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第80話 受付番号

合同庁舎の入口は、今日も普通だった。

自動ドア。消毒液。床に貼られた案内矢印。警備員の会釈。昨日の夜、夢の中で腹に槍が刺さっていた人間が来る場所としては、かなり現実的すぎる。

俺は案内板を見上げた。

異常空間民間調査員制度、五級仮登録者向け追加確認。会場は三階の小会議室。

化け物か人間かで悩んだ翌日に、小会議室で受付番号を取ることになるとは思わなかった。

いや、考えてみればかなり日本らしい。

三階へ上がると、廊下の一角に臨時受付が作られていた。長机、ノートパソコン、番号札の発券機、消毒液、注意事項の張り紙。職員が二人いて、来た人間に順番に書類を渡している。

「五級仮登録者向け追加確認の方ですか」

「はい」

「登録証をお願いします」

白い登録証を出す。

職員は端末で確認し、俺の名前と番号を見た。何かを見抜かれたわけではない。ただ手続きとして画面を見ているだけだ。

それだけなのに、少し息が詰まる。

「ありがとうございます。こちらの問診票と確認事項をお読みください。受付番号は二十一番です。呼ばれるまで待合でお待ちください」

番号札を渡された。

二十一番。

俺はそれを見て、少しだけ安心した。

名前ではない。二十一番。人間でも化け物でもなく、今は二十一番で済む。

待合には、すでに十人ほどいた。年齢も服装もばらばらだ。作業着の男、学生っぽい若い女、登山用のジャケットを着た中年、スーツ姿のまま来たらしい男。全員が同じように問診票を見て、微妙な顔をしている。

俺も空いている椅子に座り、紙を開いた。

一枚目は水門事案を受けた追加確認の説明だった。異常空間内からの生配信の扱い、同行者の安全確保、撤退指示の再確認、未確認入口への単独進入禁止。書かれていることはまともだ。

まともだから、昨日の自分には全部刺さる。

二枚目は体調確認だった。

異常空間活動後に睡眠へ支障が出ていますか。

異常空間に関係する夢を見ますか。

活動後、匂い、音、皮膚感覚などが残ることがありますか。

異常空間への再進入衝動、または強い不安を感じることがありますか。

「……衝動」

声に出しかけて、やめた。

書き方が事務的すぎる。

昨日の黒い階段の奥を思い出す。見たくないと思ったのに、目が離れなかった暗さ。あれも、この欄に丸をつける話なのだろうか。

俺はペンを持った。

睡眠への支障、少しある。

夢、ある。

匂い、少しある。

再進入衝動、不安、どちらも少しある。

全部を正直に書くと、かなり面倒な人間に見える。だが、全部なしにすると嘘くさすぎる。

結局、俺は「時々」「軽度」に丸をつけた。

大嘘ではない。

全部でもない。

いつものやり方だ。

「二十一番の方」

しばらくして呼ばれた。

小会議室の中には、長机が三列並び、それぞれの席で職員が仮登録者と話していた。面談というより、追加説明と確認作業だ。怒られる空気ではない。だが、俺は勝手に背筋を伸ばした。

担当の職員は、以前見たことのある人ではなかった。三十代半ばくらいの男性で、机の上に俺の問診票と確認事項を置く。

「戸張さんですね。本日は水門事案を受けた五級仮登録者向けの追加確認です。特定の方を対象にしたものではなく、該当する仮登録者の方へ順次実施しています」

「はい」

その一言で少しだけ楽になった。

俺だけではない。

俺だけではないと分かっているのに、そう言われないと落ち着かない。

職員は淡々と説明を進めた。水門事案では、銃火器で制圧しきれない敵性生物が確認されたこと。非戦闘員同行時の配置が見直されること。生配信は当面停止し、確認済み録画と遅延公開を基本とすること。五級仮登録者は、従来以上に撤退指示と進入範囲の確認を徹底すること。

全部、外の話だ。

それでも、黒い階段を十段ほど降りた自分が、机の下で小さくなる。

「未確認入口を発見した場合、原則として進入せず、位置情報と状況を報告してください」

「はい」

「仮登録期間中の単独活動は完全禁止ではありませんが、管理されていない異常空間への単独進入は非常に危険です。特に、階層の変化や未確認通路を確認した場合、自己判断で先へ進まないでください」

「はい」

はい、ではない。

昨日の俺に聞かせたい。

いや、昨日の俺はたぶん聞いても降りた。下が通路か部屋か、それだけ見ると言って降りた。そういうところが駄目なのだと思う。

職員は問診票に目を落とした。

「睡眠に少し影響があるとのことですが、活動後からですか」

「最近、少し寝つきが悪いです」

「異常空間に関係する夢を見る、にも丸がありますね」

「まあ、多少は」

「頻度としては週一回以上ですか」

頻度。

夢の中で槍に刺されるやつを、週次報告みたいに聞かれるとは思わなかった。

「……まだ、そこまでは」

「分かりました。悪夢が続く場合や、日常生活に支障が出る場合は相談窓口があります。こちらに記載されています」

差し出された紙には、相談窓口の電話番号と受付時間が印刷されていた。

本当に現代日本だ。

化け物かどうかの悩みも、受付時間内なら相談できるのかもしれない。

たぶん、相談内容に困る。

「活動後に匂いが残る感覚がある、と」

「はい。実際についているのか、気のせいなのかは分かりません」

「珍しくありません。異常空間内の臭気は強く記憶に残る場合があります。防護服や装備に付着していない場合でも、しばらく感じる方はいます」

「そうなんですか」

「はい。自己判断で消臭剤や薬品を大量に使う方がいますが、皮膚炎や吸入リスクがありますので避けてください」

注意の方向がそこなのか。

いや、大事ではある。

俺は頷いた。

次に、貸与装備の説明があった。水門事案後、記録担当や非戦闘員同行時の護衛配置が見直されること。武器類の持ち出し、私物化、改造は従来通り禁止。貸与品は活動後すぐ返却。破損時は隠さず申告。

「現地の物を武器として使用した場合も、退場時に申告してください」

「現地の物」

「石、棒、金属片、敵性生物の残留物などです。使用自体が直ちに違反になるわけではありません。ただ、持ち帰りや投棄、他者への危害、採取物の未申告が問題になります」

石まで制度に組み込まれている。

俺の中の原始人部分が、少しだけ肩身を狭くした。

「投石についても、周囲確認を徹底してください。跳ね返りや後方への誤射があります」

「はい」

「人に向けないでください」

「それは、はい」

当然すぎる注意なのに、紙に書かれると少し情けない。

職員は真面目な顔で続けた。

「一部で、石を使った対処が有効とする切り抜きや投稿が出ていますが、模倣は非常に危険です。投げる、逃げる、拾う、という単純な行為でも、異常空間内では判断が遅れると負傷に繋がります」

「分かりました」

蛮族ニキの罪が、制度側の資料になっている気がする。

俺のせいとは限らない。

限らないが、少しだけ心当たりがある。

面談の最後に、職員は定型の確認を読み上げた。

「最近、未申告の異常空間へ単独で進入したことはありますか」

心臓が、嫌な跳ね方をした。

職員の声は変わらない。目つきも変わらない。全員に聞いているだけだ。机の隣でも、別の職員が似たような文言を読み上げている。

俺は一拍だけ遅れて、答えた。

「ありません」

嘘をついた。

言葉は普通に出た。

普通に出たことが、少し嫌だった。

職員は頷き、確認欄にチェックを入れる。

「ありがとうございます。今後、未確認入口や未申告の異常空間に関する情報を得た場合は、自己判断で進入せず、担当窓口へ報告してください」

「はい」

はい、ではない。

それでも、はいと言うしかなかった。

追加確認は二十分ほどで終わった。最後に、今後の講習日程と相談窓口、貸与装備の見直しに関する紙を渡される。俺はそれらを鞄にしまい、小会議室を出た。

廊下の空気が少し軽い。

たぶん、何も見抜かれなかったからだ。

それが安心なのか、さらに嘘を積んだだけなのかは考えないことにした。

一階へ降りる途中、自販機の前で足を止める。水を買った。喉が乾いていた。

ペットボトルの蓋を開けたところで、声をかけられた。

「すみません。五級の方ですよね」

反射的に身構えかけた。

声の主は、二十代後半か三十代前半くらいの男だった。派手ではないジャケットに、首から簡単な名札を下げている。名札には「仮登録者互助会準備会」と印刷されていた。

もう、その時点で少し怪しい。

男は俺の視線に気づき、苦笑した。

「あ、怪しい勧誘ではないです。と言う人間ほど怪しいのは分かっています」

「……何ですか」

「槙野と言います。自分も五級仮登録者です。今、仮登録者同士の情報交換会を作ってまして」

「情報交換会」

「はい。探索者ギルド、と言いたいところなんですけど、その名前でやると役所と警察と税務署に怒られそうなので、表向きは互助会です」

妙に正直だった。

俺はペットボトルを持ったまま、男を見る。槙野と名乗った男は、名刺サイズのカードを一枚差し出してきた。そこには、仮登録者互助会準備会、連絡用のメールアドレス、参加用フォーム、注意事項が小さく印刷されている。

「活動記録の書き方とか、装備の返却で困った話とか、協力金の申告例とか、そういうのを共有したいんです。あと、撤退した話ですね。失敗談が一番ほしい」

「攻略情報じゃなくてですか」

「攻略情報も、将来的には。けど今それを前に出すと、無断進入の相談所になりかねないので。まずは戻った話と、怒られなかった報告書の書き方からです」

変な言い方だが、分からなくはない。

強い人間を集めるというより、事故らないための集まりに聞こえる。

少なくとも、表向きは。

「今日来た人全員に声をかけてるんですか」

「全員ではないです。声をかけられそうな人に、できる範囲で」

「基準は?」

俺が聞くと、槙野は少しだけ表情を整えた。

笑顔は残っている。だが、軽さが少し薄くなる。

「初回申請の時に、個別確認が長かった人。あと、今日みたいな追加確認にちゃんと来ている人です」

ペットボトルを持つ手に、少し力が入った。

「個別確認が長かったかどうかなんて、分かるんですか」

「正確には分かりません。なので、かなり雑です。会場ごとに知り合いに見てもらって、入った時間と出た時間、顔の特徴を簡単にメモしてもらっただけなので」

「それ、かなり怪しくないですか」

「怪しいです」

即答だった。

「ただ、登録者同士の横の繋がりを作るなら、早めに経験者を拾わないと間に合わないと思ったんです。長く残った人が全員すごいわけじゃないし、短時間で帰った人の中にも経験者はいると思います。でも、何もないよりはましです」

正直に言われると、余計に困る。

こいつは俺を見抜いているわけではない。

寄生体も、暗渠も、黒い階段も知らない。

ただ、外形だけで俺をリストに入れた。

それだけだ。

それだけなのに、嫌な場所を見られた気がする。

「何が目的ですか」

「半分は、普通に互助会です。単独で突っ込んで死ぬ人を減らしたい。制度側に聞きにくいことを聞ける場所も要ると思っています」

「もう半分は」

槙野は少し笑った。

「ゲームのギルドに憧れてました」

言い方が、あまりにも素直だった。

「依頼があって、情報が集まって、装備の相談ができて、帰ってきた人間が飯を食いながら失敗談を話す場所。ああいうの、好きだったんです。でも現実にやろうとすると、まず法律と責任と税金と保険と銃刀法と採取物の所有権が来る」

「夢がないですね」

「現実なので」

槙野は肩をすくめた。

「でも、だから面白いとも思っています。ゲームのギルドをそのまま作るんじゃなくて、今の日本で怒られない形に削っていく。削りすぎるとただの連絡網になるんですけど」

少しだけ分かってしまった。

分かりたくはない。

俺も、ダンジョンなんてものが現れなければ、会社を辞めて暗渠に潜るような人間ではなかった。ゲームみたいなものが現実に出てきて、心が動いた側の人間だ。

ただ、俺は体ごと踏み込んだ。

こいつは名簿と連絡網で踏み込もうとしている。

違うようで、少し似ている。

「参加すると何をするんですか」

「今は聞くだけでも大丈夫です。匿名でも構いません。ただ、違法な情報共有はしません。未確認入口の場所を回すとか、採取物の闇取引とか、貸与武器を持ち出す相談とか、そういうのは切ります」

「本当に切れますか」

「切りたいです」

「言い直しましたね」

「できると言い切ると嘘になるので」

信用できるのか、できないのか分からない。

少なくとも、できると即答する人間よりはましかもしれない。

俺はカードを受け取った。

「考えておきます」

「それで十分です。無理な勧誘はしません。あ、あと」

槙野が少し声を落とした。

「あなたみたいに、個別確認が長かった人は警戒すると思ってました。なので、ここで断っても追いません。連絡するかどうかは任せます」

「だったら、最初から声をかけなければいいのでは」

「声をかけないと、繋がれないので」

槙野は、少しだけ照れたように笑った。

「ギルドって、最初は誰かが声をかけないと始まらないじゃないですか」

その言い方は、ずるい。

俺はカードを鞄に入れた。

信用したわけではない。

むしろ警戒する理由は増えた。俺をリストに入れていた人間だ。善意だけで動いているわけでもない。

それでも、捨てる気にはなれなかった。

庁舎の外へ出ると、昼過ぎの光が少し眩しかった。

鞄の中には、追加確認の紙と、互助会準備会のカードが入っている。

人間側の手続きと、ゲームに憧れた名刺。

どちらも紙だ。

紙ばかり増えていく。

俺は駅へ向かって歩き出した。

黒い階段の奥は、まだ見ない。

少なくとも、今のままでは。

その代わりに、今は別の入口が一つ増えた。

ダンジョンの入口ではない。

人間が作ろうとしている、少し怪しい入口だった。


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