第92話 嫌な想像
庁舎を出たところで、雨が降っていることに気づいた。
傘を差すほどではない。だが、駅まで歩けば肩は濡れる。中途半端な雨だった。
「一杯だけ、寄っていきませんか」
そう言ったのは、灰原だった。
ダンジョンものを中心に書いている作家で、近年は異世界迷宮、現代迷宮、配信探索ものを何本も出している。本人は軽い口調だが、会議中の発言は妙に細かかった。罠の配置、撤退経路、素材持ち帰り時の二次汚染、探索者の死亡率。話題がそちらへ向くたび、資料も見ずに嫌な例を出していた。
隣を歩いていた三柴は、少しだけ空を見上げた。
「コーヒーなら」
「酒じゃないですよ。さすがに」
「分かってます」
二人は庁舎の向かいにある喫茶店に入った。昼時を過ぎていて、店内は空いている。窓際の席に案内されると、灰原は濡れた肩を手で払ってから座った。
会議でもらった紙袋は、二人とも椅子の横に置いた。中身は外へ出せない資料ばかりだった。外へ出せないと言われると、作家という人種は余計に中身を気にする。だが、今日の話は資料を見なくても足りた。
「会議では、言い方を選びましたけど」
灰原がコーヒーを注文してから、そう切り出した。
三柴は水の入ったグラスを持ったまま、先を促すように目だけを向ける。
「今出てるダンジョンって、難易度低くないですか」
三柴はすぐに答えなかった。
窓の外を、傘を持たない会社員が小走りで通り過ぎていく。
「その言い方、外でやったら燃えますよ」
「でしょうね」
「死人も出てますし、怪我人もいる」
「もちろん。危なくないって意味じゃないです」
灰原は運ばれてきたコーヒーに手を伸ばした。
「ただ、ダンジョンとして見ると、妙に人間に学習させてくれるんですよ」
三柴はその言い方に、少しだけ眉を動かした。
「学習」
「ええ。目に見える敵が出る。音もする。噛む、殴る、斬る、跳ぶ。怖いけど、対処の方向が分かる。隊列を組む、距離を取る、盾を使う、撤退路を確保する。失敗しても、次の対策を考えられる形で失敗している」
「水門は、そこまで親切でしたか」
「親切ではないですよ。あれも十分ひどい。でも、正面から来る個体が多かった。カエル型も、虫型も、見えました。撃ってすぐ止まらない問題はあっても、対象がそこにいることは分かる」
三柴はグラスを置いた。
彼女もまた、ダンジョン関連の作品を書いている。灰原よりは古典寄りで、迷宮都市、地下遺跡、罠と階層構造を扱う作品が多い。派手な戦闘よりも、探索者が少しずつ判断を間違えて戻れなくなる話を得意としていた。
「見える危険は、まだ優しい」
「そうです」
「嫌な言い方ですね」
「ダンジョンを書く人間は、だいたい嫌なことを考える商売でしょう」
「一緒にしないでください」
「三柴さんの新刊、三階層目で水が飲めなくなるじゃないですか」
「あれは伏線があります」
「伏線がある分、まだ優しい」
三柴はそこで初めて少し笑った。
その笑いはすぐに消えた。
「現実に伏線は出ませんからね」
「出てるかもしれませんよ。ただ、人間が伏線だと気づかないだけで」
灰原はカップを置き、指先で縁を軽く叩いた。
「本当に殺すだけなら、モンスターを出す必要すらないんです。入口を開けた瞬間に胞子を吸わせる。靴裏に菌を付ける。小さな傷から何か入る。酸素濃度を少し落とす。視界に入れた時点で判断を狂わせる。音を聞いた人間だけが奥へ歩き出す。そういうのが、ほとんど出ていない」
「確認されていないだけかもしれません」
「その可能性もあります」
「出ていたら、戻ってきた人がいない」
灰原は返事をしなかった。
店の奥で、コーヒーミルの音がした。小さな音なのに、会話の間へ入り込んでくる。
三柴は紙袋の口を指で押さえた。
「会議で言っていた、同時出現数の話。あれは私も気になりました」
「少ないですよね」
「少ないです」
灰原は頷いた。
「一体、二体、三体。群れでも、まだ探索者が状況を理解できる範囲が多い。もちろん例外はありますけど、全体としては少ない」
「本当に迷宮側が殺しに来るなら、最初の一体を倒した時点で寄ってくるものがあってもいい」
「死骸に反応するやつとか」
「血に反応するやつとか」
「音に反応するやつ」
「光に反応するやつ」
「素材を拾った人間だけ追ってくるやつ」
「嫌ですね」
「三柴さんが言い出したんでしょう」
「あなたも乗ったでしょう」
軽口はある。だが、二人の声は大きくならなかった。
周囲に聞かれて困る内容ではない。公式資料の中身を話しているわけでもない。けれど、言葉にしてしまうと、店内の空気まで少し重くなる種類の話だった。
「今のところ、探索者は“見たもの”に対処している」
三柴が言った。
「見える敵、見える地形、見える傷、見える素材」
「ええ」
「でも、ダンジョンで一番嫌なのは、見えないものです」
「同感です」
灰原は窓の外を見た。
雨は少し強くなっていた。道路の端に小さな水たまりができている。
「菌、胞子、毒、空気、音、光、認知。あと、帰り道」
「帰り道?」
「入る時は普通で、出る時だけ違う。一本道だったはずなのに、振り返ると分岐が増えている。出口の明かりが見えているのに、歩いても距離が縮まらない」
「書きましたね、それ」
「書きました」
「使い回しですか」
「現実に出たら、使い回しとは言われないでしょう」
灰原は笑ったが、目は笑っていなかった。
三柴はカップを両手で包む。
「今あるものが低難度だとしたら、理由は何だと思いますか」
「偶然」
「一番つまらない答えですね」
「でも、一番あり得る答えです」
「他には」
「段階」
三柴の指が止まった。
「段階的に難しくなる」
「物語なら、そうします」
「現実を物語に寄せすぎです」
「分かっています。でも、我々が呼ばれた理由って、そこでしょう。現場の人は確認された事実から考える。研究者は再現性から考える。行政は運用から考える。作家は、起きていない嫌なことを先に並べる」
「嫌な仕事ですね」
「だから呼ばれたんです」
灰原は肩をすくめた。
「今のダンジョンは、人間が対策を覚えられる範囲に収まっている。だとすると、ありがたい話です。まだ社会が対応を覚える時間がある」
「もう一つの可能性は」
「まだ、そういう場所しか見つかっていない」
三柴は黙った。
窓の外で、信号が青に変わった。人の流れが動く。傘を差す者、走る者、雨など気にしない者。誰も、足元の水たまりを特別なものとして見ていない。
「低い山だけ見て、山は登れるものだと思っている状態ですか」
三柴が言った。
「そういう感じです」
「その後で、崖が出る」
「崖ならまだ見えます」
「では」
「沼ですかね」
「足を踏み入れるまで分からない」
「踏み入れた後も、しばらく分からない」
三柴は小さく息を吐いた。
「会議で言わなくてよかったですね」
「かなり丸めました」
「丸めてあれですか」
「作家を呼ぶ方が悪い」
灰原はコーヒーを飲み干した。
カップを置く音が、小さく鳴った。
「今のダンジョンが優しいとは言いません。人が死ぬ場所です。でも、今のところは、死に方が分かるものが多い」
三柴は、紙袋の持ち手を握った。
「分からない死に方が出てからでは、遅い」
「そういうことです」
二人はそこで会話を切った。
会計を済ませて店を出ると、雨はさっきより細かくなっていた。灰原は折りたたみ傘を開き、三柴は鞄から薄い傘を出した。
「次に呼ばれること、ありますかね」
三柴が言った。
「あるでしょう」
「嫌ですね」
「嫌な想像をする人間は、必要になった時ほど呼ばれます」
灰原はそう言って、駅の方へ歩き出した。
その足元で、雨水が排水溝へ流れていく。細い流れは、鉄格子の下へ吸い込まれ、すぐに見えなくなった。




