第79話 どちらなんだ
返信画面は、開いたまま止まっていた。
異常空間民間調査員制度の担当窓口から届いた通知は、何度読み返してもただの事務連絡だった。水門事案を受けた五級仮登録者向け追加確認。安全講習の追加実施。貸与装備運用の見直し。今後の活動予定の確認。
俺が今日、暗渠へ入ったこととは関係ない。
そう分かっているのに、指が動かなかった。
画面の白い入力欄を見ていると、黒い階段の下に溜まっていた白っぽい粉を思い出す。骨の粉なのか、石灰なのか分からなかったあれ。乾いた人型が動いた時、床から薄く舞い上がったもの。
俺はスマホを伏せた。
先に風呂へ入ろうと思った。
服を脱ぐ時、袖口を嗅いでしまった。湿った土と胞子の匂いは薄い。代わりに、鼻の奥には乾いた骨のような匂いが残っていた。実際に服についているのか、自分の中に残っているだけなのかは分からない。
シャワーを浴びても、落ちなかった。
腹のあたりに、槍が来る瞬間の感覚が残っている。
当たっていない。
俺の腹には刺さっていない。
刺さったのは、入口側からついてきた寄生ゴブリンだ。
そう考えて、すぐに嫌になる。
あれは俺が命じたわけじゃない。
勝手に割り込んだ。
元はゴブリンだ。俺を殺そうとしていた敵だ。人間ではない。生きていたのか死んでいたのかも、今となっては曖昧だ。寄生体が取り込んで動かしていただけのものを、一体失った。
理屈はいくらでも出てきた。
どれも、あまり役に立たなかった。
俺が降りなければ、あれは壊れなかった。
その一文だけが、風呂場の白い壁に貼り付いたみたいに残った。
部屋に戻っても、返信画面は開けなかった。食事を取る気にもならない。冷蔵庫を開けかけて、透明な小瓶のことを思い出し、結局やめた。
布団に入ると、体の奥が少しだけ疼いた。
責めているのか。
反省しているのか。
それとも、ただ下の階層に反応しているのか。
「……どちらなんだ」
声は小さかった。
化け物は、体の中にいる白いものなのか。
それとも、それに寄りかかって階段を降りた俺なのか。
返事はなかった。
眠りに落ちるまで、天井の暗さが黒い階段に見えていた。
夢の中で、俺はまた階段を降りていた。
黒い石の段差。乾いた空気。古い布と石灰と錆びた鉄の匂い。ライトは点いていないのに、足元だけがぼんやり見えている。
確認だけ。
下が通路か部屋か、それだけ見る。
敵がいたら戻る。
同じ言い訳が、誰かの声みたいに階段の壁を伝って落ちていく。
けれど、声を出しているのは俺だった。
前室に出る。
壁のくぼみが並んでいる。床には白っぽい粉が溜まっている。現実よりもずっと広く見えた。くぼみの奥には、動かないものがいくつも立っている。
乾いた皮を貼りつけた人型。
首の外れた人型。
腹に槍を刺された寄生ゴブリン。
全部が同じ向きで、こちらを見ていた。
目があるのかも分からないのに、見られていると分かった。
「戻る」
夢の中でも、俺はそう言った。
声は前に進まなかった。口から出たはずの言葉は、足元の粉に落ちて、すぐに埋もれた。
寄生ゴブリンが一歩出る。
腹には槍が刺さったままだ。石の壁へ縫い止められているはずなのに、壁ごと引きずるように歩いてくる。手足の動きはばらばらで、頭は少し横に傾いている。
来ないでくれ。
そう思った。
声にはならなかった。
現実でも、俺の声は弱かった。止める言葉ではなく、言い訳に近かった。
寄生ゴブリンは止まらない。
俺の前に出る。
槍が腹を貫く。
同じ場面のはずだった。
けれど、今度は違った。
槍の柄が、寄生ゴブリンの腹から俺の腹へ続いていた。一本の槍で、二つの体がまとめて留められている。痛みは遠い。遠いのに、足が動かない。
俺は刺されていない。
そう思う。
次の瞬間には、俺の腹から白い糸がこぼれている。
血ではない。
痛みでもない。
腹の奥から、白いものが細くほどけて、寄生ゴブリンの破れた腹へ戻っていく。戻っているのか、出ているのか分からない。どちらからどちらへ流れているのかも分からない。
乾いた人型が、槍から手を離した。
動かないはずの寄生ゴブリンが、俺の代わりに一歩前へ出る。
俺の足も同時に動いた。
どちらの足なのか分からなかった。
壁際で、亀山の声がした。
『テイマーではありません』
声だけだった。姿はない。白い背景も、配信画面もない。ただ、その一言だけが前室の壁に貼りついていた。
違う。
あれは亀山じゃない。
切り抜きの音声だ。
そう思った直後、白い群れが床を這った。水門の水辺ではなく、黒階段下の乾いた石畳を、白い細かなものが薄く広がっていく。乾いた床では鈍いはずなのに、夢の中ではゆっくりとこちらへ寄ってきた。
寄生ゴブリンの腹からも、俺の腹からも、同じ白いものが垂れている。
化け物は、どちらだ。
体の中にいるものか。
それを使った俺か。
それとも、もう分けること自体が無理なのか。
前室の奥に、階段が続いていた。
現実では見ていないはずの階段だ。黒い石がさらに下へ伸び、暗い口を開けている。嫌な匂いがする。乾いた骨の匂い。古い布の匂い。まだ見ていない場所の匂い。
見たくないと思った。
本当に思った。
それなのに、目が離れなかった。
腹に刺さった槍も、足元の白いものも、動かなくなった寄生ゴブリンも、全部そこにあるのに、俺は奥を見ていた。
階段の先で、何かが動いた。
その形を見ようとした瞬間、腹の奥が強く縮んだ。
目が覚めた。
部屋は暗かった。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。手で腹を押さえる。刺さっていない。血もない。白い糸も出ていない。
息だけが浅かった。
布団の中で体を起こすと、背中に汗が張り付いていた。喉が渇いている。水を飲もうとして立ち上がりかけ、足元を見た。
何もいない。
当たり前だ。
暗渠ではない。黒階段の下でもない。動かなくなった寄生ゴブリンも、乾いた人型も、ここにはいない。
「お前がやったのか」
体の中に向けて聞いた。
返事はない。
「俺がやったのか」
やはり、返事はなかった。
聞く相手を間違えているのかもしれない。
白いものは言葉を返さない。責任の所在を説明してくれない。俺の中で疼き、助け、補い、時々勝手に動く。それだけだ。
だから、問いはいつも俺のところへ戻ってくる。
俺は洗面所で水を飲み、顔を洗った。鏡の中の顔は、寝不足の三十歳の男に見える。目の下が少し暗い。髭も伸びている。外から見れば、ただ疲れているだけだ。
普通の人間に見える。
そのことに、少し安心しかけた。
安心しかけた自分が、すぐに嫌になった。
スマホを見ると、通知はまだそこにあった。返信期限までは余裕がある。今すぐ返さなくてもいい。そう思いながら、俺は指定フォームを開いた。
参加可能な日程を選ぶ。
氏名は自動入力されている。登録番号もある。五級仮登録者。制度の中にいる人間の情報として、俺の名前が並んでいる。
その枠の中に、自分を押し込む。
押し込めば、少しは人間側に残れる気がする。
そんな考えが浮かんで、また嫌になった。
俺は日程を選び、送信ボタンの前で一度止まった。
黒い階段へは、まだ入らない。
少なくとも、今のままでは入らない。
そう決める。
決めたはずなのに、夢の中で見えた奥の暗さが、目の裏に残っていた。
送信ボタンを押した。
画面に、回答を受け付けました、という事務的な文字が出る。
それを見ながら、俺は腹の奥を押さえた。
痛みはない。
傷もない。
けれど、刺さったままのものが、まだ抜けていない気がした。




