第94話 後手
入口候補の外観確認は、戸張の予想よりもずっと整っていた。
拍子抜け、と言うには違う。軽かったわけではない。ただ、誰かが勝手に踏み込むことも、フェンスを越えることも、封鎖らしき場所を覗き込むこともなかった。
槙野は最初から最後まで線を引いていた。公道から見える範囲。管理者が分かる場所は確認を取る。取れなければ近づかない。写真は必要最低限。周辺の住宅や通行人は写さない。危険だと思ったら、その時点で中止。
安全靴の民も、紙の盾も、草色ジャケットも、その線を越えなかった。新しく加わった地図読みと二駅先も同じだった。地図を見て、現地を見て、記録して、戻る。そこまでだった。
数件の入口候補は残った。
古い排水路図と現在の地図が合わない場所。廃業した商業施設の地下搬入口。山際の管理用トンネル跡。川沿いの倉庫裏。
そのうち二件は、国への情報提供フォームに送ることになった。一件は管理者不明のため保留。もう一件は、看板の連絡先を確認してから判断する。
それは、冒険でも探索でもなかった。
正式五級が許されている範囲を、正しくなぞる作業だった。
戸張は、それを見て少し認識を改めた。五級登録者は、思ったより浮ついていない。少なくとも、この互助会の中ではそうだった。槙野の影響も大きいのだろうが、誰も「入ってみよう」とは言わなかった。
だからこそ、次に起きたことは、余計に質が悪かった。
川沿いの廃業倉庫の件で、地図読みが先に連絡を入れた。
管理者看板があるかもしれない。外から見えるなら、連絡先だけ確認してくる。敷地には入らない。写真は看板だけ。草色ジャケットが同行する。撮影範囲を見ておきたい。
槙野は、チャットで何度も確認した。
入らないこと。触らないこと。人がいたら近づかないこと。異常があればすぐ戻ること。
二人は了解した。
戸張も、少し遅れて現地へ向かう予定だった。
その数十分前、草色ジャケットと地図読みは、駅から川沿いの道を歩いていた。
昼を少し過ぎた時間だった。人通りは少ない。道の片側には低いフェンスが続き、その奥に使われていない倉庫が見えた。壁は色褪せ、シャッターには錆が浮いている。敷地の端に古い看板が残っていた。
草色ジャケットは、立ち止まってスマートフォンを出した。
「看板、読めますか」
「少し待ってください」
地図読みが、道路側から目を細める。二人ともフェンスには近づきすぎない。足元も、白線の内側に留めていた。
草色ジャケットは写真を撮る前に、画面の端を確認した。住宅が映らない角度。通行人が入らない角度。槙野に言われた通りだった。
その時、倉庫の裏手から小さな音がした。
金属が何かに当たるような音だった。
二人は同時にそちらを見た。
敷地の奥に、白いバンが停まっていた。普通の作業車に見えた。側面に会社名らしき文字はない。後部の扉が開いている。作業服の男が三人、何かを運んでいた。
草色ジャケットは、反射的にスマートフォンを下げた。
地図読みが、小さく言った。
「戻りましょう」
「はい」
二人はそれ以上見ようとしなかった。
しかし、遅かった。
作業服の男の一人がこちらに気づいた。男は荷物から手を離し、顔をしかめる。何かを叫んだ。次の瞬間、倉庫の横から別の男が出てきた。
「おい。今、撮ったか」
声には、怒りよりも焦りがあった。
草色ジャケットはスマートフォンを体の横へ下げたまま、首を振った。
「看板を確認していただけです。敷地には入っていません」
「撮ったかって聞いてんだよ」
「撮ってません。帰ります」
草色ジャケットは地図読みを促して、駅の方へ戻ろうとした。
男がフェンスの切れ目から出てきた。そこが開いていたことに、二人はその時初めて気づいた。
「待て」
地図読みが走り出した。
草色ジャケットも続こうとしたが、別の男が前に回り込んだ。数が多い。四人、いや五人。全員が作業服だった。顔に特徴はない。だが、目だけが違った。人に見られて困った時の目ではなかった。見られたものを、どう片付けるか考えている目だった。
「スマホ出せ」
「警察を呼びます」
地図読みの声は震えていた。それでも、スマートフォンを握り直していた。
男の一人が笑った。
「呼べるならな」
草色ジャケットは地図読みの前に半歩出た。
「私たちは正式五級登録者です。ここは入口候補として報告対象にしています。今、手を出すと」
最後まで言えなかった。
鈍い音がして、草色ジャケットの体が横へ崩れた。殴られたのではない。足を押さえ、声にならない息を吐いている。
その少し後に、短い破裂音が耳へ届いた。
地図読みの動きが止まった。
男の手には銃があった。黒い筒のようなものが先についている。音は小さかった。それでも、草色ジャケットの足から血が出ている事実は変わらなかった。
「登録者だってよ」
別の男が吐き捨てるように言った。
「だから何だよ。見られたら同じだろ」
「中に入れろ。ついでだ」
「まだ生きてる」
「だから入れんだよ」
草色ジャケットが地図読みへ何か言おうとした。地図読みは動けない。銃口が向いている。
男たちは二人からスマートフォンを奪い、腕を掴んだ。
「仕事増やしやがって」
誰かがそう言った。
それだけだった。
大義も、理由も、怒りもなかった。
見られた。困る。だから片付ける。
その程度の言葉で、人間二人を奥へ引きずっていった。
戸張が現地に着いた時、最初に見えたのは、道の端に落ちた手袋だった。
片方だけだった。新品ではない。軍手より少し厚い、滑り止めのついた作業用手袋。チャットで泥つき手袋が使っていそうだと一瞬思ったが、違う。草色ジャケットが、前に写真で出していたものに似ていた。
次に、血の跡が見えた。
量は多くない。だが、点のように落ちて、擦れたように伸びている。そこからフェンスの切れ目へ続いていた。
戸張は足を止めた。
空気が変わった。
入口候補を見に来た時の、緊張とは違う。もっと嫌なものだった。
道の脇に、スマートフォンのケースが落ちている。中身はない。踏まれて割れていた。フェンスの近くには、靴底が乱れた跡がある。二人分。そこに、作業靴らしい大きな跡が複数重なっていた。
戸張はスマートフォンを取り出し、互助会のチャットを開いた。
草色ジャケットの最後の投稿は、二十分前だった。
草色ジャケット:現地付近に着きました。看板だけ確認します。
地図読み:敷地には入りません。
その後、既読は増えていない。
戸張は通話をかけた。草色ジャケットにはつながらない。地図読みにもつながらない。
胸の奥が冷えた。
想像ではなく、状況として分かった。
二人は連れ込まれた。
それも、ダンジョンの疑いがある場所へ。
助けを呼ぶべきだった。
警察。槙野。管理窓口。正式五級向けの緊急連絡先。手順としては、それが正しい。
戸張は実際に通報した。場所を伝え、血痕があること、二人と連絡が取れないこと、入口候補の確認中だったことを話した。槙野にも送った。写真も撮った。位置情報も送った。
そこまでは、正式五級として正しかった。
だが、それだけでは足りなかった。
待てば、二人は死ぬ。
そう思ったのではない。
そういう場所へ連れ込まれたのだ。
ダンジョンの中に、人間を連れていく理由など限られている。助けるためではない。話し合うためでもない。人の目がない場所で、処理するためだ。
戸張はフェンスの切れ目を見た。
足跡は奥へ続いている。倉庫裏の壁際。古い搬入口。その先に、影の濃い開口部があった。普通の地下口に見える。だが、頭の奥で、細い疼きが起きた。
言葉ではない。
ただ、そこが入口だと体の内側が先に理解していた。
戸張は一歩踏み出しかけて、止まった。
入れば、説明ができない。
どうやって追いついたのか。どうやって生きて戻ったのか。もし二人を助けたとして、その時に何を見られるのか。
寄生体。糸。眷属。普通ではない動き。
全部、説明できない。
それでも、ここで待てば死ぬ。
草色ジャケットに強い思い入れがあるわけではない。地図読みとも、ほとんど話していない。友人ではない。仲間と呼べるほど近くもない。
けれど、ついさっきまで同じチャットにいた。
ルールを守っていた。
敷地に入らず、看板だけ確認しようとしていた。
それを、暴力で踏みにじられた。
戸張は奥歯を噛んだ。
人間相手だから。
登録者だから。
通報したから。
そういう理由で、待てる場面ではなかった。
後手に回れば、殺されるのは向こうだけではない。
自分もそうなる。
ダンジョンの中で、殺すつもりの人間に会った時、こちらが一手遅らせる理由はない。
戸張はスマートフォンをしまった。
通報はした。位置情報も送った。写真も送った。チャットへのSOSも忘れない。
その上で、待たない。
フェンスの切れ目を抜ける時、頭の奥の疼きが少し強くなった。
戸張は、古い搬入口の暗がりへ向かった。




