材料として記録。
「この人物について、追加調査は必要です」
警察庁側の出席者が言った。
「今回の件だけでもそうです。銃を持った相手を複数制圧している。しかも、被害者二名が助かった経緯にも不明点が残る。未申告回復薬使用疑いを処分しなかった判断は理解しますが、通常の登録者として扱い続けるには無理があります」
「通常の登録者として扱うつもりはありません」
村瀬は言った。
声は強くしなかった。強くする必要がなかった。
「ただし、敵性対象として扱う段階でもありません」
その言葉で、何人かが顔を上げた。
村瀬は資料をめくり、今回の初動記録を示した。
「戸張氏は、まず通報しています。位置情報を送り、写真を共有し、互助会側にも救援を求めている。単独進入は推奨されませんし、今後同じことを許容するわけでもありません。ですが、隠蔽目的で動いた人間の初動ではありません」
「その後、単独で入っています」
「ええ。問題です」
村瀬はそこを否定しなかった。
「ですが、被害者二名が処理される可能性が高いと判断した、と本人は説明しています。現場状況から見ても、その判断自体は不自然ではありません。結果として、二名は生存し、被疑者五名は確保され、黒い袋についても別件捜査へつながりました」
「善意であれば危険行為を認める、という話ではありません」
「その通りです」
村瀬は、机の上の資料を一枚揃えた。
「善人だと判断する話でもありません。ただ、善性に寄った行動を取る人間だとは見ます。少なくとも、目の前の被害者を見捨てて逃げる選択をしなかった。犯人を殺して黙らせる方向にも動いていない。通報もした。制度から完全に逃げる動きも、現時点ではありません」
助けたから許す、という話ではない。助ける側へ動く人間なら、その傾向を制度側も使える。会議室の何人かは、そこまで含めて理解していた。
「今回、正式処分を見送ったことで、こちらには協力を求める余地があります」
村瀬は続けた。
「登録停止や資格取消で制度の外へ押し出せば、彼は制度外の人間になります。未申告物品疑惑も、戦闘結果の突出も、こちらから見えにくくなる。逆に、正式五級の枠内に置いたまま、追加確認、健康確認、心理確認、活動記録確認を前倒しすることはできます」
「不問にした代わりに協力しろ、と」
誰かが言った。
「嫌な役回りです。言い方は選びます」
村瀬は即座に返した。
「ですが、実態としては近い。こちらは今回、正式処分を行わなかった。彼を救命目的で動いた登録者として扱った。その判断を前提に、今後の検証へ協力を求める。資格を人質にする形にはしませんが、制度内に残るなら説明と協力を求める、という形です」
「本人が拒否した場合は」
「拒否だけで処分はできません。ただ、活動範囲、貸与装備、管理区域への入場許可、協力金対象活動への参加には反映できます」
事務的な説明だった。制度に残るなら協力を求める、という圧力が、規定の形を取って置かれていた。
三宅が口を開いた。
「処分する材料として見るより、協力を求める材料として見た方がいいと思います」
会議室の視線が、自衛隊側へ寄った。
三宅は姿勢を変えずに続けた。
「異常空間内での身体運用変化は、こちらでも無視できない段階に来ています。深町氏のように、元自衛官で記録を持つ者が申告してきた例もある。訓練方法も変え始めていますが、正直、まだ足りません。どこまで人間が動けるようになるのか。どこから無理が出るのか。何を訓練に取り入れ、何を禁止すべきか。実例が少なすぎます」
「戸張氏を訓練材料にすると?」
「材料という言い方はしません」
三宅は淡々と返した。
「協力者です。少なくとも、そう扱うべきです」
「彼は元自衛官ではありません。格闘歴も明確ではない」
「だからです」
三宅の声が、わずかに低くなった。
「元から訓練された人間だけを見ても、異常空間の影響は分かりません。普通の民間人が、どの程度まで変わるのか。あるいは、変わったように見えるのか。戸張氏の結果は突出しています。だからこそ、敵に回すより、制度内で観察した方がいい」
「観察」
「協力と言い換えても構いません」
三宅は、言い換えにこだわらなかった。
「こちらが知りたいのは、彼の秘密ではなく、異常空間内で人間がどう動くかです。もちろん、彼個人に不審点があることは承知しています。ただ、現時点で敵性対象にすれば、彼は隠れる。隠れた人間は訓練にも検証にも使えません」
使える。
その言葉を直接言わずに、三宅は同じ意味を置いた。
村瀬は、その発言を止めなかった。
「自衛隊側として、具体的には」
「任意協力の形で、管理済み低危険度区域内での動作確認、装備別の挙動記録、制圧動作の再現可能範囲の確認。もちろん対人ではなく、模擬器具や防護要員を使います。本人の安全と心理状態の確認も前提です」
「銃器を持つ相手への対処を聞くのですか」
「聞きません。そこは警察案件です」
三宅は首を振った。
「こちらが見るのは、異常空間内での踏み込み、停止、姿勢復帰、視線、反応、道具の扱いです。今回の制圧そのものを再現させる必要はありません。むしろ無理に聞けば、本人は閉じるでしょう」
その言葉に、村瀬は少しだけ目を細めた。
閉じる。
戸張が何かを隠していることは、ほぼ全員が感じている。何を隠しているのかは分からない。未申告回復薬なのか、単に恐怖で記憶が飛んでいるのか、他にも何かあるのか。
分からないからといって、すべてを暴こうとすれば、制度の外へ出ていく。
制度開始初期にそれをやれば、戸張一人の問題では済まない。正式五級登録者たちは見ている。協力した者がどう扱われるか。助けた者がどう処分されるか。申告した者がどこまで疑われるか。
「彼を優遇するのではありません」
村瀬は、会議室全体へ向けて言った。
「疑いは残します。注意記録も消しません。追加確認も行います。ただ、今回の件で彼を処分対象として押し出すのではなく、協力要請対象として制度内へ引き込む。こちらの方が、得られるものが多い」
「本人の善性を利用する、と」
警察庁側の出席者が言った。
村瀬は否定しなかった。
「善性というより、行動傾向です。助けを呼ぶ。被害者を見捨てない。制度から完全には逃げない。その傾向があるなら、制度側はそこへ働きかけることができます」
警察庁側の出席者は、しばらく黙っていた。否定する材料がない、というより、否定すれば制度側が失うものの方が大きい。
「逆に言えば、そこを無視して締め上げれば、彼は次から呼ばなくなるかもしれません」
村瀬は一度、会議室を見渡した。
「それは今後の日本にとって、致命的です」
会議室が沈黙した。
次から呼ばない。それは、戸張だけの話ではない。未確認入口を見つけても通報しない。採取物を拾っても申告しない。事故現場を見ても関わらない。助ければ処分されると見れば、正式五級登録者は制度の外側で動くか、制度の内側で何も見なかったふりをする。
制度側にとって、避けなければならないのはそこだった。
「追加調査は必要です」
村瀬は、最初の意見を否定しないまま言った。
「ただし、名目は調査ではなく協力依頼にします。健康確認と心理確認の前倒し。活動記録の再確認。管理済み区域での動作記録協力。自衛隊側の訓練検証への任意参加。拒否した場合の扱いは、別途制度内で整理します」
「未申告物品使用疑いについては」
「注意記録は維持します。本人にも、同じ説明は二度通らないと伝えています」
村瀬は資料を閉じた。
「今回、こちらは正式処分を見送りました。それを、ただの見逃しにはしません」
三宅が小さく頷いた。
「敵にしないための手続きですね」
「ええ」
村瀬は答えた。
「同時に、制度内で見続けるための手続きです」
誰も、すぐには反論しなかった。
民間五級登録者、戸張透。
未申告異常物品使用疑い。注意記録あり。戦闘結果に突出傾向。通報・救援要請・被害者救助行動あり。制度離脱の兆候は現時点で確認されず。
資料の末尾に、新しい扱いが書き加えられた。
処分対象ではなく、協力打診候補。
戸張透という名前は、活動制限の欄ではなく、任意協力者候補の欄に移された。




