第102話 力押し
任意協力の日は、思ったより早く来た。
通知を承諾した時点で分かっていたことではあるが、分かっていたからといって気持ちが追いつくわけではない。前日の夜、俺は持参物を何度も確認し、体調確認フォームに入力し、寝ようとして、結局あまり眠れなかった。
集合場所は、水門ダンジョンの管理拠点だった。
以前来た時よりも、周囲の雰囲気はさらに物々しくなっていた。仮設のフェンス、警備員、管理窓口の受付、資材置き場、車両用の誘導線。遠くには自衛隊の車両も見える。入口付近で何かを撮影している人間はいない。少なくとも、一般人が気軽に近づける場所ではなくなっていた。
受付で登録証を提示すると、担当者に別室へ案内された。
体調確認は、思っていたより簡単だった。
血圧、脈拍、睡眠時間、食事、痛みの有無、気分不良の有無。いくつか事件後の状態について聞かれたが、深掘りされることはなかった。今日の主目的は、机に向かって質問に答えることではないらしい。
「本日は、水門異常空間の上層管理区画内で実施します。未確認区域への進入はありません。第二層奥部、水域奥側、危険反応の残る区域には入りません」
「はい」
「内容は、実戦を想定した接近対応、拘束からの離脱、短棒使用時の距離管理、制圧補助動作の確認です。訓練用装備と防護要員を使用します」
動作記録協力、という通知文面より、ずっと直接的だった。
要するに、戦闘訓練だ。
そう言われた方が分かりやすい。分かりやすい分だけ、胃も重い。
午後、俺は水門ダンジョンの入口近くに設けられた訓練区画へ向かった。
上層の一部は、以前より人間側の管理物が増えていた。滑り止めのマット、区画を示すロープ、照明、記録用カメラ、退避方向を示す表示。湿った空気と、水門ダンジョン特有の生臭さはそのままだが、人の手が入っているのは分かる。
奥へ行くわけではない。
今日は、ここまで。
そう説明されている。
訓練区画では、三宅一等陸尉が待っていた。管理窓口の職員、記録担当の隊員、防護装備を着た自衛隊員が数名。防護装備は訓練用だと説明されたが、ヘルメット、フェイスガード、胴体、腕、脚まで覆われている。見た目だけなら、こちらが襲われる側というより、こちらが取り押さえられる側に近い。
「三宅です。本日はよろしくお願いします」
「戸張です。よろしくお願いします」
挨拶をして、貸与装備を受け取る。
短棒は樹脂製だった。普段使っている物に近い長さと重さに調整されているらしい。持った瞬間、手が勝手に重心を探った。そこで、少しだけ嫌な汗が出た。
見られている。
手の中で数ミリ動かすだけでも、見られている。
「まず準備運動を行います。痛みや違和感があれば、すぐに申告してください」
「はい」
軽く体を動かす。肩、肘、手首、腰、膝、足首。屈伸、伸脚、短いダッシュ、止まって方向転換。準備運動としては普通だった。
ただ、普通に動くことが難しい。
力を抜きすぎれば、変に滑らかになる。意識しすぎると、ぎこちなくなる。いつものように動けば、どこまで拾われるか分からない。
器用すぎても不自然だ。
できるだけ力押ししている感じでいく必要があるな。
俺は短棒を握り直した。
細かく当てる。関節を逃がす。相手の重心が崩れる場所に置く。そういう動きは、たぶんよくない。いや、よくないというか、見られると困る。
多少雑に見えるくらいでいい。
力で押している。反射で避けている。たまたま止まった。そう見える方が、まだ説明しやすい。
「では、一対一の接近対応から始めます」
三宅一等陸尉の合図で、防護装備の隊員が前へ出た。
「相手は正面から接近し、肩または腕を掴みに来ます。戸張さんは距離を取り、可能なら押し返してください。打撃は禁止。関節を極める動作も禁止です」
「分かりました」
隊員がゆっくり近づく。
一歩、二歩。
手が伸びる。
本当なら、手首の外側に短棒を置いて、肘の動きを止めればいい。足の向きを見れば、次に踏み込む方向も分かる。肩を少しずらせば、相手は前に出にくい。
俺は短棒を大きめに出した。
細かく当てるのではなく、相手の前腕ごと押す。隊員の腕が防護具ごと横へ流れた。俺は半歩下がり、もう一本の短棒を胸元の防護具に当てて押し返す。
「止め」
声がかかる。
力で押しただけ。
そう見えたはずだ。
「今のは、押し返す意識で?」
三宅一等陸尉が確認する。
「はい。掴まれたくなかったので」
「分かりました。もう一度、少し速度を上げます」
二回目は、隊員の踏み込みが速くなった。
手が近い。短棒で弾ける。いや、弾くときれいに見えすぎる。
俺はあえて体ごとぶつけるように、相手の腕を外へ押した。防護具越しに重さが伝わる。相手は止まったが、こちらの肩にも衝撃が来た。
少し痛い。
でも、その方が自然だ。
「止め」
防護装備の隊員が一歩下がる。
「痛みは?」
「ありません」
本当は少しある。申告するほどではない。
三宅一等陸尉は、隊員に確認した。
「どうだった」
「力で押されました。ただ、押す場所がずれないです。腕ごと来られるので、踏み込みが止まります」
「戸張さん、今の位置は狙いましたか」
「近かったので、押し返しました」
「分かりました」
分かった、で済ませないでほしい。
その声に含まれるものを考えると、余計なことを言いそうになる。
次は、袖や腕を掴まれた状態からの離脱だった。
防護装備の隊員が俺の袖を掴む。訓練用なので、力は抑えられている。普通に外すなら、親指側へ抜いて、相手の肘を止める。けれど、きれいに抜けすぎるのはまずい。
俺は一度、あえて引っ張った。
抜けない。
隊員の体が少し前に出る。
そこへ、短棒を横から押し込む。肘ではなく、前腕と胴体の間。極めるのではなく、邪魔をするだけの位置。相手の姿勢が詰まり、握りが緩む。
そこで腕を引き抜いた。
「止め」
三宅一等陸尉の声が飛ぶ。
まただ。
俺は内心で舌打ちした。雑にやったつもりだったのに、止められる。
「今の初動は、抜けない確認をしましたか」
「……掴まれたので、とりあえず引きました」
「その後の短棒は」
「近づかれたくなかったので、間に入れました」
「肘を取る位置ではありませんでした」
「関節は禁止と言われたので」
「ええ。禁止された範囲には入っていません」
その言い方が一番嫌だった。
禁止された範囲には入っていない。つまり、入っていない場所で止めていると見られた。
訓練は、徐々に実戦寄りになっていった。
一人が掴みに来る。もう一人が横から入る。正面の相手が注意を引き、後ろ気味の位置から二人目が手を伸ばす。足場は滑り止めマットの上だが、完全に平らではない。合図も毎回同じではなかった。
俺は、なるべく力で押した。
短棒を細かく使わない。相手の手首だけを狙わない。肩や胴体の防護具に当て、押し返す。距離が詰まれば、少し強引に体を入れ替える。二人相手の時は、片方をもう片方との間に置くような動きになりそうになって、慌てて大きく下がった。
それでも、何度か自分でもまずいと思う動きが出た。
横から来た隊員の足音に、体が先に反応した。視界の端に入る前に、短棒がそちらを向きかける。途中で止め、遅れたふりをして後退する。
正面の隊員がフェイントを入れた時、肩ではなく腰の向きを見てしまった。踏み込まないと分かった瞬間、意識が二人目へ移る。反応が早すぎると思い、わざと一拍遅れて押し返した。
わざと遅れる。
わざと雑にする。
やっていることが、訓練なのか演技なのか分からなくなってくる。
「止め。休憩にします」
三宅一等陸尉の合図で、いったん区切られた。
管理窓口の職員から水を渡される。未開封のペットボトルだった。キャップを確認してから受け取った自分に気づき、少し嫌になる。疑い深くなったというより、確認しないと落ち着かない。
「体調はどうですか」
「大丈夫です」
「痛みは」
「少し肩に来ています。問題はないです」
「記録します」
職員がタブレットに入力する。
三宅一等陸尉は、少し離れた場所で隊員たちと話していた。声は聞こえない。防護装備の隊員が、こちらを見ながら自分の腕を軽く動かしている。
俺は水を飲み、湿った壁を見た。
上層管理区画。
今日は、ここまで。
そう説明されている。
それでも、水門ダンジョンの空気は奥へ続いている。湿り気と、土と、変な生臭さ。その先に何が残っているのか、俺は一部を知っている。知らないことの方が多い。
休憩後は、制圧補助の想定になった。
「防護要員が不審者役です。戸張さんは、相手を倒す必要はありません。逃走方向を塞ぐ、腕を自由にさせない、味方要員が確保するまでの数秒を作る。それだけで構いません」
「はい」
それだけ。
その数秒を作るのが、一番危ない気がする。
訓練開始の合図で、不審者役の隊員が横へ逃げる。もう一人の隊員が追う。俺は補助役として動く。
本当なら、逃げる先を塞ぐだけでいい。体を入れる。短棒を出す。相手の肩を壁側へ向ける。そこまで考えた時点で、俺は動きを変えた。
力押しだ。
逃げる隊員の進路に大きく踏み込み、短棒を胸部の防護具に当てて押し戻す。勢いを殺しきれず、こちらの足も少し滑る。隊員は止まった。俺も一歩下がる。
「止め」
三宅一等陸尉が近づいてきた。
「今のは、かなり強引でしたね」
「すみません」
「いえ。強引なのは構いません。実戦では、きれいに止められる状況の方が少ない」
予想と違う言葉だった。
三宅一等陸尉は、防護装備の隊員に目を向ける。
「押された感覚は」
「力はあります。ただ、正面から押されたというより、逃げる方向を潰された感じです。結果的に押し戻されました」
また、結果的に。
俺は口を閉じた。
「戸張さん」
「はい」
「かなり力で処理しようとしているように見えます」
心臓が一瞬だけ嫌な動きをした。
「はい。細かいことをすると危ないと思ったので」
「その判断自体は悪くありません。今日の条件では、関節や打撃を避けてもらっていますから」
「はい」
「ただ、力で押している割に、相手が動きたい方向を塞ぐのが早い。そこは記録しておきます」
隠せていない。
全部ではないとしても、何かは残っている。
その後も、何度か想定を繰り返した。相手が逃げる。掴みに来る。押し返す。回り込む。味方役が確保するまでの数秒を作る。
俺は最後まで、できるだけ雑に動いた。肩で押し、短棒で押し、足を大きく使う。細かい制御は避ける。避けたつもりだった。
訓練は、予定より少し早く終了した。
危険があったからではない。三宅一等陸尉が、ここまでで十分です、と言ったからだ。
管理区画の外へ出ると、空気が軽く感じた。外の空気がきれいなわけではない。中が重すぎただけだ。
装備を返却し、体調確認をもう一度受ける。大きな異常なし。肩に軽い痛み。気分不良なし。疲労あり。職員が淡々と記録していく。
帰れる。
そう思ったところで、三宅一等陸尉に呼ばれた。
「戸張さん。少しお時間よろしいですか」
「はい」
断る理由はない。断るほどの元気もない。
仮設の打ち合わせスペースに通される。管理窓口の職員も同席した。三宅一等陸尉は、机の上に薄い資料を置いた。
「本日の協力、ありがとうございました」
「いえ」
「訓練としては、こちらの想定以上に参考になりました。その上で、追加のお願いがあります」
追加。
その言葉だけで、肩のあたりが重くなった。
「明日、水門異常空間の三層に一度入っていただけませんか」
俺は、すぐには返事ができなかった。
三層。
今日の説明では、上層の管理済み区画内だった。未確認区域には入らない。第二層奥部にも近づかない。そう聞いていた。
「原則は短時間進入です。目的は探索ではありません」
三宅一等陸尉は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、三層である以上、カエル型を含む敵性生物との接触は想定します」
カエル型。
水門で自衛隊が苦労した相手だ。銃で撃っても、すぐには止まらない。跳ぶ。距離を詰める。隊列を崩す。
俺は、今日の訓練で何度も言われた言葉を思い出した。
数秒止める。進路を塞ぐ。逃げ道を作る。
「その場合、自衛隊側が対応するんですよね」
「主対応はこちらで行います。戸張さんを単独で前に出す計画はありません」
「はい」
「その上で、お願いがあります」
お願い。
任意と同じくらい、最近信用できなくなってきた言葉だ。
「接触が発生した場合、戸張さんには撤退支援と接近阻止の補助に入っていただきたい」
俺は、すぐには返事ができなかった。
「補助、ですか」
「はい。前線に立って倒す役ではありません。追ってくる相手の進路を塞ぐ。隊員が下がる数秒を作る。崩れかけた隊列の横に入って、距離を戻す。本日の訓練で確認した動きは、そこに向いています」
倒す役ではない。
そう言われても、危ない場所に近づくことに変わりはない。
「カエル型相手に、俺で止まりますか」
「分かりません」
三宅一等陸尉は、そこで変にごまかさなかった。
「分からないから、単独で前に出すことはありません。指示系統はこちらで持ちます。自衛隊側が主対応し、戸張さんは必要な場面で補助に入る。危険と判断すれば、こちらの指示で下がってもらいます」
「俺が独断で動くのはなし、ということですね」
「はい。追わない。深追いしない。隊列から離れない。前に出る場合も、指示または明確な撤退支援の範囲内です」
管理窓口の職員が、資料を確認しながら補足する。
「記録上は、戦闘参加ではなく、撤退支援および接近阻止補助になります。こちらも任意協力です。断っていただいても、ただちに処分や制限が発生するものではありません」
また任意だ。
俺は、机の上の資料を見た。
水門異常空間。三層。自衛隊同伴。短時間進入。接触時は自衛隊主対応。戸張透は撤退支援および接近阻止補助。即時撤退基準あり。体調確認必須。参加任意。
文字は整っている。整っている分だけ、逃げ道が見えにくい。
今日の訓練で、俺は普通の五級としては見られていない。そう分かっていても、次の予定として差し出されると、腹の底が冷える。
水門の奥には、まだ白いものが残っているかもしれない。
俺はそれを知っている。
知らないふりをしたまま、自衛隊と一緒に入る。
「……三層に入って、接触がなければ、そのまま戻るんですよね」
「その予定です」
「接触があった場合は、自衛隊側が主対応。俺は必要に応じて、下がる時間を作る」
「はい」
「分かりました」
口が先に動いた。
「明日、行きます」
三宅一等陸尉は、表情を大きく変えずに頷いた。
「ありがとうございます。詳細は本日中に管理窓口から送付します」
「はい」
俺は頷きながら、内心で少しだけ笑った。
任意協力、一日目。
力押しでごまかしたつもりが、普通に三層でカエル対策の補助に入れられた。




