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第78話 暗渠ダンジョン 9



翌日になっても、ホワイトスウォームという言葉は消えていなかった。

テレビをつければ専門家が喋り、スマホを開けば切り抜きが流れ、掲示板では亀山の名前と一緒に白い群れの話が並んでいる。見るたびに胃のあたりが重くなるので、俺は途中で追うのをやめた。

見たところで、水門へ行けるわけではない。制度側に何かを話せるわけでもない。亀山に謝れるわけでもない。

できるのは、自分が隠したものを確認することくらいだった。

「確認だけだ」

家を出る前に、声に出しておく。

自分で言っていて、あまり信用できなかった。

暗渠の入口は、前に来た時と変わらずそこにあった。子供の頃に肝試しで使ったトンネル。記憶にない横道。外から見れば、ただの古い水路にしか見えない。

けれど、今の俺にはそこが安全な隠し場所には見えなかった。

水門に残ったものが、俺の知らないところで形を変えた。なら、暗渠に残したものが同じままだと決めつける理由はない。

ライトを点け、横道へ入る。

湿った空気が顔に触れた。黒っぽい壁。足元に残る小さな砂利。奥から届く、古い水と土の匂い。懐かしいとは思わなかった。慣れてきていることの方が嫌だった。

最初に動いたのは、壁際の影だった。

寄生ゴブリンが一体、こちらを見る。続いて二体目、三体目。奥に少し大きい影もある。

入口側の四体は残っていた。

外には出ていない。少なくとも、俺が見た範囲ではそうだ。

「……よし」

安心していいはずなのに、声はあまり軽くならなかった。

四体は、前よりも散らばり方が整っているように見えた。俺が細かく配置したわけではない。入口に近い側、横道の曲がり角、下層へ向かう通路の手前。見張りとしては悪くない。悪くないから、余計に嫌だった。

こいつらは、ただ立っているだけではない。

そう考えると、足が少しだけ重くなる。

俺が歩き出すと、一体が後ろについた。ついてこいとは言っていない。止まれとも言っていない。足音とも擦過音ともつかない気配が、少し離れて続いてくる。

止めるべきだったのかもしれない。

でも、止めなかった。

下層へ降りる階段の手前で、湿った匂いに胞子の甘い苦さが混じった。菌のフロアは、前に荒らしたはずなのに、もう薄く元へ戻ろうとしている。踏み潰したキノコの跡はぼやけ、絡む根は別の場所へ伸び、壁際の灰色が少し濃くなっていた。

倒したことが、なかったことになっていく。

ダンジョンの中では、それも珍しいことではない。分かっている。分かっていても、自分のやったことだけが記録に残らず薄れていく感じは、気持ちが悪い。

奥へ進む。

ボス部屋の残骸は、ほとんど残っていなかった。あの三メートル近い植物の怪物がいた場所には、黒っぽい染みと、乾いた根の欠片のようなものが散っているだけだった。

下層階段側に置いた二体は、前と同じ場所にいた。

一体は黒い脚絆を巻き、赤錆の山刀を持っている。もう一体は、布の切れ端で包んだ赤みのある小瓶二本を抱えるようにしていた。

小瓶は割れていない。

山刀もある。

黒い脚絆も、勝手に外れてはいない。

「残ってるな」

口にした瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

その少しが、よくなかったのだと思う。

確認するべきものは残っていた。入口側の四体も、下層側の二体も、赤錆の山刀も、赤みのある小瓶二本も、黒い脚絆も、ひとまずは俺が置いた場所にある。

なら、もう一つだけ確認できる。

黒い階段。

下層の奥に続く、あの黒い石の階段だけ、まだ何も分かっていない。

俺はライトを向けた。

階段は暗かった。菌フロアの湿り気とは違う、乾いた空気が下から上がってくる。土というより、古い布と石灰と錆びた鉄を混ぜたような匂い。水門の水っぽさとも、暗渠の湿った土とも違う。

行くべきではない。

そう思った。

今日は確認だけだ。小瓶と山刀と寄生ゴブリンの状態を見て、戻る。それで十分だ。昨日の時点では、そう決めていた。

でも、水門に残したものは勝手に形を変えた。

見ていない場所を見ないままにしておけば、また俺の知らないところで何かが起きるかもしれない。

「下が通路か部屋か、それだけ見る」

誰に言い訳しているのか分からなかった。

俺は一段だけ足を下ろした。

黒い石は冷たかった。二段、三段。ライトの輪が階段の先を撫でる。後ろで、黒い脚絆の寄生ゴブリンが動いた。赤錆の山刀を持ったまま、俺の少し斜め後ろへ滑るように降りてくる。入口側からついてきていた一体も、遅れて階段へ足をかけた。

「来なくていい」

声は出たが、強くはなかった。

返事はない。言葉が通じているわけでもない。ただ、俺の中の何かが奥へ向いていて、それに引かれるように寄生ゴブリンたちも動いている。

それを、俺は止めなかった。

階段を十段ほど降りたところで、空間が開けた。

下は通路ではなく、小さな前室のようになっていた。天井は低く、壁には細長いくぼみがいくつも並んでいる。床は石畳で、隙間に白っぽい粉が溜まっていた。

白、ではない。

骨の粉か、乾いた石灰のような色だ。

ライトの輪が、壁際のくぼみを通り過ぎる。

その中の一つが、遅れて動いた。

最初、人型だと思った。

次に、違うと思った。

乾いた皮を骨に貼りつけたような体。胸のあたりに錆びた金具。腕にはぼろぼろの布が巻きつき、片手に短い槍のようなものを持っている。顔に当たる部分には、鼻も唇もほとんどなく、歯だけが妙に残っていた。

元が人間なのか、ゴブリンなのか、それ以外なのか分からない。

分からないまま、そいつは動いた。

「っ」

俺は反射的に石を投げた。

額に当たる。乾いた音がした。普通なら怯む。少なくとも顔をそらす。

そいつは止まらなかった。

首が少し横へ傾いただけで、槍を低く構えて踏み込んでくる。速くはない。けれど、重心が崩れない。痛がる様子も、怖がる様子もない。

血の匂いがしない。

それが一番嫌だった。

赤錆の山刀を持った寄生ゴブリンが横から入る。刃が腕に当たり、乾いた皮と骨の間へ食い込んだ。通る。だが浅い。相手の腕は落ちず、槍の柄がそのまま寄生ゴブリンの肩を叩いた。

鈍い音が響く。

普通のゴブリンなら、それで倒れていたかもしれない。脚絆の個体は倒れず、床を滑るように距離を取った。

俺は後退した。階段へ戻る。戻るべきだ。ここは入る場所ではない。

そう判断した瞬間、背中側の段差に踵が当たった。

ほんの一拍、足が止まる。

槍の穂先が腹へ来た。

入口側からついてきていた寄生ゴブリンが、俺の前に割り込んだ。

命じていない。

命じていないのに、そうなった。

槍は寄生ゴブリンの腹を貫き、そのまま石の壁へ押しつけた。乾いた人型は、刺さった相手を気にする様子もなく、さらに前へ出ようとする。寄生ゴブリンの足が床を掻き、爪が石を削った。

その瞬間、体の奥が冷たく縮んだ。

俺は右へ転がるように避け、床の石を掴んで、人型の膝へ叩きつけた。一度、二度。骨の内側で何かが割れる音がした。それでも止まらない。膝が曲がったまま、体だけがこちらへ向く。

黒い脚絆の寄生ゴブリンが、背後から入った。

赤錆の山刀が、首の付け根に食い込む。

俺も同時に、落ちていた槍の柄を踏みつけた。人型の体がわずかに前へ傾く。山刀の刃が、骨と乾いた筋の間を無理やり進んだ。

ぎり、と嫌な音がした。

最後に首が外れた。

人型はまだ一歩動こうとして、崩れた。

床に落ちても、しばらく指だけが動いていた。白っぽい粉が舞い、錆びた金具が石畳を叩く音が遅れて響く。

俺は息を吐けなかった。

壁に押しつけられた寄生ゴブリンを見る。

槍は腹を貫いたまま、後ろの石に食い込んでいる。寄生ゴブリンの手足はまだ動いていたが、動きはばらばらだった。中の糸が切れかけているように、腕が持ち上がっては落ち、足が床を擦っては止まる。

近づいた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。

音がしたわけではない。

でも、分かった。

「あ」

声にならない声が出た。

寄生ゴブリンは動かなくなった。

俺はしばらく、その前で立っていた。

元は敵だ。俺を殺そうとしたゴブリンだ。人間ではない。俺が助けた相手でもない。寄生体が勝手に取り込んで、勝手に動かしていたものだ。

そういう言い訳はいくつも出てきた。

でも、それをここへ連れてきたのは俺だった。

正確には、ついてくるのを止めなかった。

もっと正確に言えば、俺が降りなければ、こいつは壊れなかった。

「……戻る」

今度は、はっきり言った。

返事はない。

赤錆の山刀を持った個体は、首のない人型のそばで止まっている。攻撃を続ける気配はない。俺の言葉を理解したのか、俺の中の何かが退いたのか、その区別はつかなかった。

どちらでもよかった。

俺は動かなくなった寄生ゴブリンを、壁から外そうとした。槍が抜けず、少し力を入れると、腹の周囲が嫌な音を立てた。持ち帰る意味があるのかも分からない。しばらく迷って、結局そのまま床へ横たえた。

この階層に置いていく。

それが正しいのかも分からない。

けれど、これ以上ここにいる方がまずい。

首のない人型の指が、まだ微かに動いているように見えた。

俺は階段を上がった。

一段ごとに、さっき自分が言った言葉が戻ってくる。

確認だけ。

下が通路か部屋か、それだけ。

敵がいたら戻る。

全部、言い訳だった。

菌フロアまで戻ったところで、足がようやく止まった。赤錆の山刀の個体も戻ってくる。刃には血がついていない。乾いた粉と、黒っぽい削れ跡だけが残っていた。

下層階段側のもう一体は、赤みのある小瓶二本を抱えたまま動いていなかった。

俺は山刀の個体を、元の見張り位置へ戻した。正しく伝わったのかどうかは分からない。ただ、そいつは黒い階段の手前で止まり、赤錆の刃を下げたまま奥を向いた。

入口側からついてきた一体は、戻ってこない。

六体いた寄生ゴブリンは、五体になった。

数字にすると、それだけだった。

「まだ、入る場所じゃない」

口にしてから、違うと思った。

場所の問題だけではない。

今の俺が、入るべきではなかった。

焦っていた。

水門のことを見て、自分の知らないところで何かが動くのが嫌で、全部を確認しないといけない気になっていた。隠したものを管理しているつもりで、管理できていないことを見せつけられたくなかった。

その結果が、これだ。

俺は入口まで戻った。

残った三体の寄生ゴブリンが、横道の奥でこちらを見ている。最初より一体少ない。大柄な個体は動かない。何かを責めるような視線ではない。ただ、そこにいる。

それが嫌だった。

外へ出ると、夕方に近い光が目に刺さった。普通の空気。普通の道。遠くで車が走る音。暗渠の中の乾いた骨の匂いが、鼻の奥にまだ残っている。

俺は少し歩いてから、スマホを確認した。

通知が来ていた。

暗渠に入っている間の時刻だった。発信元は、異常空間民間調査員制度の担当窓口。件名は、水門事案を受けた五級仮登録者向け追加確認について。

本文は事務的だった。

今後の活動予定、安全講習の追加実施、貸与装備運用の見直しに伴う確認。該当する仮登録者へ順次連絡しているので、指定フォームから都合のよい日程を回答してほしい。

俺が暗渠へ入ったことを知られたわけではない。

そんなことは、文面を見れば分かる。

分かるのに、背中が冷えた。

中で隠したものは一つ減った。

外からは、制度側の連絡が来た。

俺はスマホを握ったまま、しばらく返信画面を開けなかった。


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