第95話 先手
古い搬入口の奥は、地下倉庫ではなかった。
戸張は一歩入った瞬間に、それを理解した。
コンクリートの壁も、錆びた手すりも、剥がれた注意書きも、最初の数メートルだけだった。そこから先は、暗い。階段は下へ続いているように見えたが、足を置いた感触が途中で変わった。硬い床のはずなのに、わずかに沈む。湿っている。空気が冷たい。
普通の地下施設ではない。
頭の奥で、細い疼きが強くなる。
言葉ではない。
ただ、そこが異常空間の内側だと、体の方が先に理解していた。
戸張は走った。
人間の速度ではなかった。足裏が床を叩くたびに、膝から腰へ衝撃が抜ける。だが、痛みはない。筋肉が軋む感覚も、息が詰まる感覚も、後ろへ置いていかれる。
暗さは邪魔にならなかった。
目が拾いきれない分を、耳と鼻と皮膚が拾っていた。
靴底が擦れる音。
荒い息。
男の罵声。
何か重いものを引きずる音。
血の匂い。
湿った土と、古い油と、倉庫に残った埃の匂い。その中に、人間の汗と体温が混じっている。
遠くはない。
相手は荷物を持っている。
人間二人を抱え、引きずり、脅しながら進んでいる。速く動けるはずがない。
それでも、間に合うとは限らない。
戸張はさらに踏み込んだ。
床が一度、強く鳴った。ひび割れたような音が足元から返る。構っていられなかった。
奥で、空気が抜けるような音がした。
乾いた破裂音ではない。もっと潰れた、息を詰めて吐き出したような音。
銃声だと理解するより先に、体が反応した。
その直後、悲鳴が聞こえた。
地図読みの声だった。
戸張は歯を食いしばった。階段とも坂ともつかない通路を、ほとんど跳ぶように駆け下りる。曲がり角の先で、薄い光が揺れていた。ライトの光だ。複数ある。影が乱れている。
戸張が現場へ出る、その数秒前。
草色ジャケットは床に倒れていた。
外で撃たれた足から血が滲み、顔色は悪い。意識はない。痛みと失血と、ここまで引きずられる間に受けた暴力で、もう反応できなくなっていた。
地図読みだけが、かろうじて意識を保っていた。
手首を縛られ、頬が腫れ、呼吸が乱れている。それでも、草色ジャケットが男に襟を掴まれた瞬間、体が動いた。
「やめて」
声は小さかった。
「もう、意識ないんです」
「だから何だよ」
男は面倒そうに言った。
「動かねえなら楽でいいだろ」
別の男が笑った。
「ここまで持ってきたんだ。まとめて奥に放れ」
地図読みは、草色ジャケットの上に覆いかぶさるように動いた。
庇った。
考えて動いたのか、反射だったのか、自分でも分からなかった。
銃を持った男が舌打ちした。
「邪魔」
空気が抜けるような音がした。
地図読みの体が跳ねた。
悲鳴は、一度だけだった。
その声を最後に、地図読みの意識も落ちた。
次の瞬間、戸張は現場に出た。
そこは、広い点検室のような空間だった。天井は低く、壁には使われていない配管が何本も走っている。ただ、奥の壁だけが違った。コンクリートが崩れ、その向こうに黒い土のようなものが覗いている。そこから湿った空気が流れ込んでいた。
男は五人。
一人は銃を持っていた。
一人は草色ジャケットの襟を掴んでいる。
一人は地図読みの体を足でどけようとしている。
残り二人は、白いバンから運んできたらしい黒い袋を床に置いていた。形は見ない方がよかった。だが、戸張は見てしまった。人間一人分に近い重さと形を、袋は持っていた。
草色ジャケットは動かない。
地図読みも動かない。
地図読みの腹の横から、血が広がっている。
「誰だ」
銃を持った男がこちらを向いた。
戸張は答えなかった。
怒りではなかった。
少なくとも、最初に体を動かしたのは怒りではなかった。
モンスターを相手にしている時と同じ、冷たい感覚が脳髄に注がれる。
余計なものが沈む。
相手が人間であること。言葉が通じるかもしれないこと。警告すれば止まるかもしれないこと。そういう考えが、薄い膜の向こうへ押し出されていく。
残ったのは、位置だった。
銃。
銃を持つ手。
銃口の向き。
草色ジャケットまでの距離。
地図読みまでの距離。
男たちの足の位置。
逃げ道。
戸張は声を出さなかった。
名乗らなかった。
止まれとも言わなかった。
銃口が上がる。
遅い。
戸張は踏み込んだ。
男が引き金に指をかけた。撃たれる、と戸張は理解した。避けるには距離が近い。止めるには半歩足りない。
その瞬間、視界の端で黒いものが跳ねた。
自分の髪だった。
そう見えた。
髪に見えていた何かが、頬の横で広がり、硬い音を立てた。弾かれたものが壁に当たり、配管の一部を削った。遅れて、潰れた銃声が耳へ届く。
戸張は考えなかった。
考えれば遅れる。
次の一歩で、銃を持つ男の手首を掴んだ。
力を入れた感覚は、ほとんどなかった。
乾いた音がした。
男の手から銃が落ちる。落ちた銃が床を跳ねるより早く、戸張は男の肘を押し込み、肩から壁へ叩きつけた。背中が配管にぶつかり、金属が嫌な音を立てる。
男は悲鳴を上げた。
遅れて。
戸張は銃を足で蹴った。暗い床を滑り、配管の下へ消える。
「なんだ、こいつ」
地図読みを足でどけようとしていた男が顔を上げた。
戸張はそちらを見なかった。
見なくても、動きは聞こえた。
右から一人。近い。金属が擦れる音。刃物か、工具か。
戸張は半歩沈んだ。振り下ろされたものが頭上を抜ける。相手の腕を掴み、引いた。引くだけでは足りない。踏み込んで、膝を相手の足へ当てる。
男の体勢が崩れた。
その瞬間、戸張は背中から床へ落とした。
肺から空気が抜ける音がした。男は口を開けたまま、声を出せなかった。
「やれよ!」
誰かが叫んだ。
草色ジャケットの襟を掴んでいた男が、気絶している草色の体を引き起こそうとした。盾にするつもりだったのだと、戸張は一瞬で分かった。
体の奥が、さらに冷える。
走った。
距離は短い。
男が草色を引き寄せるより、戸張の方が早かった。
戸張の肩が男の胸元に入る。人間同士のぶつかり方ではなかった。男の体が浮き、背中から壁へ叩きつけられる。古い配管が外れ、錆びた水が飛び散った。
草色ジャケットの体が床へ崩れかける。
戸張は反射的に支えた。
軽かった。
人間一人分の重さがあるはずなのに、ひどく軽く感じた。
意識はない。
見られていない。
戸張は草色を床へ戻した。
傷は見ない。
見れば手が止まる。
先に止める。
まだ動く奴がいる。
黒い袋のそばにいた若い男が、奥の崩れた壁へ走った。
仲間を見ることも、草色を見ることも、地図読みを見ることもなかった。自分の体だけを抱えるようにして逃げる。
「俺は関係ない!」
叫びながら走る。
戸張は追った。
逃がさない。
今ここで逃げた人間は、外でまた誰かを殺す。
男が崩れた壁を抜けようとした瞬間、戸張は背後から肩を掴んだ。
引き戻す。
男の足が床から離れた。
「頼まれただけだ、俺は運ぶだけで」
男の言葉は、壁に叩きつけられて途切れた。
戸張は続けて腹へ膝を入れた。男の体が折れ、床へ崩れる。吐きそうな音がした。戸張は襟首を掴み、顔が床に当たる寸前で止めた。
殺さない。
だが、動かさない。
床へ伏せさせ、腕を背中側へ捻る。男が声にならない音を出した。戸張はそこで止めた。
残りは二人。
一人は最初に銃を持っていた男。腕を押さえて座り込んでいる。もう一人は、少し離れた場所で状況を見ていた。
主任格だと、戸張は判断した。
その男だけは、すぐには逃げなかった。
四十代半ばほど。作業服の上に薄い上着。手袋。汚れているのに、身なりは妙に整っている。顔には驚きがあった。だが、それ以上に計算があった。
「待て」
男は両手を少し上げた。
「お前、登録者だろ」
戸張は近づいた。
「警察を呼んだのか。呼んだなら、なおさらだ。俺たちをどう説明する。そいつらをどう助ける。お前、普通じゃないだろ」
戸張は止まらない。
「取引しよう。金なら」
男の言葉が途中で切れた。
戸張が男の膝を蹴ったからだった。
蹴ったというより、折る位置に足を置いた。
男の体が沈む。膝から崩れ、手をつく。その手が懐へ伸びかけた。
戸張はその手首を踏んだ。
骨が鳴った。
男の顔から計算が消えた。
「あ、が」
ようやく、痛みだけの声になる。
戸張はその顔を見下ろした。
殺したいわけではない。
そう思った。
思えたことに、少しだけ安心した。
だが、手を緩める理由にはならなかった。
相手は殺すつもりで地図読みを撃った。
草色ジャケットを連れ込んだ。
見られたから片付ける。その程度の理由で、人をダンジョンに運んだ。
ここで緩めれば、次に動く。
次に動けば、誰かが死ぬ。
戸張は主任格の襟を掴み、床へ伏せさせた。動けない位置まで腕を捻る。男が叫ぶ。戸張はそこで止めた。止めただけだった。
視界の端で、最初に銃を持っていた男が動いた。
折れた腕を抱えながら、床を這っている。
銃ではない。
配管の下へ蹴り込んだ銃には届かない。
だが、男はそれでも何かを探していた。工具か、刃物か、別の何かか。戸張には分からない。
分からないなら、止める。
戸張は銃持ちの男へ歩いた。
「来るな」
男が叫んだ。
「来るな、化け物」
戸張は止まらなかった。
男が床に落ちていた金具を掴んだ。振り上げる前に、戸張はその手を踏んだ。指が開く。金具が落ちる。
男の顔面が恐怖で歪んだ。
戸張は男の肩を押し、壁へ固定した。腕を使えない位置へずらす。膝を床へつかせる。そこまでで止めた。
全員が動けなくなった。
時間にして、どれくらいだったのか分からない。
長かった気もする。
短かった気もする。
ただ、地図読みの呼吸だけは、明らかに短くなっていた。
戸張は振り返った。
草色ジャケットは気絶している。脚から血は出ているが、胸はかすかに上下している。
地図読みは、草色を庇うような形のまま倒れていた。
腹の横から、血が広がっている。
呼吸が浅い。
浅すぎる。
戸張は地図読みの横に膝をついた。
目は閉じている。意識はない。呼びかけても反応しない。
戸張は手を伸ばしかけて、周囲を見た。
草色ジャケットは気絶している。
地図読みも見ていない。
男たちは動けない。
今なら、見られない。
そう確認した瞬間、自分が何をしようとしているのかを理解した。
普通の手当てでは間に合わない。
救急が来るまで、持たない。
説明できる手段では助からない。
戸張は奥歯を噛んだ。
遅ければ死んでいた。
話していれば死んでいた。
待っていれば死んでいた。
だから、先に潰した。
それでも、まだ足りない。
地図読みの胸が、次の呼吸を忘れたように止まりかける。
戸張は血で濡れた服の上から、傷へ手を押し当てた。
頭の奥の疼きが、そこへ向いた。
言葉はない。
返事もない。
ただ、内側にあるものが、血の匂いへ集まっていく感覚だけがあった。




