第101話 任意協力
事件から三日経った。
その間、俺は何もしていなかったわけではない。警察と管理窓口からの追加確認に応じ、説明会という名前の処分通知を受け、互助会のチャットを開いては閉じ、被害者二人の命に別状はないらしいという情報を、窓口経由で聞いた。それだけ聞けば、少しは落ち着いてもよさそうなものだが、落ち着けるはずがなかった。
冷蔵庫の奥には、透明な小瓶が残っていた。
使ったことにしたものが、使われずに残っている。
三日間、俺はそれを見ないふりをした。捨てれば証拠隠滅で、残せば供述と合わない。どちらにしても最低で、どちらかを選ばなければもっとまずい。三日目の午後になって、俺はようやく冷蔵庫を開けた。
小瓶は、奥の方にそのまま残っていた。透明な液体は、前に見た時と変わらない。水のようで、水ではない。傷を塞ぎ、失ったものを戻すかもしれないもの。俺が今回、使ったことにしたものだ。
瓶を手に取ると、冷たかった。冷蔵庫に入っていたから、というだけではない気がした。そう思った時点で、俺の頭はかなり疲れている。
「……最悪だな」
誰に向けた言葉でもなかった。
使えば助かったかもしれない。いや、実際には使っていない。使ったことにした。使ったと説明した。二人を助けたのは、これではない。その事実が、一番まずい。
俺は小瓶を布で包み、さらに袋へ入れた。中身も、瓶も、そのまま残しておくわけにはいかない。かといって、普通のゴミに出す気にもなれなかった。ゴミ袋を開けられる想像をしただけで、胃の奥が重くなる。
外に出る前に、玄関の覗き穴から廊下を見た。人影はない。ドアを少しだけ開け、左右を確認する。足音はなく、エレベーターの表示も動いていない。階段側にも気配はなかった。
外へ出てからも、すぐには動かなかった。スマホを見るふりをしながら、建物の出入口、向かいの道路、停まっている車を確認する。コンビニへ行く時と同じ足取りで歩き、途中で一度だけ道を変えた。尾行があるかどうかを、俺が見分けられるとは思えない。それでも、確認しないまま動くよりはましだった。
数日前まで、普通に買い物へ行く時、こんなことは考えていなかった。人間、慣れたくないものにも慣れていく。
目的地は、特別な場所ではない。人通りが少なく、夜ならともかく昼間に長居する人間がほとんどいない場所だった。俺はそこで、もう一度周囲を確認した。誰もこちらを見ていない。少なくとも、俺にはそう見えた。
袋から包みを取り出す。
瓶を割る時、妙に手が重かった。
中の液体が地面へ落ちる。透明なまま、土に染みていく。何かが起きるのではないかと身構えたが、光もしない。煙も出ない。地面が蠢くこともない。ただ、俺の手だけが汗ばんでいた。
瓶の破片をさらに小さくし、形が分かりにくいようにしてから、土の中へ埋めた。深くはない。見てすぐ分かる場所でもない。こんな処理で本当に消したことになるのか、確信は持てない。それでも、冷蔵庫の奥に残しておくよりはましだった。
俺は周囲を確認してから、その場を離れた。帰り道も、まっすぐは戻らない。角を曲がるたびに、後ろを見たくなる。見すぎれば怪しい。見なければ不安になる。結果として、俺はスマホを確認するふりを何度もする、ただの挙動不審な男になった。
家に着いた時には、たいした距離でもないのに妙に疲れていた。
鍵を開け、部屋へ入る。ドアを閉めて、チェーンをかける。靴を脱ぐ前に耳を澄ませたが、部屋の中はいつも通り静かだった。普通の部屋だ。その普通の部屋に、証拠隠滅みたいなことをしてきた男が帰ってきた。
手を洗った。石鹸で、念入りに洗った。指の間、爪の周り、手首まで洗う。水で流しても、何かが落ちた気はしない。
タオルで手を拭きながら、ようやく息を吐いた。
一つ減った。
なくなったことにしたものが、本当になくなっただけで、俺の説明が綺麗になったわけではない。冷蔵庫に残っていた矛盾が消えただけだ。そこに安心していいのか、余計にまずいことをしたのか、考えるほど頭が重くなる。
その時、テーブルの上に置いていたスマホが震えていることに気づいた。
画面には、管理窓口からの通知が出ていた。
【正式五級登録者向け追加確認および任意協力のご相談について】
俺はスマホを持ったまま、台所で頭を抱えた。
わかってはいる。
わかってはいるけど。
けど。
どうしてこうなった。
しばらくそのまま固まってから、俺は画面を開いた。逃げたところで通知は消えない。未読のままにしても、管理窓口側の記録からは消えない。むしろ、未読の時間まで何かの材料にされる気がした。
本文は、嫌になるくらい丁寧だった。
先日の事案について、正式処分は行わない判断となったこと。今後の安全管理のため、追加確認を行いたいこと。健康確認、心理確認、活動記録の再確認を前倒しで実施したいこと。あわせて、管理済み異常空間内での動作記録協力について相談したいこと。
そこまでは、分かる。分かるのが嫌だった。
読み進めると、さらに具体的な項目が出てきた。管理済み区域内での歩行、停止、後退、方向転換。貸与装備使用時の挙動確認。短棒使用時の姿勢確認。防護要員を用いた限定的な接触動作確認。自衛隊側訓練検証への任意協力。実施候補地、水門異常空間、管理済み区画。
水門の文字で、胃の奥が重くなった。
巨大スライム。亀山さん。公式配信。第二層。銃声。白い群体。あの場所には、俺が見たものと、俺しか知らないものと、俺にもよく分かっていないものが残っている。
文面の上では、探索ではない。未確認区域への進入でもない。管理済み区画内での動作記録協力。危険が確認された場合は即時中止。参加は任意。体調不良や精神的不安がある場合は相談可能。
どこまでも丁寧だった。
丁寧すぎて、逃げ道が細い。
任意という二文字を、俺はしばらく眺めた。断ってもいい。たぶん、本当に断ってもいい。誰かが家に来て無理やり連れていくわけではないし、断った瞬間に登録証が停止されるわけでもないのだろう。
ただ、この前の件を正式処分なしで済ませてもらった人間が、追加確認と協力だけを断る。しかも、未申告異常物品使用疑いの注意記録付きで。その記録がどう見えるかくらいは、俺にも分かる。
「……これ、強制だよなあ」
誰もそうは言っていない。文面には、相談、協力、日程調整という言葉が並んでいる。断れる形はしているが、断った後の扱いまでは書かれていない。
俺はスマホをテーブルに置き、肩を落とした。
処分はされなかった。登録停止にもならなかった。活動制限も、今のところはない。ありがたい話だ。本当にありがたい。そのありがたさが、そのまま首輪の重さになっている。
不問ではない。注意記録は残っている。
それでも、世間一般の感覚で言えば、かなり見逃してもらった側だろう。その人間が、次に差し出された協力依頼を断る。選択肢として存在していても、現実的に選びにくい。
「もうどうにでもなーれ」
口に出すと、少しだけ気が抜けた。状況は何もよくなっていないのに、投げやりな言葉だけは妙に軽かった。
通知本文の下部には、日程候補が三つ並んでいた。いずれも近い。最短は明後日。午前に健康確認と心理確認、午後に水門異常空間での動作記録協力。予備日あり。体調不良時は連絡。
普通なら、もう少し後の日付を選ぶ。考える時間が欲しい。準備もしたい。心の整理もしたい。水門という文字を見なかったことにして、一晩寝たい。
先延ばしにしても、その間ずっとこの通知が頭の中に残るだけだった。
俺は一番早い日付を選んだ。
確認画面が出る。
正式五級登録者向け追加確認および任意協力の日程を、以下の内容で承諾しますか。
承諾。
その言葉が、任意よりもずっと重く見えた。指が一度止まり、すぐに画面へ触れた。戻ることはできる。だが、戻った先に逃げ道が用意されているわけではない。
承諾ボタンを押すと、送信完了の表示が出た。
すぐに自動返信が届く。受付番号、集合時間、持参物、服装、体調確認フォームへのリンク。文面は、最初からこうなることが決まっていたみたいに整っていた。
俺はスマホを伏せた。
さっきまで冷蔵庫の奥にあった小瓶は、もうない。代わりに、俺の予定表には水門ダンジョンが入った。
なくしたものと増えたものを比べても、どちらがましなのかは分からなかった。
任意協力。
声に出すと、やっぱり強制に聞こえた。




