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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第86話 正式五級

 週末のオンライン説明会は、思っていたより普通に終わった。

槙野は、契約書の読み方を一から全部教えるようなことはしなかった。謝礼と業務委託は分けて考えること。事故時の責任が曖昧なものは受けないこと。映像や行動ログの利用範囲を見ること。活動場所を企業側が指定している場合、その場所が制度上許可された範囲なのか必ず確認すること。契約書や条件案を読むのが苦手なら、社名や個人情報を伏せたうえでAIに要点整理をさせてもいいが、最終判断にはしないこと。

どれも、昨日までの掲示板で見た話の整理だった。

ただ、声で聞くと少し違った。槙野の声は、思っていたより落ち着いていた。軽口を叩く時は少し笑うが、契約や事故責任の話になると声の温度が下がる。草色ジャケットの件も、匿名の例として短く触れられた。

「相手企業に悪意があるかどうかではなく、条件が雑な時点で危ないです」

その言葉だけ、妙に残った。

悪意がなくても危ない。

ダンジョンも、たぶんそうだ。小鬼や甲虫やあの乾いた人型に悪意があったかどうかは分からない。ただ、近づけば危ない。契約も同じ。槙野はそういうものを、できるだけ紙の上に引きずり出そうとしている。

説明会が終わると、参加者の何人かが礼を書き込んだ。五級見習い、安全靴の民、紙の盾、草色ジャケット。俺も一応、「ありがとうございました」とだけ打った。

それ以上は書かなかった。

今回は、それでよかった。

画面を閉じ、ノートを開く。生活・撤退条件の六つ目、企業契約は個人で即決しない、の横に小さく丸をつけた。説明会で聞いたことを受けて、消す必要はないと思った。

その時、スマホが震えた。

互助会ではない。制度側の連絡アプリだった。

件名は、五級仮登録者向け正式登録候補者説明会のご案内。

一瞬、部屋の空気が変わった気がした。

俺は通知を開いた。


五級仮登録者各位

異常空間民間調査員制度における五級正式登録候補者説明会を下記日程で実施します。

本説明会は、仮登録期間中の活動記録、講習受講状況、追加確認への参加状況等を踏まえ、正式登録候補者として選定された方を対象とするものです。

参加は任意です。正式登録を希望される場合は、説明会参加後、追加講習、健康確認、心理確認、活動記録確認、守秘義務確認等の手続きが必要となります。

正式登録により、管理済み低危険度区域における活動範囲、装備貸与、採取物申告、協力金、研究協力等の扱いが一部変更されます。

詳細は説明会にてご案内します。


何度か読み返した。

正式登録候補者。

五級仮登録者ではなく、正式五級。

言葉だけなら、少しだけゲームっぽい。仮登録から正式登録へ。見習いから本登録へ。講習を受け、活動記録を確認され、装備が増え、活動範囲が広がる。

だが、文面は徹底して役所だった。

追加講習。健康確認。心理確認。活動記録確認。守秘義務確認。

確認が多い。

俺は椅子に座ったまま、スマホを持つ手を少し下げた。

収入化の道が、少しだけ見えた。

管理済み低危険度区域の活動範囲が広がる。装備貸与。採取物申告。協力金。研究協力。どれも、昨日から考えていた生活の問題に関わる。暗渠を収入源にしないなら、制度内で稼げる道は欲しい。

だが、その道は確認でできている。

健康確認。

心理確認。

活動記録確認。

守秘義務確認。

どれも、俺には少しずつ刺さる。

健康確認はまずい。どこまで見るのか分からない。採血だけなら、すでに一度受けている。だが、正式登録となれば項目が増えるかもしれない。回復の速さ、異常な反応、寄生体に関係する何か。隠せるのか。そもそも、何を見れば見つかるのか、俺自身も分かっていない。

心理確認も嫌だった。

悪夢を見る。匂いが残る。黒い階段を見たくなる。化け物はどちらだと思う。そんなものを正直に出せるわけがない。だが、全部なしと書けば、それもまた嘘くさい。

活動記録確認。

これが一番直接的に嫌だった。

制度内の活動記録なら、出せる。公式同行、水門の件、追加確認。だが、暗渠は出せない。正式登録へ進むほど、未申告の空白が重くなる。

俺は通知を閉じずに、画面を見続けた。

槙野の説明会で聞いたばかりだった。条件が雑なまま進むな。分からないなら止まる。止まって聞く。契約も撤退と同じ。

では、正式登録はどうだ。

これは契約ではない。だが、入口だ。

国側の入口。

民間側の互助会が作ろうとしている入口とは違う。こちらは最初から制度の内側にある。紙も窓口も職員もある。強い。逃げ道もあるように見える。

その分、入った後に引き返しにくい。

俺はノートを引き寄せた。

新しいページを開く。上に「正式五級」と書こうとして、少し迷う。結局、そのまま書いた。

正式五級。

紙の上に置くと、思ったより軽く見えた。ゲームのランク名みたいでもあるし、役所の分類名みたいでもある。

その下に、通知から拾った項目を書き出す。


追加講習。

健康確認。

心理確認。

活動記録確認。

守秘義務確認。

活動範囲。

装備貸与。

採取物申告。

協力金。

研究協力。


並べると、かなり現実的だった。

夢のある単語は一つもない。だが、その現実的な単語の先に、管理された異常空間への入口がある。公式の装備があり、報告書があり、協力金があり、研究協力がある。

現実のギルド。

槙野が昨日使った言葉を思い出した。

民間側が作ろうとしているものも、国側が作ろうとしているものも、結局はこういう単語でできているのかもしれない。契約、装備、保険、申告、撤退。追加講習、健康確認、活動記録、守秘義務。

剣も盾もない。

少なくとも、書類上には。

俺はしばらくノートを見ていた。

正式登録は危ない。

でも、行かない理由にはならない。

むしろ、行かない方が危ないかもしれない。制度側が何を見ているのか、どこまで確認するのか、正式五級が何を許され、何を縛られるのか。それを知らないまま、暗渠だけを見ている方が危ない。

知らないまま奥へ行くな。

昨日、自分でそう思ったばかりだ。

俺は説明会の日程を確認した。

月曜の午後。合同庁舎。顔写真付き本人確認書類、登録証、筆記用具。参加希望の場合は、事前フォームから回答。

また合同庁舎か。

水門事案後の追加確認。槙野に声をかけられた自販機前。受付番号二十一番。石の扱いの注意。未申告の異常空間へ単独で入っていないかという質問。

俺はそこで嘘をついた。

また同じ建物へ行く。

今度は、正式登録候補者として。

胃の奥が少し重くなった。

それでも、フォームを開いた。

参加する、しない、保留。三つの選択肢が並んでいる。迷う時間はあった。締切はまだ先だ。だが、ここで保留にすると、たぶん何度も画面を見ることになる。見るたびに、黒い階段と健康確認と活動記録確認が頭の中で混ざる。

俺は参加するを選んだ。

送信する前に、少しだけ手が止まる。

正式五級になりたいのか。

問いが浮かんだ。

収入のためか。制度内に残るためか。暗渠以外の道を持つためか。自分がまだ人間側にいると確認するためか。それとも、正式登録という別の入口の先を見たいだけか。

たぶん、全部少しずつある。

どれが一番強いのかは分からない。

俺は送信ボタンを押した。

回答を受け付けました。

画面に出た文字は、それだけだった。

俺はノートの正式五級のページに、日付を書き込んだ。月曜、合同庁舎。正式登録候補者説明会。

その下に、少し離して、週末、互助会オンライン説明会済、と書いた。さらに一行空けて、暗渠、と書こうとしてやめた。

代わりに、ページの端に小さく線を三本引いた。

民間側。

国側。

暗渠。

三つの入口を表すには、それで十分だった。

どれも、入れば戻れるとは限らない。

それでも、俺は日付の横に丸をつけた。

月曜。

まずは、国側の入口を見る。


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