第84話 食えるのか
家に戻ってから、俺は役所でもらった書類をもう一度テーブルに並べた。国民健康保険、国民年金、雇用保険、失業給付の案内。どれも薄い紙なのに、まとめて置くとやたら重く見える。隣には会社員時代のノートがあった。暗渠・撤退条件。生活・撤退条件。退職前の引き継ぎメモの後ろに、いつの間にかそんなものが増えている。
職業欄には無職と書いた。手続き上はそれで済んだはずなのに、頭の中ではまだ済んでいない。
食えるのか。
かなり雑な言葉が浮かんだ。だが、結局そこだった。異常空間に入れる。敵性生物を倒せる。採取物を持ち帰れる可能性がある。制度にも仮登録された。だが、それで生活できるのかと聞かれると、急に足元が薄くなる。
俺はノートを開き、生活・撤退条件の下に貯金額と月の支出を書き出した。家賃、食費、光熱費、通信費、国保、年金。会社員だった頃は、給与から引かれているものを細かく見なくても生活は回っていた。これからは、全部こちらを向いてくる。
暗渠には金になりそうなものがある。水門の透明な小瓶もある。雑木林の魔石と牙もある。だが、どれも表には出せない。出した瞬間、説明が必要になる。説明できないものは、収入源ではなく爆弾だ。
俺はしばらくペンを持ったまま止まったあと、スマホを手に取った。
検索窓ではなく、AI相談アプリを開く。何度か料理の分量や、家電の設定で使ったことはある。人生相談をするつもりはなかったが、今の状況は人生相談と事務相談と職業相談が混ざったようなものだった。
入力欄に指を置く。
会社辞めた。
今、国の制度の仮登録みたいな形で、ちょっと特殊な調査活動に参加してる。
協力金とか採取物提出の可能性はあるけど、安定収入ではない。
こういう場合、企業と業務委託契約を結ぶとか、国や自治体相手にフリーランス的に動くとか、個人事業主になるとかって現実的にあり?
生活費と安全面を考えると、どう動くのが一番ましだと思う?
読み返して、少し顔をしかめた。
かなりぼかしている。何も嘘ではない。だが、肝心なところは全部抜けている。寄生体も、暗渠も、未申告の小瓶もない。黒い階段もない。
それでも、AIはそれを相談として受け取った。
送信する。
数秒後、画面に文章が流れ始める。
ざっくり言うと、今すぐ「探索活動一本で食べる」と決めるのは危ないです。
まず短期では、生活費・失業給付・健康保険・年金・貯金の残り期間を整理した方がいいです。協力金や採取物提出は、不定期収入として見て、固定収入には入れない方が安全です。
中期では、国の制度内で正式登録や調査協力、研究協力のルートがあるか確認するのが現実的です。
企業との業務委託は、収入化が早い可能性があります。ただし、採取物の所有権、身体データ、行動ログ、秘密保持、事故時の責任、報酬額、契約解除条件をかなり慎重に見た方がいいです。
国や自治体相手の契約は信用度が高い一方で、審査や活動履歴の確認が厳しくなる可能性があります。
個人事業主化は、継続的に仕事として成立する見込みができてからで遅くないと思います。
活動履歴の確認。
その一文で、指が止まった。
国や自治体との契約は、一見すると一番安全そうに見える。制度内にいる。後ろ暗い企業に食われる心配も少ない。だが、活動履歴を確認されるなら、俺には困るものが多すぎる。
暗渠。黒い階段。水門に残したもの。自宅の冷蔵庫にある透明な小瓶。
制度内で進むほど、安全になる部分と、危なくなる部分が同時に増える。
俺は続けて読んだ。
企業契約を検討する場合、個人で直接契約するよりも、複数人の団体や互助会を通じた条件確認、契約書レビュー、相場共有が望ましいです。初期段階で低い報酬や不利な条件を受けると、それが後続の基準になる可能性があります。
特に新しい分野では、発注側と受注側の情報格差が大きくなります。契約前に、第三者または専門家に内容を確認してもらうことを推奨します。
俺は画面を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
個人で直接契約するより、団体や互助会を通じた条件確認。
それは、ほとんど槙野の仕事ではないのか。
仮登録者互助会準備会。ギルド未満。帰宅部。撤退報告と装備返却の話をしている場所。あの場所が、ただの掲示板で終わらないなら、たぶん次に必要になるのはそこだ。
企業が動く。研究機関が動く。装備メーカーが動く。国の制度は安全管理と封鎖と登録で手いっぱいになる。生活費は待ってくれない。金に困った人間は、たぶん危ない方へ行く。未確認入口。未申告採取物。安い企業案件。買い叩き。
俺は自分のことだけを考えていたつもりだった。だが、AIの回答を読んでいるうちに、これは個人の話では済まない気がしてきた。
互助会の掲示板を開く。#制度に聞きにくい質問。すでに職業欄や失業給付の話題がいくつか続いていた。五級仮登録者だけで食えるのか。企業案件はあるのか。正式登録すれば仕事になるのか。誰もはっきりした答えを持っていない。だから、同じ場所をぐるぐるしている。
俺は書き込み欄を開いた。
何を書くか迷う。
企業との契約や、物資提供、装備テスト、研究協力を、互助会側で窓口化する予定はありますか。
一度そう書いて、少し強すぎる気がして消した。
別に俺が槙野に指示する立場ではない。あの男は胡散臭いが、少なくとも俺よりこの手のことを考えているはずだ。
少し文を変える。
見学中:
企業との業務委託や、装備テスト、物資提供、研究協力みたいな話が今後出てくると思うんですが、互助会側で契約条件や相場を共有する予定はありますか。個人で直接受けると、かなり危ない気がしました。
送信する。
昨日よりは、ためらいが少なかった。書いた内容が自分の秘密に直接触れていないからかもしれない。あるいは、もう何度か書き込んでしまったからかもしれない。
すぐに返信がついた。
安全靴の民:
これ気になってました。装備メーカーとか絶対来ますよね。
泥つき手袋:
靴とか手袋とかライトとか、実地テストしたい会社はありそう。
ポケット石:
石対応ポケットの開発を
五級見習い:
また石
紙の盾:
でも実際、変な契約来たら判断できないです。こっちは相場知らないし。
少し遅れて、別の名前が出た。見覚えはあるが、あまり発言の多くない参加者だった。
草色ジャケット:
ええっと、企業というか、とある会社から声掛けかかってるんですけど……まずいですかね。
そこで流れが止まった。
文字だけなのに、場の温度が変わった気がした。企業案件は、もう仮定の話ではなかった。
五級見習いが、すぐに反応する。
五級見習い:
もう来てるんですか?
草色ジャケット:
知人経由です。異常空間内で使う小型カメラとライトの感想が欲しいって話です。正式な契約書はまだです。謝礼ありとは言われました。
安全靴の民:
それ自体はありそう
紙の盾:
謝礼あり、が怖い。いくらなんだろう。
ポケット石:
石対応ポケットもついでに
泥つき手袋:
石から離れて
槙野の返信は、少し間が空いてから来た。
槙野@準備会:
信用できる会社で、内容が妥当なら、企業協力自体が悪いわけではありません。ただ、足元を見られて、その条件が基準になるとまずいです。
探索者側が相場を知らない段階で安く受けると、後続にもその条件を押しつけられる可能性があります。報酬額だけでなく、使用データの範囲、事故時の責任、機材破損時の負担、映像や行動ログの扱い、契約解除条件も確認した方がいいです。
書類があるなら、社名や個人情報を伏せた状態で構いません。私が一度見ます。必要なら専門家に投げます。
思っていたより、踏み込んだ返信だった。
槙野は、ただ「気をつけましょう」とは言わなかった。どこを見るべきかを挙げた。報酬額。使用データ。事故責任。破損負担。映像。行動ログ。契約解除。
俺はその項目を目で追いながら、企業契約という言葉の奥にあるものを少しだけ想像した。
採取物を出してください。活動ログをください。体調変化を記録してください。血液検査を受けてください。防護服を着て、異常空間へ入ってください。戸張さんの場合は、特別に追加の検査を。
そこまで行く前に逃げればいい。普通はそうだ。だが、金が絡むと、人は少しずつ奥へ行く。昨日、俺が黒い階段を少しだけ降りたように。
草色ジャケットの返信が来た。
草色ジャケット:
ありがとうございます。まだ契約書というほどではないんですが、条件案みたいなのを送ると言われています。来たら伏せて相談します。
槙野@準備会:
お願いします。あと、個別で進める場合でも、最低限「事故時に誰が責任を負うのか」「取得した映像やデータをどこまで使われるのか」「謝礼なのか業務委託なのか」は確認してください。曖昧なまま始めるのが一番危ないです。
紙の盾:
これ、互助会で契約チェックチャンネル要るのでは。
安全靴の民:
#契約こわい
会話は軽く戻った。だが、問題が消えたわけではない。
俺は返信欄を開きかけて、閉じた。
槙野がもう一つ、少し長い投稿をしたからだ。
槙野@準備会:
見学中さんの質問に答えると、企業との窓口化は考えています。装備メーカー、研究機関、保険関係あたりですね。正式な提携ではありませんが、入口だけならいくつかあります。
かなり恥ずかしい言い方ですが、もう入口までは出来ているようなものです。もちろん、向こうも様子見ですし、こちらも人数と実績と信用が足りません。だから、今は準備会です。
誰か看板になるような人間がいれば、もっと強くアピールできるんですがね。いや、まあ、これだけの人材を集めているなら全然いけるとも思っています。あくまで私の予想ですが、ここにいる人は平均よりかなり上澄みです。強いという意味ではなく、戻る、報告する、相談する、ルールを読む、という意味で。
俺はその文章を、少し時間をかけて読んだ。
入口はある。
槙野は、もうそこまで手を伸ばしていた。
装備メーカー。研究機関。保険関係。正式な提携ではない。向こうも様子見。こちらも信用が足りない。全部、現実的な言い方だった。
そして、看板になるような人間。
その言葉に、わずかに引っかかった。
槙野は俺を見て言っているわけではない。たぶん、本当に互助会全体の話として言っている。俺の正体を知らない。暗渠も寄生体も、水門のことも知らない。
それでも、胸の奥が少し冷えた。
看板になる人間。
もし俺が看板になれば、終わる。目立つということは、調べられるということだ。調べられれば、どこかで暗渠に繋がる。暗渠に繋がらなくても、身体の方で詰むかもしれない。
だが、別の意味では、槙野の言うことは分かる。
企業に対して、役所に対して、社会に対して、「この人たちは使える」と示すには看板がいる。成果がいる。戻ってきた人間がいる。変な夢だけでは、誰も契約書を出さない。
槙野は夢を見ている。
その夢を通すために、名簿を作り、ルールを作り、撤退報告を集め、企業への入口まで作っている。
胡散臭い。
けれど、ただのギルドごっこではなかった。
続けて槙野が投稿する。
槙野@準備会:
国が悪いとは言いません。封鎖、安全管理、登録、研究。優先順位としてそこが先になるのは分かります。ただ、探索者になりかけた人間の生活設計は、今の制度だとかなり後ろです。
ここを放っておくと、金に困った人から未確認入口に潜ります。たぶん、かなり早い段階で。
だから、民間側で最低限の逃げ道を作りたいです。契約、装備、保険、申告、撤退。夢のない単語ばかりですが、たぶんこれが現実のギルドです。
現実のギルド。
その言葉は、少しだけ重かった。
剣と盾と酒場ではない。契約、装備、保険、申告、撤退。紙と規約と注意事項でできたギルド。
それを、槙野は作ろうとしている。
俺は画面を見たまま、しばらく何も書けなかった。
AIの回答は、生活防衛と契約リスクを淡々と並べただけだった。だが、それを人間の場所に移すと、急に形が変わる。草色ジャケットの会社。槙野の入口。相場。買い叩き。看板。政府がまだ作っていない逃げ道。
そして、その全部の外側に、俺の暗渠がある。
俺は自分のノートを見た。暗渠を収入源として扱わない。そう書いたばかりだった。
その判断は、たぶん間違っていない。
だが、画面の向こうでは、現実のギルドが少しずつ形を作り始めている。
俺はスマホを伏せ、ノートを引き寄せた。生活・撤退条件の下に、一行だけ書き足す。
六、企業契約は個人で即決しない。
書いてから、ペン先を止めた。
契約を避けるための条件ではない。たぶん、奥へ進む理由を増やさないための条件だ。
金のために進まない。
契約のために隠し事を増やさない。
そう決めることは安全のためだ。分かっている。
それでも、また一本、自分の首に紐をかけた気がした。
俺はノートを閉じた。
鞄の中で、紙が増えていく。
戻るための紙。
食うための紙。
先を見るために、自分を止める紙。
どれが一番重いのか、まだ分からなかった。




