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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第83話 職業欄


離職票が届いた。

封筒は、拍子抜けするほど普通だった。会社名の入った白い封筒。宛名。折り目。中には書類が数枚入っていて、退職日、賃金、雇用保険、離職理由が事務的に並んでいる。

俺はテーブルの上にそれを広げ、しばらく眺めていた。

会社を辞めると決めた時点で、分かっていたことではある。有休消化が終われば、会社員ではなくなる。給与明細も来なくなる。保険証も返した。社内メールも、もう開けない。何も突然ではない。

それでも、紙に書かれると少し違う。

退職。

その二文字は、ダンジョンの暗がりより地味で、役所の蛍光灯みたいに逃げ場がなかった。

俺は封筒の中身をもう一度確認した。離職票、源泉徴収票に関する案内、健康保険の切り替え案内、年金の説明。書いてあることは分かる。分かるが、読むたびに別の紙を読めと言われる。別の紙を読むと、また別の窓口の名前が出てくる。

異常空間で小鬼に襲われた時より、手続きの導線が複雑だった。

スマホで市役所のページを開く。国民健康保険、国民年金、雇用保険。会社を辞めた人の手続き。必要なもの。本人確認書類。マイナンバー確認書類。離職票または退職証明書。印鑑は不要な場合があります。

不要な場合があります、が一番信用できない。

俺は必要そうなものを鞄に入れた。財布、身分証、マイナンバーカード、離職票、年金手帳らしきもの、念のため印鑑。会社員時代のノートも入っていた。昨日、「暗渠・撤退条件」と書いたページがあるやつだ。

役所へ行くのに、暗渠の撤退条件を持っていく。

かなり意味が分からない。

だが、置いていく気にもならなかった。

市役所は、合同庁舎とはまた違う普通さだった。入口に総合案内。番号札。待合椅子。高齢者、子連れの母親、スーツ姿の人、作業着の人。誰もダンジョンの話をしていない。少なくとも、声に出してはいない。

俺は案内板を見て、まず国民健康保険の窓口へ行った。

「退職に伴う切り替えですね」

職員は慣れた様子で書類を確認した。

慣れている。

俺が会社を辞めて無職になったことは、窓口からすれば日常業務の一つだった。異常空間に入ったとか、寄生体がどうとか、黒い階段がどうとかは関係ない。退職した人が来て、保険の手続きをする。ただそれだけだ。

「こちらにご記入ください」

渡された用紙に、氏名、住所、生年月日を書いた。世帯主、電話番号、退職日。ペン先が紙の上を進む。ここまではいい。

途中で、職業欄が出てきた。

職業。

俺は手を止めた。

会社員ではない。

自営業でもない。

学生でもない。

異常空間民間調査員、とは書けない。仮登録者というだけで、それで生活しているわけでもない。そもそも、あれは職業なのか。制度上はどういう扱いなのか。五級仮登録者は、名刺に書ける肩書きなのか。

書けない。

書いたら、窓口の人が困る。

俺も困る。

少し迷って、空欄のままにした。

職員に用紙を渡すと、すぐに指摘された。

「こちら、職業欄だけお願いします」

「……今は、退職したところで」

「無職で大丈夫です」

大丈夫。

その言い方に悪気はない。実際、事務上はそれで大丈夫なのだろう。

俺は用紙を戻され、職業欄に「無職」と書いた。

漢字二文字。

思ったより、重かった。

無職。

自分で書くと、妙に生々しい。口で言うより、スマホのプロフィールに入れるより、紙に書く方が逃げ場がない。

会社を辞めたのは自分だ。誰かに切られたわけではない。勢いで辞めた。ダンジョンを探したくて辞めた。後悔しているかと聞かれれば、していない。していないはずだ。

だが、無職と書いたペン先だけが、少し遅れて現実を連れてきた。

「ありがとうございます。では、こちらで確認します」

職員は普通に受け取った。

俺の中で少し引っかかったものは、窓口では何も引っかからなかった。

手続きは進む。保険料の説明、納付書の送付、減免の案内。収入が減った場合の申請。必要なら別窓口で相談。

収入。

俺は説明を聞きながら、頭の中で貯金額を思い浮かべた。家賃、食費、スマホ代、光熱費、国保、年金。会社員の頃は、給与から勝手に引かれていたものが、これからは自分に向かってくる。

ダンジョンで拾ったものはある。

だが、使えないものばかりだ。

暗渠に置いた赤みのある小瓶二本。赤錆の山刀。寄生ゴブリン。黒い階段の先。自宅の冷蔵庫にある透明な小瓶。雑木林の大型コボルトの魔石と牙。表に出せないもの、出したら説明が必要になるもの、説明した時点で終わるもの。

金になるかもしれないものはある。

でも、金にできない。

かなり馬鹿な状態だった。

次は国民年金の窓口だった。こちらでも、退職日、基礎年金番号、本人確認。免除申請の説明。収入が減った場合は申請できます、と言われる。

「現在、お仕事はされていますか」

「いえ」

「求職中ということでよろしいですか」

求職中。

俺はまた少し止まった。

仕事を探しているか。

探してはいない。

探していないが、職業欄に無職と書いたばかりで、「探していません」と言うのは妙に勇気がいる。

「……今後、考えています」

かなり便利な返事だった。

職員は特に突っ込まなかった。

「では、必要に応じてハローワークで雇用保険の手続きもご確認ください」

「はい」

雇用保険。

失業給付。

ハローワーク。

会社を辞めた人間が通る、普通の道。

その普通の道の横に、俺の中では暗渠の入口が開いている。普通の人なら、失業給付を受けながら就職活動をするのだろう。俺は、失業給付の説明を聞きながら、黒い階段に一人で入らないと書いたノートの重さを鞄の中に感じている。

どちらが本筋なのか、分からなくなってくる。

役所の手続きが終わる頃には、昼を過ぎていた。俺は近くのコンビニでおにぎりと水を買い、公園のベンチに座った。平日の昼間の公園は、思ったより静かだった。鳩が歩き、ベビーカーを押した人が通り、作業服の男が缶コーヒーを飲んでいる。

俺はおにぎりの包装を開けながら、スマホで互助会の掲示板を見た。

#制度に聞きにくい質問に、ちょうど似た話題があった。


五級見習い:

仮登録者って職業欄に書けますか?


紙の盾:

早い


安全靴の民:

書いたら窓口の人が困りそう


ポケット石:

探索者って書きたい気持ちはある


槙野@準備会:

現時点ではおすすめしません。仮登録は制度上の資格・参加状態に近く、安定した職業として扱われるかは別です。公的書類には実態に合わせて記入してください。分からない場合は窓口で確認を。


泥つき手袋:

実態に合わせたら無職です


五級見習い:

つらい


槙野@準備会:

つらいですが、虚偽記載よりはましです


俺は思わず画面を見つめた。

みんな同じような場所で止まっている。

職業欄。

無職。

探索者と書きたい気持ち。

ゲームなら、冒険者ギルドに登録した瞬間から職業は冒険者で済む。現実では、国民健康保険の用紙に無職と書く。

夢が削られる音がする。

だが、その削られた形の方が、今の世界には似合っているのかもしれない。

さらに下に、槙野の長めの投稿が続いていた。


槙野@準備会:

現状、五級仮登録だけで生活するのは難しいと思います。協力金や採取物の扱いはありますが、安定収入とは言いにくいです。正式登録や企業契約、研究協力などが今後増える可能性はありますが、今すぐ仕事として成立するかは人によります。

ただ、だからこそ情報共有は必要です。制度が固まる前は、知っている人と知らない人の差が大きくなります。


知っている人と知らない人の差。

槙野らしい言い方だった。

夢だけではない。打算もある。早く動いた人間が場所を取る。その感覚が文章の奥にある。

俺はおにぎりを食べながら、財布の中身を確認した。意味はない。銀行残高はスマホで見られる。だが、なんとなく財布を見たくなった。

現金が少し。カード。レシート。

生活。

ダンジョンの奥とは別の、かなり手前の現実。

ここを無視して進めるほど、俺は勇者ではない。

そもそも勇者ではない。

無職だ。

俺は自分で書いた二文字を思い出し、少しだけ笑った。

笑ったら、思ったより喉が乾いた。

水を飲み、互助会の画面へ戻る。返信欄を開いた。

何か書くか迷った。

職業欄に無職と書きました。思ったより刺さりました。

そんなことを書いてどうする。

だが、#制度に聞きにくい質問には、そういう話が並んでいる。正式な窓口に聞くほどではないが、一人で抱えると妙に重い話。

俺は少し考えて、短く入力した。


見学中:

今日、職業欄で止まりました。


送信する。

昨日よりは、少しだけ指が軽かった。

すぐに返信が来る。


泥つき手袋:

分かります。無職って自分で書くとダメージある。


安全靴の民:

自分は会社員のままなので、逆に活動時間が取れないです。どっちもきつい。


紙の盾:

探索者って書ける日が来るんですかね


ポケット石:

職業:帰宅部


五級見習い:

帰宅部は職業じゃない


槙野@準備会:

職業ではありません。活動方針としてはかなり良いですが。


また帰宅部に戻っている。

俺はベンチで少し笑った。

それから、槙野の個別返信がついた。


槙野@準備会:

見学中さん、退職後の手続きなら、失業給付や国保、年金の減免などは早めに確認した方がいいです。五級活動を続ける場合でも、生活費を曖昧にすると判断が荒れます。お金がない状態で異常空間に入ると、戻る判断が遅れます。


お金がない状態で異常空間に入ると、戻る判断が遅れる。

俺はその文を、二度読んだ。

かなり嫌な言葉だった。

正しい。

たぶん、正しい。

金が必要になれば、奥へ進む理由が増える。採取物がほしくなる。危険物でも持ち帰りたくなる。まだ行ける、もう少しだけ、と自分に言う材料が増える。

今の俺に必要なのは、黒い階段の撤退条件だけではない。

生活の撤退条件も必要なのかもしれない。

貯金がいくらを下回ったら、どうするのか。協力金をあてにしすぎない。未申告のものを金にしない。生活費のために暗渠を使わない。

書いた方がいい。

そう思った瞬間、少しだけ息が詰まった。

暗渠を使わない。

本当にそれでいいのか。

また、似た疑問が胸の奥をかすめた。

暗渠には、俺しか知らないものがある。危険もある。価値もある。奥もある。使わないと決めることは、安全のためだ。身を守るためだ。だが同時に、俺が見つけた入口から自分を引き剥がすことでもある。

俺は何に縛られようとしているのだろう。

制度か。

生活か。

自分で書いた紙か。

それとも、奥を見たい自分を、まだ人間側につないでおくための紐か。

答えは出ない。

公園の向こうで、子供が転び、すぐに立ち上がった。母親が声をかける。何も特別ではない昼だった。

俺はスマホを閉じ、鞄からノートを出した。暗渠・撤退条件の次のページを開く。

上に、こう書いた。


生活・撤退条件


書いてから、少し笑った。

生活に撤退条件。

意味が分からない。だが、異常空間に入る時だけ危ないわけではない。たぶん、金がなくなるのも、判断が荒れるのも、同じくらい危ない。

俺は続けて書いた。


一、生活費のために未申告物を売らない。

二、協力金を固定収入として数えない。

三、貯金が一定額を下回ったら、活動頻度を落とす。

四、正式登録や研究協力の条件を確認する。

五、暗渠を収入源として扱わない。


五つ目で、手が止まった。

暗渠を収入源として扱わない。

黒い階段よりも、赤い線を引いたような文字だった。

俺はペン先を紙の上に置いたまま、しばらく動けなかった。あそこには、赤みのある小瓶が二本ある。赤錆の山刀がある。寄生ゴブリンが五体いる。下には、まだ見ていない場所がある。

使わない。

金にしない。

少なくとも今は。

そう書くことは、正しい。

正しいはずだ。

でも、正しさは時々、首輪みたいな形をしている。

俺はノートを閉じた。

役所でもらった書類、互助会のカード、暗渠の撤退条件、生活の撤退条件。鞄の中身が、妙な方向に重くなっている。

会社員ではなくなった。

探索者でもない。

公的な用紙には、無職と書いた。

それでも、俺の一日は、役所の窓口と互助会の掲示板と、暗渠の奥に繋がっている。

家へ帰る途中、ハローワークの看板が目に入った。

今日は入らなかった。

入らなかった理由は、時間がなかったからでも、手続きが面倒だったからでもない。

まだ、そこに行く自分を想像できなかったからだ。

駅へ向かいながら、俺は鞄の中のノートを指で押さえた。

職業欄には、無職と書いた。

だが、何もしていないわけではない。

戻るための条件を増やしている。

先を見るために、自分を縛っている。

そのどちらなのか、まだ分からないまま、俺は改札を通った。


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