第72話 ホワイトスウォーム
画面が大きく傾いた。
床が映り、濡れた壁が映り、誰かの足が画面の端を横切った。
銃声。
水音。
短い指示の声。
それらが重なり、配信の音声は一瞬、何を拾っているのか分からなくなった。
『カメラさん!』
『後ろ後ろ後ろ』
『イモリ来てる』
『配信止めろ』
『いや止める余裕ないだろ』
『亀さん逃げて』
『銃声やばい』
『これ公式配信だよな?』
後方カメラの映像には、壁から剥がれ落ちるように跳んだイモリ型が映っていた。
体長は一メートルほど。
大きさだけなら、正面のカエル型や山椒魚型に比べれば小さい。
だが、距離が近かった。
濡れた壁と同じ色をした体は、カメラマンの横合いから滑るように迫っていた。
後方の自衛隊員が銃口を向ける。
撃つ。
弾は当たった。
イモリ型の肩口に黒い穴が開き、ぬめった体液が飛ぶ。
それでも止まらない。
小さく体を捻り、壁を蹴って、もう一度跳ぶ。
「後方、接近!」
「非戦闘員を下げろ!」
「正面、詰めてくる!」
正面では、カエル型が床を踏み鳴らしていた。
厚い皮膚に銃弾が食い込み、灰緑色の表面が裂ける。
命中している。
自衛隊員は外していない。
だが、弾は深く入らない。
湿った皮膚と筋肉が、衝撃を飲み込むように沈み、次の瞬間には押し戻す。
カエル型は喉を膨らませ、低い音を鳴らした。
その後ろで、山椒魚型が水を押し分ける。
三メートル近い胴体が、通路の奥を塞ぎながら前へ出てくる。
『当たってるよな?』
『当たってるのに止まってない』
『昨日のカマドウマと違う』
『二層でも相性あるのか』
『銃が効いてないんじゃなくて止まらない』
『前も後ろも無理』
『撤退できない』
亀山は、壁際に押し込まれるように下がっていた。
戦闘要員ではない。
機材を抱えた記録担当も、後ろへ下がろうとしていた。
しかし退路にはイモリ型がいる。
正面を見れば、カエル型と山椒魚型がいる。
後方を守れば、正面が崩れる。
正面を止めれば、後方の非戦闘員がやられる。
誰かが、配信停止を叫んだ。
だが、誰も端末に触れなかった。
触れられなかった。
配信画面の端で、停止ボタンだけが赤く小さく光っている。
イモリ型が、カメラマンへ向かって跳んだ。
カメラマンは足を滑らせ、尻もちをつく。
銃口が追う。
間に合わない。
その時、画面の下端に、白い点が映った。
『え』
『何』
『白いの』
『床?』
『虫?』
最初は、水しぶきか、床の汚れが剥がれたように見えた。
白い点が一つ。
二つ。
濡れた床の割れ目から、壁の継ぎ目から、水路の縁から、細い糸くずのようなものが滲み出してくる。
それは、次の瞬間には点ではなくなっていた。
白い小さな虫だった。
線虫にも、羽のない蛾の幼虫にも、糸の束にも見える。
形は一つに定まらず、ただ白く、細かく、数だけが増えていく。
イモリ型の前脚に、それらが触れた。
イモリ型は構わず跳ぼうとした。
だが、足が床から離れない。
白い虫が、足首に絡み、指の間に入り込み、濡れた皮膚の上を走る。
一匹一匹は小さい。
踏めば潰れるほどに見える。
実際、イモリ型が暴れた拍子に、何匹かは弾けるように潰れた。
それでも次が来る。
その次も来る。
白いものが、床の隙間から湧き続ける。
『虫だ』
『白い虫』
『めっちゃいる』
『カメラさんの足元!』
『イモリ止まった?』
『何これ』
『亀さんの虫?』
イモリ型が甲高く鳴いた。
口を開けた瞬間、白い虫の群れが口の端へ入り込む。
目の周りに集まる。
傷口に入り込む。
皮膚の表面を食い破るのではない。
柔らかい場所を探して、そこへ潜り込んでいる。
イモリ型はカメラマンではなく、自分の前脚と顔を振り払おうとした。
その動きで、カメラマンとの距離が初めて離れた。
「下げろ!」
後方の自衛隊員がカメラマンの襟を掴み、引きずるように下がらせる。
亀山も職員に腕を掴まれた。
だが、亀山の目は、白い虫から離れなかった。
「……虫?」
その声が、配信に拾われた。
『亀さんが虫って言った』
『元虫配信者』
『虫配信者が虫に助けられてる』
『いやそれどころじゃない』
『イモリ食われてる?』
『食ってるというか入り込んでる』
『怖い怖い怖い』
正面のカエル型が、大きく跳ねた。
銃声が集中する。
弾は当たる。
皮膚が裂ける。
だが、着地の衝撃で床の水が跳ね、隊列が一瞬乱れた。
山椒魚型が、その隙間へ胴体を滑り込ませる。
通路がさらに狭くなる。
白い虫は、後方だけに留まらなかった。
水路の縁に沿って、白い帯が走る。
開けた床を横切る時は遅い。
乾いた場所では、数が削れるように止まる。
だが、水のある場所、壁の隙間、ぬめった床の上では、一気に増えた。
そこが、奴らの道だった。
正面の自衛隊員が、白い帯に気づく。
「正面、足元に未確認群体!」
「撃つな! 対象を確認しろ!」
「敵性生物へ向かっています!」
虫群は、人間の足を避けた。
正確に避けているのか、熱や匂いを嫌っているのか、それは分からない。
ただ、倒れたカメラマンの靴の縁を回り込み、亀山の足元をかすめる寸前で流れを変えた。
そのまま水路側を伝って、カエル型へ向かう。
カエル型の厚い皮膚には、銃弾が作った浅い傷がいくつもあった。
白い虫は、そこへ群がった。
背中を破れない。
太い脚の表面を噛み砕けない。
だが、弾痕があった。
目があった。
鼻孔があった。
大きく膨らむ喉があった。
カエル型が、初めて後ずさった。
『カエル下がった』
『銃じゃ下がらなかったのに』
『白いのが傷口に入ってる』
『うわ』
『これ映していいやつ?』
『もう流れてるんだよなぁ』
『録画してる』
『消されるぞ』
山椒魚型が体をくねらせた。
白い虫は巨体の背中ではなく、腹側へ潜る。
脚の付け根に集まる。
口元に集まる。
ぬめる皮膚の上では滑り落ちるが、落ちた先からまた別の虫が這い上がる。
数が足りない場所では剥がされる。
だが、水路側からさらに白いものが流れ込んだ。
数で押している。
それだけだった。
大きな一撃はない。
爆発もない。
派手な光もない。
ただ、白い点が増え、線になり、帯になり、生き物の形を覆っていく。
銃弾を受けても前へ出ていたカエル型が、脚を折った。
山椒魚型の胴体が、水の中で暴れる。
水しぶきが上がり、画面が白く曇る。
自衛隊員たちは、撃たなかった。
撃てなかった。
人間を避けているように見える未確認群体が、敵性生物を制圧している。
そこへ銃弾を撃ち込めば、何が起きるか分からない。
現場指揮の声が飛ぶ。
「射撃停止。距離を取れ。非戦闘員を後方へ」
「後方確保」
「負傷確認」
「未確認群体、継続観察」
亀山は、半ば引きずられるように下がった。
息が上がっていた。
手袋の中で手が震えている。
それでも視線は、白い群れを追っていた。
イモリ型は、すでに動いていなかった。
カエル型も、喉を膨らませることができなくなっていた。
山椒魚型だけが最後まで体を捻っていたが、やがてその動きも鈍くなる。
白い虫群は、敵性生物の上でしばらく蠢いていた。
食っているのか。
調べているのか。
制圧しているのか。
亀山には分からなかった。
『終わった?』
『勝ったの?』
『虫が勝った?』
『亀さん何かした?』
『亀さんテイマー説』
『元虫配信者が虫を従えてる』
『虫使い覚醒』
『いや本人何もしてないだろ』
『でも亀さんの方だけ避けてなかった?』
『主認定された?』
『公式配信で能力覚醒は草』
『草じゃない怖い』
「違います」
亀山の声が、かすれて配信に入った。
「僕は、何もしてません」
コメント欄の勢いは止まらない。
だが、亀山は画面を見ていなかった。
白い虫群が、敵性生物から離れ始めていた。
敵を倒したから消える。
そういう動きではなかった。
まるで、終わったことを確認したように、まとまりを失わず、水路の縁へ戻っていく。
その途中で、群れの一部が止まった。
水路の縁。
濡れた床。
壁の低い位置。
そこに、白い虫が集まる。
小さな一匹一匹に目があるのかは分からない。
だが、群れ全体が、こちらを向いたように見えた。
亀山を見ていた。
自衛隊員が銃口をわずかに上げる。
安全管理職員が手で制した。
撃つな、という意味だった。
亀山は動けなかった。
見られている。
そう感じた。
水辺で、草むらで、ライトに集まる小さな虫を覗き込んだことは何度もある。
だが、覗き込まれる側になったことはなかった。
白い群れは、亀山へ近づかなかった。
襲わなかった。
ただ、観察していた。
数秒か。
十秒か。
その時間だけ、銃声も、コメント欄も、遠くなった。
『見てる』
『亀さん見られてる』
『完全に亀さん見てる』
『懐いた?』
『テイマーじゃん』
『違うって本人言ってる』
『これ虫の方が観察してない?』
『怖すぎ』
『なんで襲わないんだ』
『人間を識別してる?』
やがて、白い虫群は動いた。
亀山ではなく、水路の方へ。
濡れた隙間へ。
壁と床の継ぎ目へ。
そこへ流れ込むように、少しずつ消えていく。
最後の一匹まで、音はほとんどなかった。
後には、倒れた水棲型の敵性生物と、濡れた床と、白いものが這った跡だけが残った。
亀山は、ようやく息を吐いた。
喉が張り付くように乾いている。
「……助けられた、んですかね」
誰も、すぐには答えなかった。
現場指揮の声が、遅れて戻ってくる。
「負傷者確認。全員、後退。配信停止」
今度は、はっきりと指示が出た。
記録担当が、震える手で端末に触れる。
配信画面のコメント欄は、まだ流れ続けていた。
『切るな』
『いや切れ』
『亀さん無事?』
『虫どこ行った』
『今の何』
『亀山テイマー説』
『公式説明頼む』
『録画した』
『消される前に保存しろ』
『これ世界変わっただろ』
画面が暗転する直前、亀山の声だけが入った。
「僕じゃ、ないです」
配信は、そこで切れた。




