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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第85話 変態の集まり

翌朝、互助会のチャンネル一覧に新しい項目が増えていた。

#契約こわい

名前はかなり雑だった。だが、未読の数は多い。たぶん、昨日の草色ジャケットの件で槙野が作ったのだろう。契約書、企業案件、業務委託、謝礼、装備テスト。真面目な単語はいくらでもあるのに、最終的に#契約こわいになるあたり、この会はまだギルド未満で、かなり帰宅部寄りだった。

俺はベッドの上でスマホを持ったまま、しばらくチャンネル名を見ていた。昨日、生活・撤退条件に書き足した一文が頭に浮かぶ。企業契約は個人で即決しない。たったそれだけの文章なのに、朝になっても少し重い。

チャンネルを開くと、最初に槙野の固定投稿があった。


槙野@準備会:

このチャンネルは、企業案件、装備モニター、研究協力、業務委託、謝礼ありの協力依頼などについて相談する場所です。

社名、個人名、契約書の全文、機密情報はそのまま貼らないでください。必ず伏せてください。

ここでの助言は法的判断ではありません。危険そうな点を拾い、必要なら専門家へ相談するための前段階です。

契約書や条件案を読むのが苦手な人は、社名、担当者名、登録番号、場所、金額などを必要に応じて伏せた上で、AIに要点整理をさせるのもありです。「不利な条件」「確認すべき点」「事故時責任」「映像や行動ログの利用範囲」「謝礼と業務委託の違い」などを聞くと、見落としが減ります。

ただし、AIの回答を最終判断にしないでください。あくまで、自分一人で読んだ時に抜ける発想を補うための道具です。

「AIが大丈夫と言った」は、一番大丈夫じゃない使い方です。

契約は怖いです。怖いと思っているうちに相談してください。怖くなくなってからが一番危ないです。


最後の一文が、妙に槙野らしかった。

怖いと思っているうちに相談する。

黒い階段にも、似たようなことが言えるのかもしれない。怖くなくなってからが危ない。いや、俺の場合は怖くても見に行きたがるから、もっと悪い。

AIに読ませる、という部分で少し指が止まった。昨日、自分がやったこととほとんど同じだ。俺は自分の生活と契約の話を、かなりぼかしてAIに投げた。槙野はそれを、個人の逃げ道ではなく、互助会の手順にしている。

そこが少し違う。

俺は、俺が困ったから使った。

槙野は、誰かが困る前に使い方まで置いている。

俺は画面をスクロールした。草色ジャケットが、企業から来た条件案の一部を伏せて投稿している。社名も担当者名も黒塗り。装備の種類は小型カメラとライト。実地使用後の感想、使用中の映像提供、破損時の対応、謝礼。細かい項目が並んでいた。

槙野の返信は長かった。


槙野@準備会:

ざっと見た限り、まず確認したい点がいくつかあります。

一、これは謝礼なのか、業務委託報酬なのか。

二、提供した映像や使用感想を、相手企業がどこまで使えるのか。

三、機材破損時の負担が誰にあるのか。

四、異常空間内で事故が起きた場合、企業側はどこまで責任を負うのか。

五、活動場所の指定があるのか。指定がある場合、それは制度上許可された場所なのか。

六、取得データに顔、声、登録番号、位置情報が含まれるのか。

特に四と五が曖昧なら、受けない方がいいです。安い高い以前の問題です。


草色ジャケット:

ありがとうございます。これ、思ったより見るところ多いですね。


槙野@準備会:

多いです。向こうが悪意を持っているとは限りません。ただ、悪意がなくても条件が雑だと、事故が起きた時に全部こちらへ来ます。


紙の盾:

契約こわい


安全靴の民:

チャンネル名回収が早い


泥つき手袋:

これ、知らずに受けてたら普通に危なかったやつですね。


槙野@準備会:

知らないまま始めるのが一番危ないです。分からないなら止まる。止まって聞く。契約も撤退と同じです。


少し笑った。

朝から契約と撤退の話をしている集団。まともなのか、おかしいのか分からない。たぶん両方だ。

俺はさらに読み進める。


五級見習い:

槙野さん、なんでもできますね。


槙野@準備会:

いいや、なんでもは無理ですよ。自分は調査が苦手ですし、実地で先頭に立てるタイプでもありません。


紙の盾:

でも契約とか企業窓口とか、だいたい槙野さんが見てません?


槙野@準備会:

見られる範囲だけです。法律の専門家ではないので、最終判断は専門家に投げます。ただ、投げる前に危ない匂いがするかどうかくらいは見たいんです。


泥つき手袋:

それを普通の五級がやってるのが変なんですよ。


槙野@準備会:

昔やったゲームに、ギルドがありましてね。依頼があって、情報が集まって、戻ってきた人間が失敗談を話して、誰かが次の準備をする。ああいう雰囲気の世界が、この手で少しでも作れるならと思っただけです。夢に走った阿呆の一人ですよ。


紙の盾:

阿呆とか言いつつ、企業の入口作って契約書まで見ようとしてるのは、どちらかというと変態では?


槙野@準備会:

ははは。君はその変態の集まりの一員だということを忘れずに。


五級見習い:

巻き込まれた


安全靴の民:

自分で参加しました


槙野@準備会:

ようこそ、ギルド未満へ。


そこで会話は少し軽く流れて、別の人が保険の話をし始めた。

俺は画面を見たまま、しばらく指を動かせなかった。

眩しい、と思った。

大げさな言葉だ。スマホに並んでいるのは、ただの文字だ。冗談、軽口、契約の注意、少し胡散臭い理想論。窓の外から光が差しているわけでもない。むしろ部屋のカーテンは半分閉まっていて、画面の明るさだけが手元にある。

それでも、俺には少し眩しかった。

槙野は、自分を阿呆だと言いながら、他人が戻ってこられる場所を作ろうとしている。メンバーたちは変態だと茶化しながら、その場所に自分から入っている。帰宅部だの、ギルド未満だのと言いながら、誰かの次を考えている。

俺はどうだ。

俺が考えている次は、黒い階段の次だ。暗渠の奥だ。まだ見ていない場所だ。戻るための条件を書きながら、本当は先を見たい。生活の撤退条件を書きながら、暗渠を使わないことに引っかかっている。

誰かが帰る場所を作りたいわけではない。

俺は、俺が見たいだけだ。

そう思った瞬間、胸の奥が少し沈んだ。

もちろん、槙野たちが綺麗なだけだとは思わない。あの男には打算がある。人をリストに入れ、企業への入口を作り、相場を押さえようとしている。善意だけで動いているわけではない。

それでも、濁り方が違う。

少なくとも、槙野は誰かに見せられる形で濁っている。俺の濁りは、暗渠の奥に置いてきたままだ。赤みのある小瓶。赤錆の山刀。寄生ゴブリン。戻れなかった一体。どれも、画面の向こうへは出せない。

俺はスマホを伏せた。

朝の部屋は、急に静かになった。

しばらく天井を見ていたが、じっとしていると余計なものばかり浮かんでくる。黒い階段。槙野のギルド未満。職業欄の無職。企業契約は個人で即決しない。先を見るために、自分を止める紙。

俺は起き上がり、カーテンを開けた。

外は普通に晴れていた。

それが少し腹立たしかった。こっちの胸の中がどうであれ、空は普通に明るい。昨日まで会社員だった人間が無職になっても、暗渠に寄生ゴブリンを置いてきても、誰かが現実のギルドを作ろうとしていても、朝は明るい。

洗面所で顔を洗う。鏡には、寝不足気味の三十歳の男が映っている。普通の人間に見える。少し前にも、似たようなことを思った。

俺は鏡の中の自分から目を逸らし、タオルで顔を拭いた。

朝食を済ませたあと、もう一度スマホを開いた。#契約こわいには、槙野の新しい投稿が増えていた。


槙野@準備会:

週末に、契約と生活費に関する短いオンライン説明会をやります。内容は、企業案件を受ける前に見る項目、謝礼と業務委託の違い、個人で即決しない方がいい条件、公式制度との関係、AIを使った条件案の読み方です。

専門家ではないので、あくまで入口の話です。必要があれば、今後、外部の専門家に話を聞ける場も作ります。

参加は任意。聞くだけ可。顔出し不要。録画はしません。


すぐ下に、参加予定者が少しずつ増えていた。

五級見習い。安全靴の民。紙の盾。泥つき手袋。草色ジャケット。

俺はしばらく画面を見ていた。

参加してどうする。

契約を受けるつもりはない。企業に体を調べられるわけにはいかない。暗渠由来のものを出せるわけでもない。看板になる気もない。

それでも、知らないままでいるのは危ない。

知らないまま奥へ行くのは、もっと危ない。

俺は参加ボタンを押した。

表示名の一覧に、見学中が追加される。

ただそれだけだった。

それだけなのに、少しだけ人前に出た気がした。

俺はスマホを伏せず、画面をそのまま机の上に置いた。逃げるためではなく、忘れないために。

週末の予定が一つ増えた。

黒い階段ではない。

企業でもない。

現実のギルド未満が、どこまで現実に耐えられるのかを見る予定だった。


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