第77話 知らないとは言えない
テレビを消しても、白いものは目の裏に残っていた。
朝の情報番組で何度も流れていた加工済みの映像。灰色がかった水辺。傾くカメラ。画面の端から広がる、白い濁りのような群れ。
司会者はそれを「未分類の群体」と呼び、別の番組ではコメンテーターが「ホワイトスウォーム」と言っていた。どちらの名前も、俺にはあまり現実味がなかった。
現実味がないのに、知らないものとして片付けられない。
「……名前、付いたのか」
つぶやいても、部屋の中には返事がなかった。
いつものことだ。
体の中のそれは、言葉では返さない。問いかけたところで、頭の中に声が響くわけでもない。ただ、胸の奥とも腹の奥ともつかない場所が、じわりと水の方へ向きたがるように疼いた。
俺はスマホを置き、ソファの背にもたれた。
場所の名前は伏せられている。映像も切られ、音声も加工され、具体的な地形は分からないようにされている。それでも亀山が映っていて、水辺で、虫と両生類の中間みたいな敵が出てきて、そこに白いものが現れた。
分からないふりをするには、材料が揃いすぎていた。
あの水門だ。
最初に亀山が飲まれかけて、俺が勝手に入り、勝手に助けて、勝手に記録を壊した場所。
その後も、夢の中で何かが這っていた。目で見たわけではない。手で触れたわけでもない。水の近くを、体のどこかではない場所で進むような、気持ちの悪い感覚だった。動くはずのない脚が持ち上がるような、残したものが勝手に向きを変えるような。
その時は、夢だと思いたかった。
今は、そう言い切れない。
スマホの画面には、亀山の報告配信を切り抜いた短い動画がまだ残っていた。白い背景の室内で、亀山はいつもより少しだけ顔色が悪く見えた。
『呼べません』
『テイマーではありません』
『現場で初めて見ました』
何度も否定しているのに、コメント欄では笑いと期待が流れている。本人が怖がっていることくらい、画面越しでも分かる。それなのに、面白い名前が付いた瞬間から、怖さは少しずつ別のものに変えられていく。
亀山は何もしていない。
たぶん、本当に何もしていない。
俺も、命じていない。
けれど無関係かと聞かれたら、口を閉じるしかなかった。
「……最悪だな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
白い群れは敵を襲った。人間の足元を避け、カメラマンを助け、亀山を見た。ニュースでは、結果として全員が戻れたことが評価されている。自衛隊でも止めきれなかった相手を、あれが止めたとも言われていた。
良いことのように聞こえる。
人が助かったのだから、悪いだけの話ではない。
それでも、俺の胃のあたりは重かった。
あれが人を助けたから安心、とはならない。次も助ける保証なんてない。俺が止められる保証もない。そもそも俺は、あれを出した覚えがない。
体の中が、また小さく疼いた。
水。
湿った床。
傷口。
喉。
目。
そういうものに向かう感覚だけが、言葉にならないまま浮かんで、すぐに沈んだ。
「いや、説明しなくていい」
俺は反射的に言っていた。
返事はない。
説明もない。
ただ、こちらの都合とは関係なく、体の奥の何かがあの映像に反応している。それだけで十分に嫌だった。
俺は立ち上がり、冷蔵庫の前まで歩いた。扉を開けると、冷気が顔に当たる。食品の奥に隠すように置いた透明な小瓶は、まだそこにあった。
水門で拾ったまま使っていない、出せないもの。
冷蔵庫の白い光の中で、それはただの小瓶みたいに静かだった。中身は澄んでいる。ニュースで見た白い群れとは似ても似つかない。それでも、水門という言葉で頭の中の箱を開けると、透明な小瓶も、壊した記録カードも、夢の中の這う感覚も、白い群れも、亀山の否定も、同じところに一緒くたに入っている。
俺は冷蔵庫を閉めた。
暗渠に置いてきた赤みのある小瓶二本のことが、ふと頭に浮かんだ。黒い脚絆を巻いた寄生ゴブリン。赤錆の山刀。下層の奥に続く黒い階段。
水門に残ったものが、俺の知らないところで形を変えた。
なら、暗渠に残したものはどうだ。
あそこに置いてきた六体は、本当に俺が置いた時のままなのか。赤みのある小瓶二本は、ただ持たせているだけで済むものなのか。黒い階段の奥から、何かが上がってきていないと言えるのか。
言えない。
言えないことばかりが増えていく。
ソファに戻ると、スマホの画面が暗くなっていた。指で触れると、また亀山の顔が表示される。再生ボタンの三角形が、妙に軽く見えた。
押せば、同じ否定が何度でも流れる。
『テイマーではありません』
たぶん、それは本当だ。
そして俺も、ホワイトスウォームを操っているわけではない。
けれど、知らないとは言えない。
俺はスマホを伏せた。
明日、暗渠へ行く。
水門へは行けない。行けば、それこそ何かが繋がる。亀山にも、制度側にも、俺自身にも近すぎる。
だからまず、自分が隠したものを確認する。
隠したものは、隠したまま大人しくしてくれるとは限らない。
そんな当たり前のことを、白い名前の付いた群れに教えられた気がした。




