第90話 協力金
机の上に、自治体別の一覧表が積まれていた。
住宅地の暗渠、古い防空壕跡、閉鎖された地下通路、山中の祠、河川敷の排水設備、廃業した商業施設の搬入口。項目の横には、異常なし、確認中、立入制限済み、分類保留、未確認といった確認状況が短く書かれている。
村瀬はその中の「未確認」という文字を見て、ペン先を止めた。
未確認という言葉は便利だった。まだ誰も見ていない、というだけで済む。だが本物が混じっていた場合、その言葉の後ろには、最初に近づく誰かがいる。
同じ県内で三件。隣県で五件。地方の山間部では十数件。SNSで拡散された心霊スポットを、別々の利用者が何度も通報している例もある。無駄は多い。だが、無駄の中に本物が混じる。
「通報件数は、前月比でさらに増えています」
警察庁側の担当者が資料をめくった。
「水門事案以降、異常空間かもしれないという通報が目に見えて増えました。大半は誤認です。ただし、誤認として処理した後に再確認が必要になった事例もあります」
「自治体からは、一次確認の基準をもっと細かくしてほしいという要望が来ています」
内閣府の課長補佐が言った。
「現場の職員だけでは判断できない。警察と消防を出すにも限界がある。自衛隊への出動要請は、さらに段階が必要になる」
防衛省側の担当者が、薄いファイルを開いた。
「自衛隊側も、すべての入口疑い地点に対応できる状態ではありません。水門後の適応訓練は進めています。盾、長柄、拘束具、捕獲網、撤退路確保を組み合わせた班編成については、一定の成果が出ています。ただ、全国展開には時間がかかります」
「訓練の成果は出ている」
課長補佐が確認する。
「はい。ただし、入口の数に追いつきません」
防衛省側の担当者は、淡々と言った。
「銃火器を持つ部隊を出せば解決する、という状況ではありません。地形も敵性生物も毎回違います。誤認通報に同じ規模で対応し続ければ、通常任務側にも影響が出ます」
誰も反論しなかった。
水門で見えたのは、現行の仕組みが抱えられる範囲だった。そこを越えた時、同じ人員と装備で全国を覆うことはできない。
「そこで、正式五級登録者向けの異常空間入口情報提供協力金制度案です」
担当職員が、別の資料を机の中央に出した。
表紙には、まだ仮称と書かれていた。
異常空間入口情報提供協力金制度案。
「五級正式登録者を現地確認要員として派遣する制度ではありません。登録者本人が把握した、確度の高い入口疑い情報を専用フォームで提出できるようにします。位置情報、写真、周辺状況、通信異常、温度差、音、臭気、既存地図との照合情報などを添付。国が調査対象として採用した場合に協力金。異常空間または管理対象候補と確認された場合に、追加協力金を支払う案です」
「一般からは受けないのですか」
「通報窓口は残します。ただし、協力金の対象は五級正式登録者のみです」
「理由は」
「最低限、講習を受けていること。異常空間の危険性を理解していること。虚偽報告や違法な立入りがあった場合、登録資格に対する処分が可能であること。この三点です」
会議室の空気が少し変わった。
金が出る。
その事実だけで、制度の外側に人の流れができる。通報と報告へ向かわせるための金だった。
「民間調査会社が出てきます」
経済産業省側の担当者が言った。
「古地図、地下水路、廃道、廃施設、自治体資料、地形情報。そういったものを整理して、五級登録者向けに入口候補情報を提供する会社です。成功報酬型の情報サイトも出るでしょう」
「出てくるでしょうね」
課長補佐は頷いた。
「それ自体は、悪い話ではありません」
警察庁側の担当者が視線を上げた。
課長補佐は資料を一枚めくり、続けた。
「国だけで全国の入口候補を拾い切るという前提が、もう現実的ではありません。官民両方で回さなければ、異常空間を生活の中で扱える形にするまで時間がかかりすぎます」
村瀬はその言葉を聞きながら、机の上の紙束を見た。
異常空間は、封鎖して終わるものではなくなりつつある。入口を見つけ、線を引き、危険度を判定し、周辺住民へ知らせる。必要なら封鎖する。低危険度なら、管理下で調査する。
そのすべてを国だけでやろうとすれば、最初に潰れるのは現場だった。
「民間調査会社や情報収集サイトは、最初から出てくるものとして設計した方がいいと思います」
村瀬は言った。
「敵扱いすれば、情報は地下に潜ります。合法的に集められた情報が、五級登録者を通じて制度へ上がってくる道を作った方がいい」
「五級登録者が、自分で入口候補を探し回ることも認める方向ですか」
消防庁側の担当者が確認した。
「合法の範囲内であれば、否定はしません」
制度担当の職員が答えた。
「むしろ、異常空間の兆候を理解している登録者が、日常生活や移動の中で気づいた情報を上げることは歓迎します。休日に地図を見て候補地を回る者も出るでしょう。それ自体を禁止する制度にはしません」
「ただし、救助要請は増えます」
消防庁側の担当者は、そこを外さなかった。
「合法範囲で動いた結果でも、山中で転倒すれば消防が出ます。暗渠で怪我をすれば救助が必要になる。入口候補を探す活動を国が歓迎するなら、その負担も増えます」
「承知しています」
課長補佐が言った。
「災害対策でも、登山でも、海でも、自己判断で動く領域はあります。行政側がやるべきことは、危険を見える形にして、報告と救助の導線を作ることです」
警察庁側の担当者が、別紙を引き寄せた。
「不法侵入は自己責任では済みません。私有地への無断立入り、封鎖区域への侵入、危険を煽る配信、虚偽申請。そこは通常の法令と登録規約で処分する。協力金の対象にもならない」
「はい」
担当職員が答えた。
「情報の取得経路は申告させます。無断侵入、立入禁止区域への接近、既存入口の重複申請、虚偽申請。これらは対象外。悪質な場合は登録停止を含めます」
「他人から買い取った情報は、全部対象外ですか」
経済産業省側の担当者が言った。
「そこを完全に切ると、民間調査会社が成立しません」
会議室の視線が、担当職員へ向いた。
担当職員は、少しだけ資料を確認してから答えた。
「取得経路が確認でき、違法行為を伴わないものについては、登録者本人の報告として扱う余地を残します。ただし、成功報酬契約や仲介料について国は関与しません。登録者への注意喚起は必要です」
「つまり、情報会社から買うこと自体は禁止しない」
「禁止はしません。違法取得情報と、危険行為を誘発する契約は除外します」
村瀬は、そのやりとりを聞きながら、制度案の余白に小さく線を引いた。
民間の会社が入口候補を集める。情報サイトが利用者を集める。五級登録者は副収入を見込む。国にとっても助かる流れだった。社会が異常空間を扱うためには、国の外側に目と足が必要になる。
だが、その目と足は、人間のものだった。
「報酬額はどうしますか」
課長補佐が尋ねた。
「低すぎれば動きません。高すぎれば危険行動を誘発します」
「段階式です」
担当職員が答えた。
「採択時点では小額。国が確認し、管理対象候補となった場合に追加。被害予防につながった場合は別枠。ただし、生活費の柱になるほどの額にはしません」
「それでも、一時的な収入にはなる」
「はい。そこは想定しています」
想定している。
村瀬は、その言葉を胸の内で繰り返した。
五級正式登録者には、活動の負担がある。装備を揃え、講習を受け、報告書を書き、体調を記録し、管理区域へ入る。時間もかかる。危険もある。完全な無償善意で制度を回すには、もう無理があった。
報酬を出すなら、報告へ繋がる仕組みを作る。
報酬を出さないなら、情報は別の場所で金になる。
村瀬は、ペン先を資料の端に置いたまま、少しだけ手を止めた。
「登録者向けの文案では、入口探索を過度に推奨しているように見えない表現にしてください」
村瀬は言った。
「ただし、歓迎していないようにも見せない。制度として、正式に受ける」
「難しいですね」
「難しいから文案にするんです」
課長補佐が言って、資料に赤字を入れた。
小さな笑いが一つだけ起き、すぐに消えた。
会議はその後も続いた。
自衛隊の適応班は段階的に拡充する。自治体向けの入口疑い情報の一次確認基準を更新する。五級正式登録者向けの入口情報提供協力金制度は、民間調査会社や情報収集サービスの発生を前提に設計を進める。合法範囲での情報収集は制度として受け止める。違法立入り、封鎖区域侵入、虚偽申請、危険を煽る配信は対象外とする。取得経路の申告を求め、悪質な場合は登録停止を含める。
一つひとつは、手順だった。
手順を作るたび、社会は少しだけ動く。
その中には、必要なものも、危ういものも混じる。
会議が終わった後、村瀬は残った資料をまとめた。
自衛隊の訓練報告書。入口疑い情報の処理状況。五級向け協力金制度案。登録者向け告知文案。
厚みの違う紙の束が、一つずつ封筒に入っていく。
最後に、村瀬は制度案の一行に目を止めた。
異常空間対応における民間人材の活用について。
ペン先が、そこで止まる。
村瀬は「活用」の二文字に線を引いた。横に、小さく書き直す。
協力。
インクが乾くまで数秒待ち、村瀬は資料を封筒に戻した。
廊下の向こうで、次の会議を知らせる内線の音が鳴っていた。




