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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第82話 戻った話



互助会の掲示板を開くのは、思ったより簡単に習慣になった。朝起きて、通知を見る。昼に少し見る。夜、寝る前にまた見る。書き込む気はない。見るだけだ。そう思っていたはずなのに、気づけば#撤退報告と#体調変化を何度も行き来している。

表示名は、見学中のままだった。見学中。かなり逃げた名前だが、今の自分には合っている。中に入りきっているわけではない。外から見ているだけでもない。扉の隙間に指をかけたまま、入るか戻るか迷っている。

俺はスマホを手に、布団の上でしばらく固まっていた。#撤退報告には、昨日からいくつか投稿が増えていた。


安全靴の民:

管理済み区域で、前回より床が濡れてる気がして戻りました。職員に言ったら「変化を覚えていたのは良い」と言われた。敵は見てない。何もしてないのに疲れた。


泥つき手袋:

それ撤退報告としてかなり良いやつでは


紙の盾:

何もしてない撤退って、書く時ちょっと恥ずかしい。でも助かる。


槙野@準備会:

何も起きる前に戻った話が一番価値あります。何か起きた後の撤退は、もう撤退ではなく対応になりがちです。


何か起きた後の撤退は、もう撤退ではなく対応。俺はその文を見て、黒い階段の前室を思い出した。あれは撤退ではなかった。対応だった。もっと正確に言えば、対応に失敗しかけて、別のものが穴を埋めた。腹を貫かれた寄生ゴブリン。壁に押しつけられた体。動かなくなった腹の破れ。

俺はスマホを伏せた。見ない方がいい。だが、しばらくするとまた手が伸びる。槙野の文章は、妙に刺さるところがある。こちらの事情を知っているわけではない。寄生ゴブリンも黒い階段も知らない。たぶん、普通の五級仮登録者へ向けて書いているだけだ。それなのに、普通の言葉ほど逃げ場がない。

俺は#撤退報告の書き込み欄を開いた。表示名、見学中。白い入力欄が出る。

最初に書いた文章は、すぐに消した。


未確認の奥へ進みたくなった時、どう戻ればいいですか。


未確認の奥。駄目だ。近すぎる。

次に書いた。


戻るのが遅かった気がします。


これも駄目だ。何から戻ったのか聞かれる。消す。また書く。


活動中、確認だけのつもりで先を見ようとして、戻る判断が遅れた気がしています。結果として自分は戻れましたが、次に同じことをしないための基準が知りたいです。


読み返す。嘘ではない。だが、ほとんど何も言っていない。俺がどこへ行ったのか、何を見たのか、何を置いてきたのかは書いていない。未申告の異常空間とも書いていない。全部じゃない嘘。いつものやり方だった。

それでも、投稿ボタンの前で指が止まった。押せば、誰かに見られる。見られたところで、ただの相談だ。五級仮登録者が撤退基準について聞いているだけだ。おかしなところはない。おかしなところはないと、自分に言い聞かせている時点で、おかしい。

俺は一度スマホを置き、水を飲んだ。戻ってきても、文章はまだ入力欄に残っていた。黒い階段は、まだ暗渠の奥にある。寄生ゴブリンは、もう六体ではない。昨日ではない。おとといでもない。時間は少しずつ進んでいる。何もしなくても、先に進む。

俺は投稿ボタンを押した。


見学中:

活動中、確認だけのつもりで先を見ようとして、戻る判断が遅れた気がしています。結果として自分は戻れましたが、次に同じことをしないための基準が知りたいです。


投稿された。たったそれだけなのに、背中が少し熱くなった。誰かの前で服を脱いだわけでもないのに、妙に落ち着かない。

しばらく返信はなかった。当たり前だ。みんなが常に見ているわけではない。俺はスマホを伏せ、洗濯機を回し、冷蔵庫から残り物を出して、電子レンジに入れた。待っている間が、一番落ち着かない。温まったご飯を食べ終わる頃、通知が来た。


安全靴の民:

戻れたならまず勝ちでいいと思います。遅かったって思えるなら、次は少し早く戻れるかも。


泥つき手袋:

確認だけ、は危ないですよね。自分もそれで泥に片足持っていかれました。確認だけって言った時点で、だいたい確認だけじゃ終わらない。


ポケット石:

ちょっとだけ見る、は長いです。石をちょっとだけ拾う、も長いです。自分は学びました。


五級見習い:

撤退基準を先に決めるのがいいらしいです。自分は紙に書いたら紙を忘れました。


紙の盾:

自分は「一つでも予定外が出たら戻る」にしてます。敵が出たら戻る、じゃ遅いことがあるので。音が違う、床が違う、同行者が嫌な顔した、でも戻る。


思ったより、普通に返ってきた。責められない。詮索されない。それが逆に変な感じだった。もっと「何があったんですか」と聞かれると思っていた。あるいは「判断が遅い」と言われるかもしれないと、どこかで身構えていた。だが、返ってきたのは普通の経験談だった。

泥に片足を取られた話。石を拾いかけた話。紙を忘れた話。重くない。でも、軽くもない。たぶん、これが普通の五級なのだろう。命に関わる場所へ行って、帰ってきて、泥や石や紙のことで少しずつ学ぶ。俺が飛ばしてきた部分が、そこにあった。

さらに返信が増えた。


安全靴の民:

声に出すのも効きます。一人でも「戻ります」って言う。恥ずかしいけど、自分の耳で聞くと止まりやすいです。


泥つき手袋:

分かる。自分も「今日はここまで」って言うようにしてる。言わないと、もう一歩だけになる。


五級見習い:

一人で声に出すの恥ずかしくないですか


安全靴の民:

恥ずかしいです。でも怪我するよりましです。


紙の盾:

撤退って、勇気というより手順にした方がいい気がする。勇気で戻ろうとすると、その日の気分に負ける。


手順。俺はその単語を何度か目で追った。撤退を勇気ではなく、手順にする。

昨日の俺には、それがなかった。下が通路か部屋か、それだけ見る。敵がいたら戻る。そう言いながら、敵が出てから戻ろうとした。戻る手順ではなく、進むための言い訳だった。

通知がまた来る。


槙野@準備会:

見学中さん、投稿ありがとうございます。まず、戻れたこと自体は大事にしてください。その上で、戻る判断が遅かったと思うなら、次に同じ状況で試さないことです。

おすすめは、進入前に撤退条件を三つほど決めておくことです。

例:

・予定にない通路、階段、部屋を見つけたら入らず戻る

・敵性生物を確認した時点で目的を切り上げる

・匂い、足場、音など、事前情報と違う変化があれば戻る

大事なのは、その場で考えないことです。その場の自分はだいたい先を見たがります。

あと、「確認だけ」は信用しない方がいいです。確認だけで済むなら、そもそも撤退条件はいりません。


その場の自分はだいたい先を見たがる。その通りだった。俺は先を見たがる。見たくないと思いながら、目が離れない。黒い階段の奥も、水門の白い群れも、暗渠のさらに下も。自分が何になっているのかでさえ、本当は見たくないのに、見たい。

だから、撤退条件を決める。戻るための手順を作る。その方が正しい。昨日の俺には、それがなかった。あれば、あの一体は壊れなかったかもしれない。

それでいいのか。

ふと、そんな疑問がよぎった。

正しいはずなのに、胸の奥で薄く引っかかる。戻る条件を決めることは、安全のためだ。生きて帰るためだ。分かっている。分かっているのに、それは同時に、奥を見たい自分の首に紐をつけることでもある。

何を感じてそう思ったのか、自分でも分からなかった。好奇心なのか。怖さなのか。壊れた一体への後ろめたさなのか。体の奥の白いものが、まだ下を見ているのか。

返事はない。

ただ、黒い階段の暗さだけが、目の裏で少し濃くなった。

少し間を置いて、槙野がもう一つ投稿した。


槙野@準備会:

補足です。撤退条件を決めたら、活動後に守れたかどうかも記録してください。守れなかった場合は、次回の条件を厳しくする。自分を信用しすぎないことも安全管理です。


自分を信用しすぎないこと。俺は笑いそうになって、笑えなかった。信用できない。今の自分を、俺はあまり信用できていない。

それなのに、また行くつもりでいる。暗渠の奥へ。黒い階段へ。今すぐではない。少なくとも今のままでは行かない。そう決めたはずなのに、頭のどこかでは、次に何を持っていくか考えている。

俺は返信欄を開いた。


見学中:

ありがとうございます。撤退条件を先に決めて、記録するようにします。


それだけ送った。本当は、もっと書くことがあった。戻れたと言っていいのか分からないこと。自分だけ戻ったこと。戻るのが遅れたせいで、壊れたものがあること。でも、ここに書けるのはここまでだ。

返信はすぐについた。


紙の盾:

がんばって戻りましょう


ポケット石:

帰宅部へようこそ


五級見習い:

帰宅部、正式名称になりそうで怖い


槙野@準備会:

なりません


俺は今度は普通に笑った。帰宅部。おかしな名前だ。でも、少しだけ救われる名前でもある。

俺はスマホを置き、机の引き出しからノートを出した。会社員だった頃に使っていた、何の変哲もないノートだ。会議のメモや、やることリストの残りが数ページ残っている。最後に書いてあるのは、退職前の引き継ぎ項目だった。

その次のページを開く。ペンを持つ。何を書くか、少し迷ってから、上にこう書いた。


暗渠・撤退条件


その文字を見て、胸の奥が少し重くなった。書いてしまった。暗渠。紙の上に出すだけで、隠していたものが少し形を持つ。

俺は続けて書いた。


一、黒い階段には一人で入らない。

二、未確認の部屋を見つけても、入口から覗く以上のことはしない。

三、敵を確認した時点で目的を切り上げる。

四、ついてくる個体がいる場合、進入範囲を狭くする。

五、「確認だけ」と思ったら戻る。


五つになった。槙野は三つほどと言っていたが、俺には三つでは足りない。

四つ目を書いた時、手が少し止まった。ついてくる個体。入口側からついてきた、あの寄生ゴブリン。来なくていいと言ったのか、来ないでくれと思ったのか、どちらにしても止めなかった。次にまた誰かがついてくるなら、それを込みで考えなければならない。

人間ではない。元は敵だ。寄生体が動かしているだけだ。そういう理屈は、もう紙の上では少し弱かった。

俺はさらに下に、小さく書いた。


守れなかったら、次は入らない。


書いてから、しばらく眺めた。かなり厳しい。そして、かなり信用できない。

この条件を、次の俺が本当に守るのか分からない。黒い階段の前に立てば、また「少しだけ」と思うかもしれない。下から乾いた空気が上がってきたら、また目が離せなくなるかもしれない。

だから、紙に書いた。勇気ではなく、手順にするために。

ノートを閉じる前に、スマホがまた震えた。互助会の通知だった。


槙野@準備会:

撤退報告は、書ける範囲で構いません。全部を書く必要はありません。ただ、自分の中でだけは、何を省いたのか覚えておいてください。


俺はその文を見て、動けなくなった。

槙野は何も知らない。知らないはずだ。それでも、俺は自分が何を省いたのか、覚えている。

黒い階段。乾いた匂い。短槍。壁に押しつけられた腹。戻れなかった一体。

俺は通知を消し、ノートを鞄に入れた。

互助会に書いたのは、戻った話の形をした、戻れなかった話だった。それでも、何も書かないよりはましだったのかもしれない。

少なくとも、次に黒い階段の前に立った時、俺には一枚の紙がある。それで止まれるかどうかは、まだ分からない。分からないが、何も持たずに立つよりはましだ。

俺は机の上のカードを見た。仮登録者互助会準備会。ギルド未満の、帰宅部みたいな場所。怪しい入口だと思っていた。今も怪しい。

けれど、黒い階段よりは、少しだけ戻り方を教えてくれる。


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