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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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95/254

第95話 先手

 古い搬入口の奥は、地下倉庫ではなかった。

 戸張は一歩入った瞬間に、それを理解した。

 コンクリートの壁も、錆びた手すりも、剥がれた注意書きも、最初の数メートルだけだった。そこから先は、暗い。階段は下へ続いているように見えたが、足を置いた感触が途中で変わった。硬い床のはずなのに、わずかに沈む。湿っている。空気が冷たい。

 普通の地下施設ではない。

 頭の奥で、細い疼きが強くなる。

 言葉ではない。

 ただ、そこが異常空間の内側だと、体の方が先に理解していた。

 戸張は走った。

 人間の速度ではなかった。足裏が床を叩くたびに、膝から腰へ衝撃が抜ける。だが、痛みはない。筋肉が軋む感覚も、息が詰まる感覚も、後ろへ置いていかれる。

 暗さは邪魔にならなかった。

 目が拾いきれない分を、耳と鼻と皮膚が拾っていた。

 靴底が擦れる音。

 荒い息。

 男の罵声。

 何か重いものを引きずる音。

 血の匂い。

 湿った土と、古い油と、倉庫に残った埃の匂い。その中に、人間の汗と体温が混じっている。

 遠くはない。

 相手は荷物を持っている。

 人間二人を抱え、引きずり、脅しながら進んでいる。速く動けるはずがない。

 それでも、間に合うとは限らない。

 戸張はさらに踏み込んだ。

 床が一度、強く鳴った。ひび割れたような音が足元から返る。構っていられなかった。

 奥で、空気が抜けるような音がした。

 乾いた破裂音ではない。もっと潰れた、息を詰めて吐き出したような音。

 銃声だと理解するより先に、体が反応した。

 その直後、悲鳴が聞こえた。

 地図読みの声だった。

 戸張は歯を食いしばった。階段とも坂ともつかない通路を、ほとんど跳ぶように駆け下りる。曲がり角の先で、薄い光が揺れていた。ライトの光だ。複数ある。影が乱れている。

 戸張が現場へ出る、その数秒前。

 草色ジャケットは床に倒れていた。

 外で撃たれた足から血が滲み、顔色は悪い。意識はない。痛みと失血と、ここまで引きずられる間に受けた暴力で、もう反応できなくなっていた。

 地図読みだけが、かろうじて意識を保っていた。

 手首を縛られ、頬が腫れ、呼吸が乱れている。それでも、草色ジャケットが男に襟を掴まれた瞬間、体が動いた。

「やめて」

 声は小さかった。

「もう、意識ないんです」

「だから何だよ」

 男は面倒そうに言った。

「動かねえなら楽でいいだろ」

 別の男が笑った。

「ここまで持ってきたんだ。まとめて奥に放れ」

 地図読みは、草色ジャケットの上に覆いかぶさるように動いた。

 庇った。

 考えて動いたのか、反射だったのか、自分でも分からなかった。

 銃を持った男が舌打ちした。

「邪魔」

 空気が抜けるような音がした。

 地図読みの体が跳ねた。

 悲鳴は、一度だけだった。

 その声を最後に、地図読みの意識も落ちた。

 次の瞬間、戸張は現場に出た。

 そこは、広い点検室のような空間だった。天井は低く、壁には使われていない配管が何本も走っている。ただ、奥の壁だけが違った。コンクリートが崩れ、その向こうに黒い土のようなものが覗いている。そこから湿った空気が流れ込んでいた。

 男は五人。

 一人は銃を持っていた。

 一人は草色ジャケットの襟を掴んでいる。

 一人は地図読みの体を足でどけようとしている。

 残り二人は、白いバンから運んできたらしい黒い袋を床に置いていた。形は見ない方がよかった。だが、戸張は見てしまった。人間一人分に近い重さと形を、袋は持っていた。

 草色ジャケットは動かない。

 地図読みも動かない。

 地図読みの腹の横から、血が広がっている。

「誰だ」

 銃を持った男がこちらを向いた。

 戸張は答えなかった。

 怒りではなかった。

 少なくとも、最初に体を動かしたのは怒りではなかった。

 モンスターを相手にしている時と同じ、冷たい感覚が脳髄に注がれる。

 余計なものが沈む。

 相手が人間であること。言葉が通じるかもしれないこと。警告すれば止まるかもしれないこと。そういう考えが、薄い膜の向こうへ押し出されていく。

 残ったのは、位置だった。

 銃。

 銃を持つ手。

 銃口の向き。

 草色ジャケットまでの距離。

 地図読みまでの距離。

 男たちの足の位置。

 逃げ道。

 戸張は声を出さなかった。

 名乗らなかった。

 止まれとも言わなかった。

 銃口が上がる。

 遅い。

 戸張は踏み込んだ。

 男が引き金に指をかけた。撃たれる、と戸張は理解した。避けるには距離が近い。止めるには半歩足りない。

 その瞬間、視界の端で黒いものが跳ねた。

 自分の髪だった。

 そう見えた。

 髪に見えていた何かが、頬の横で広がり、硬い音を立てた。弾かれたものが壁に当たり、配管の一部を削った。遅れて、潰れた銃声が耳へ届く。

 戸張は考えなかった。

 考えれば遅れる。

 次の一歩で、銃を持つ男の手首を掴んだ。

 力を入れた感覚は、ほとんどなかった。

 乾いた音がした。

 男の手から銃が落ちる。落ちた銃が床を跳ねるより早く、戸張は男の肘を押し込み、肩から壁へ叩きつけた。背中が配管にぶつかり、金属が嫌な音を立てる。

 男は悲鳴を上げた。

 遅れて。

 戸張は銃を足で蹴った。暗い床を滑り、配管の下へ消える。

「なんだ、こいつ」

 地図読みを足でどけようとしていた男が顔を上げた。

 戸張はそちらを見なかった。

 見なくても、動きは聞こえた。

 右から一人。近い。金属が擦れる音。刃物か、工具か。

 戸張は半歩沈んだ。振り下ろされたものが頭上を抜ける。相手の腕を掴み、引いた。引くだけでは足りない。踏み込んで、膝を相手の足へ当てる。

 男の体勢が崩れた。

 その瞬間、戸張は背中から床へ落とした。

 肺から空気が抜ける音がした。男は口を開けたまま、声を出せなかった。

「やれよ!」

 誰かが叫んだ。

 草色ジャケットの襟を掴んでいた男が、気絶している草色の体を引き起こそうとした。盾にするつもりだったのだと、戸張は一瞬で分かった。

 体の奥が、さらに冷える。

 走った。

 距離は短い。

 男が草色を引き寄せるより、戸張の方が早かった。

 戸張の肩が男の胸元に入る。人間同士のぶつかり方ではなかった。男の体が浮き、背中から壁へ叩きつけられる。古い配管が外れ、錆びた水が飛び散った。

 草色ジャケットの体が床へ崩れかける。

 戸張は反射的に支えた。

 軽かった。

 人間一人分の重さがあるはずなのに、ひどく軽く感じた。

 意識はない。

 見られていない。

 戸張は草色を床へ戻した。

 傷は見ない。

 見れば手が止まる。

 先に止める。

 まだ動く奴がいる。

 黒い袋のそばにいた若い男が、奥の崩れた壁へ走った。

 仲間を見ることも、草色を見ることも、地図読みを見ることもなかった。自分の体だけを抱えるようにして逃げる。

「俺は関係ない!」

 叫びながら走る。

 戸張は追った。

 逃がさない。

 今ここで逃げた人間は、外でまた誰かを殺す。

 男が崩れた壁を抜けようとした瞬間、戸張は背後から肩を掴んだ。

 引き戻す。

 男の足が床から離れた。

「頼まれただけだ、俺は運ぶだけで」

 男の言葉は、壁に叩きつけられて途切れた。

 戸張は続けて腹へ膝を入れた。男の体が折れ、床へ崩れる。吐きそうな音がした。戸張は襟首を掴み、顔が床に当たる寸前で止めた。

 殺さない。

 だが、動かさない。

 床へ伏せさせ、腕を背中側へ捻る。男が声にならない音を出した。戸張はそこで止めた。

 残りは二人。

 一人は最初に銃を持っていた男。腕を押さえて座り込んでいる。もう一人は、少し離れた場所で状況を見ていた。

 主任格だと、戸張は判断した。

 その男だけは、すぐには逃げなかった。

 四十代半ばほど。作業服の上に薄い上着。手袋。汚れているのに、身なりは妙に整っている。顔には驚きがあった。だが、それ以上に計算があった。

「待て」

 男は両手を少し上げた。

「お前、登録者だろ」

 戸張は近づいた。

「警察を呼んだのか。呼んだなら、なおさらだ。俺たちをどう説明する。そいつらをどう助ける。お前、普通じゃないだろ」

 戸張は止まらない。

「取引しよう。金なら」

 男の言葉が途中で切れた。

 戸張が男の膝を蹴ったからだった。

 蹴ったというより、折る位置に足を置いた。

 男の体が沈む。膝から崩れ、手をつく。その手が懐へ伸びかけた。

 戸張はその手首を踏んだ。

 骨が鳴った。

 男の顔から計算が消えた。

「あ、が」

 ようやく、痛みだけの声になる。

 戸張はその顔を見下ろした。

 殺したいわけではない。

 そう思った。

 思えたことに、少しだけ安心した。

 だが、手を緩める理由にはならなかった。

 相手は殺すつもりで地図読みを撃った。

 草色ジャケットを連れ込んだ。

 見られたから片付ける。その程度の理由で、人をダンジョンに運んだ。

 ここで緩めれば、次に動く。

 次に動けば、誰かが死ぬ。

 戸張は主任格の襟を掴み、床へ伏せさせた。動けない位置まで腕を捻る。男が叫ぶ。戸張はそこで止めた。止めただけだった。

 視界の端で、最初に銃を持っていた男が動いた。

 折れた腕を抱えながら、床を這っている。

 銃ではない。

 配管の下へ蹴り込んだ銃には届かない。

 だが、男はそれでも何かを探していた。工具か、刃物か、別の何かか。戸張には分からない。

 分からないなら、止める。

 戸張は銃持ちの男へ歩いた。

「来るな」

 男が叫んだ。

「来るな、化け物」

 戸張は止まらなかった。

 男が床に落ちていた金具を掴んだ。振り上げる前に、戸張はその手を踏んだ。指が開く。金具が落ちる。

 男の顔面が恐怖で歪んだ。

 戸張は男の肩を押し、壁へ固定した。腕を使えない位置へずらす。膝を床へつかせる。そこまでで止めた。

 全員が動けなくなった。

 時間にして、どれくらいだったのか分からない。

 長かった気もする。

 短かった気もする。

 ただ、地図読みの呼吸だけは、明らかに短くなっていた。

 戸張は振り返った。

 草色ジャケットは気絶している。脚から血は出ているが、胸はかすかに上下している。

 地図読みは、草色を庇うような形のまま倒れていた。

 腹の横から、血が広がっている。

 呼吸が浅い。

 浅すぎる。

 戸張は地図読みの横に膝をついた。

 目は閉じている。意識はない。呼びかけても反応しない。

 戸張は手を伸ばしかけて、周囲を見た。

 草色ジャケットは気絶している。

 地図読みも見ていない。

 男たちは動けない。

 今なら、見られない。

 そう確認した瞬間、自分が何をしようとしているのかを理解した。

 普通の手当てでは間に合わない。

 救急が来るまで、持たない。

 説明できる手段では助からない。

 戸張は奥歯を噛んだ。

 遅ければ死んでいた。

 話していれば死んでいた。

 待っていれば死んでいた。

 だから、先に潰した。

 それでも、まだ足りない。

 地図読みの胸が、次の呼吸を忘れたように止まりかける。

 戸張は血で濡れた服の上から、傷へ手を押し当てた。

 頭の奥の疼きが、そこへ向いた。

 言葉はない。

 返事もない。

 ただ、内側にあるものが、血の匂いへ集まっていく感覚だけがあった。


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― 新着の感想 ―
うーんあれだけ気をつけてたのに急展開そこは警察に任せても
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