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第73話 効果の無い文明

 会議室の照明は落とされていた。壁一面のスクリーンに、配信映像の停止画面が映っている。濡れた床、灰色の壁、水路の縁。そこを白いものが帯のように流れている。その手前には、倒れたカメラマンの脚が映り込んでいた。画面の端には、流れ続けるコメント欄が残っている。


『亀さんテイマー説』

『公式説明頼む』

『これ世界変わっただろ』


 誰も笑わなかった。

 会議室に集まっているのは、自衛隊の現場指揮官、装備担当、教育訓練担当、内閣府異常空間対策室の職員、研究班、安全管理側の責任者たちだった。机の上には、紙の資料と、映像解析の静止画が並んでいる。資料の見出しには、こう書かれていた。


 水門第二層確認作業中に発生した敵性生物複数接触事案について。


 現場指揮を担当していた一等陸尉の三宅は、腕を組んだまま画面を見ていた。顔に疲れはある。だが、声は乱れていなかった。

「人的被害は、軽傷三名。うち一名は転倒による打撲、二名は退避時の擦過傷です。重傷者、行方不明者は出ていません」

 報告としては被害軽微。結果だけを見れば、そう書ける。しかし、会議室にいる者のほとんどが、その言葉を額面通りには受け取っていなかった。

「重傷者が出なかった理由は」

 上座に座る幕僚が問いかける。

 三宅は短く答えた。

「未確認群体の介入です」

 スクリーンの映像が動き出す。後方カメラの映像だった。濡れた壁から剥がれたイモリ型が、カメラマンへ向かって跳ぶ。後方警戒の隊員が銃口を向け、発砲する。弾は命中していた。肩口に穴が開き、ぬめった体液も飛んでいる。だが、イモリ型は止まらない。跳躍の角度がわずかに乱れただけで、なおカメラマンへ向かっていた。動きが変わったのは、白い虫群が脚に絡みついてからだった。

 映像が止まる。

「イモリ型については、小銃弾で損傷を与えられています」

 装備担当の幹部が資料をめくりながら言った。

「ただし、即時停止には至っていません。体格は一メートル級。大型とは言えませんが、壁面移動能力と隠密性が高い。発見が遅れた場合、後方の非戦闘員を守るには現在の隊列では余裕がありません」

 次の映像に切り替わる。正面のカエル型。二メートル級の体躯。灰緑色の湿った皮膚。複数の弾痕。浅く裂けた表面から、ぬめった体液が滲んでいる。それでも喉を膨らませ、前へ出てくる。

「カエル型は、命中後の行動低下が限定的です」

 研究班の鹿島が言った。

「弾丸は表皮と筋層の浅い部分で止まっているか、進入しても十分な深さに達していません。通常の動物を想定した停止効果とは別に考えるべきです。少なくとも、昨日のカマドウマ型とは構造が違う」

「大口径にすればどうか」

 別の幹部が言った。会議室の誰もが、一度は考えていた問いだった。

「有効な場面は増えると思われます」

 装備担当が答える。

「ただ、異常空間内での運用条件は悪い。狭所、水場、跳弾、視界不良、非戦闘員同行、内部構造物への影響。威力を上げたぶん、こちら側の危険も増えます」

 資料には候補装備が並んでいた。大口径火器、散弾、徹甲弾、榴弾、焼夷、電撃装備、粘着弾、捕獲網、展開式障害物。いずれも、現代側が用意できる回答だった。だが、どれも万能には見えなかった。

「焼夷は」

「水場での効果が読みづらく、煙と酸欠の危険があります。閉鎖空間では味方の視界も奪います」

「榴弾は」

「内部構造物の破壊リスクが大きい。壁や床が通常の構造物とは限らない以上、安易には使えません」

「電撃は」

「今回のような水場では、味方への影響を無視できません」

 文明の道具は、強い。その強さは誰も疑っていなかった。だが、持ち込めることと、使えることは同じではなかった。

「火力を上げれば止まる敵は増えます」

 三宅が口を開いた。

「ですが、次に出る敵が、火に強いのか、音に反応するのか、煙でこちらの動きを先に奪うのか、装備や照明を狙うのかは分かりません。今回の問題は、単に威力不足ではありません。敵性生物ごとの相性と、異常空間内での運用制限です」

 会議室に、低い沈黙が落ちた。

 鹿島が別の静止画を示す。白い虫群が、カエル型の弾痕へ集まっている場面だった。

「今回、もっとも有効だった制圧は、火力ではありませんでした」

 鹿島は言った。

「未確認群体は、厚い表皮を正面から破っていません。口、目、鼻孔、脚の付け根、弾痕、腹側。柔らかい部位や、すでに損傷した部位へ入り込んでいます。撃ち抜くのではなく、通る場所を選んでいる」

「虫の真似をしろ、と?」

 誰かが言った。皮肉に聞こえたが、鹿島は表情を変えなかった。

「極論すれば、そうです。止める、絡める、弱点へ通す。火力の前に、行動を奪う発想が要る」

 三宅は資料を見下ろした。銃撃が無意味だったわけではない。カエル型の皮膚には、確かに弾痕がある。その弾痕が、白い虫群の侵入口になっている。人間の作った弾丸は、そこまで届いた。ただ、それだけでは足りなかった。

「現在の小銃を主軸から外すことはできません」

 三宅は言った。

「しかし、小銃を中心にした通常の警戒・射撃班のままでは、次の同種事案に対応できません」

 幕僚が視線を向ける。

「現場としては、何を変える」

 三宅は少しだけ息を吐いた。用意していた答えだけでは足りない。水門で見たものを、まだ頭の中で整理している途中だった。それでも、言葉にしなければならなかった。

「異常空間用の班編成を作るべきです」

 会議室の空気が動いた。

「具体的には」

「斥候、防護、制圧、衛生、記録通信。最低でも、この役割を明確に分ける必要があります」

 装備担当が眉を動かした。

「防護、というのは」

「現場の感覚で言えば、盾役です」

 その言葉に、何人かが顔をしかめた。無理もなかった。自衛隊を剣と盾の集団に変える、という話に聞こえる。だが、三宅は続けた。

「中世の盾を持ち込むという意味ではありません。突進、跳躍、体当たりに対して、隊列を崩さず時間を稼ぐ装備と人員が必要です。防弾盾の延長では足りない。展開式の防護板、携行バリケード、ワイヤー固定具、突進受け用の固定具。現代装備として設計する余地はあります。ただ、役割としては盾です」

 安全管理側の責任者が頷いた。

「非戦闘員同行時には特に必要です。今回、亀山氏、記録担当、カメラマンが隊列内にいました。広報や記録の都合で完全排除は難しいにしても、守る役割が射撃手の片手間では足りません」

「非戦闘員同行そのものをやめるべきでは」

 別の幹部が言った。

 内閣府異常空間対策室の村瀬が、資料に目を落としたまま答える。

「制限は必要です。ただし、完全に排除することは現実的ではありません。記録、研究、広報、社会的理解。異常空間に関する情報をすべて秘匿すれば、未確認情報がかえって強く不満を生む可能性があります」

「今回の配信事故で、すでに不安と不満が蔓延してますが」

「はい」

 村瀬は否定しなかった。

「だからこそ、運用を変える必要があります。生配信の遅延化、強制遮断権限の明確化、後方記録担当の独立、カメラマン護衛の配置。現場指揮が戦闘判断と配信停止を同時に背負う形は避けるべきです」

 三宅は頷いた。

「斥候役も必要です」

 スクリーンに、イモリ型の静止画が映る。濡れた壁と同じ色の皮膚。丸い目だけが照明を反射している。

「銃が通じるかどうか以前に、見つけられなければ対応できません。床だけでなく、壁、天井、水路、背後。人間の警戒感覚を、異常空間向けに作り直す必要があります」

「センサー類は」

「使います。ただ、機械だけでは足りません」

 三宅は答えた。

「水音が変わった。虫の気配がない。壁面が濡れている。床の影が深い。今回、亀山氏が違和感を口にした後、接敵しています。生物観察者の勘に頼るという意味ではありませんが、異常空間では人間が拾う違和感も軽視できません」

 教育訓練担当がペンを走らせる。

「斥候要員には、通常の索敵に加えて、地形、生物、環境変化の記録訓練を入れる必要がある」

「前に出る人間ではなく、変化を見つけて戻れる人間です」

 戻れる人間。その言葉は、民間調査員講習だけのものではなくなりつつあった。

「制圧役はどうする」

 幕僚が問う。

「撃破より、行動停止を優先します」

 三宅は言った。

「敵種別ごとの有効部位を記録し、脚部、目、口腔、関節、呼吸器官らしき部位を狙う手順を作る。銃撃だけでなく、粘着弾、拘束網、ワイヤー、展開障害物を併用する。倒すより先に止める。その発想へ切り替えます」

 そこまで言って、三宅は一枚の資料を手元に寄せた。少し間を置く。会議室の視線が集まった。

「もう一つ、試験導入を提案します」

「何だ」

「刀剣類です」

 一瞬、空気が止まった。

「……刀剣?」

 装備担当が眉をひそめる。

「はい。近接武器です。斬撃、刺突による直接的な弱点攻撃を想定します」

「冗談ではないな」

「冗談ではありません」

 三宅は即答した。

「今回の敵性生物は、表皮が弾性に富み、弾丸が浅く止まりました。一方で、柔らかい部位や関節部は明確に存在する。そこへ“通す”手段として、刃物は理にかなっています」

「だが接近戦になる」

「はい。しかし、異常空間内では通常環境と同じ前提で接近戦を判断できません」

 三宅は別の資料を示した。表には、複数の調査記録と身体反応の比較が並んでいる。

「異常空間内での運動能力上昇についてです。現場報告、民間調査員の記録、複数の証言から、筋力、反応速度、持久力の向上が確認されています。個人差はありますが、無視できる範囲ではありません」

 教育訓練担当が顔を上げた。

「通常環境では成立しない近接戦闘が、異常空間内では成立する可能性がある、ということか」

「はい」

 三宅は頷く。

「民間調査員は、すでにそれを利用しています。槍、ナイフ、山刀、即席武器。彼らは銃火器ではなく、“通す”戦い方を選んでいる」

 村瀬が静かに言った。

「このままだと」

 三宅は、その先を引き取った。

「異常空間内での治安維持能力を、民間調査員が自衛隊より先に獲得する可能性があります」

 重い言葉だった。誰もすぐには否定できなかった。

 自衛隊の強みは、組織力、火力、通信、補給、規律だった。だが、異常空間の中では、そのすべてが弱まる。通信は不安定になり、補給は入口に縛られ、火力は構造物と敵種別に制限される。一方で、異常空間内で身体能力を伸ばし、近接戦闘を経験している民間調査員が増えていく。それを、単なる制度上の協力者としてだけ見るのは危うかった。

「刀剣を正式装備にするつもりか」

「いいえ」

 三宅は首を振った。

「まずは実験試用です。限定班での運用、記録、評価。適性のある隊員の選抜と訓練。盾役との連携を前提にし、単独突入はさせません。あくまで制圧手段の一つです」

 装備担当が腕を組む。

「安全性は」

「最初から実戦投入はしません。模擬区画、低危険度区域、回収済み検体を使った有効性確認。段階を踏みます」

 鹿島が口を開いた。

「理屈としては通っています。弾が表皮で止まるなら、別の角度から通す手段を考える。単純ですが、合理的です。ただし、刃物の材質や形状も通常のものでは足りない可能性があります。異常空間由来の素材との比較も必要になるでしょう」

「そこまで行くと、装備開発の話になる」

 装備担当が言った。

「はい」

 鹿島は頷いた。

「もう、そういう段階だと思います」

 会議室の空気が重くなる。文明を持ち込めば勝てる。銃を持ち込めば制圧できる。現代の軍事力なら、二層程度は問題ない。そういう言葉が、配信事故のあとにいくつも流れていた。だが、現場にいた者たちは知っている。銃声は響いていた。弾は当たっていた。それでも、敵は止まらなかった。

「文明が役に立たないな」

 誰かが小さく呟いた。

 その言葉だけが、会議室に残った。誰もすぐには返さなかった。

 やがて鹿島が言った。

「役に立たないのではなく、効き方が変わるのだと思います。銃も薬も測定器も無意味ではありません。ただ、こちらが想定していた使い方のままでは通らない」

 村瀬が続ける。

「我々は、文明を持ち込んでいるつもりでした。ですが、異常空間側は、その文明の前提を守ってくれない。壁は壁とは限らない。低危険度は安全とは限らない。弾が当たれば止まるとも限らない」

 三宅は、スクリーンに映る白い群れを見た。文明の外にいるようなものが、文明の武器で止めきれなかった敵を止めた。その映像は、会議室にいる者たち全員にとって、不快なほど分かりやすかった。

「だから、人間を変えるしかありません」

 三宅は言った。

「装備の更新は必要です。ただ、それだけでは追いつかない。異常空間内で判断できる隊員を育てる必要があります。斥候が変化を拾い、防護役が時間を稼ぎ、制圧役が有効部位を狙い、衛生役が負傷者を戻し、記録通信役が外部と繋ぐ。今の班を、その形へ近づけます」

「衛生役を独立させる理由は」

 幕僚が問う。

「負傷処置だけではありません」

 三宅は答えた。

「撤退判断、負傷者の移動、ポーションを含む異常空間由来物品の管理、精神的なパニック対応。今回のように退路を断たれた時、誰をどの順で下げるか。戦闘の片手間では足りません」

 鹿島が付け加える。

「ポーション類についても、今後は現場運用の議論が避けられません。効果が強すぎる。だからこそ、誰が判断し、誰に使用し、何を記録するかを決めておく必要があります」

 装備担当が、資料の最後のページを開いた。そこには、新しい班編成案が仮称で書かれている。


 異常空間適応班。


 斥候。

 防護。

 制圧。

 衛生。

 記録通信。


 まだ粗い。人員も足りない。装備も試作段階ですらない。だが、何を変えるべきかは見え始めていた。

「名称は後で変えます」

 装備担当が言った。

「このままでは通りません」

 何人かが小さく息を吐いた。笑いではない。だが、会議室にわずかな余白が戻った。

 村瀬が、別の資料を開いた。そこには、白い虫群の画像が並んでいる。

「未確認群体についても、扱いを決める必要があります。ネット上では、すでに“ホワイトスウォーム”という呼称が広がっています」

「公式名称にはしない」

 幕僚が即座に言った。

「現時点では、未分類群体とします」

 村瀬は頷いた。

「敵性生物を制圧した。人間を避けた。亀山氏を観察した。これらは映像上確認できます。ただし、味方と判断する根拠はありません」

「攻撃対象にするか」

 安全管理側の責任者が問う。

 三宅は、すぐには答えなかった。映像の中の白い群れは、人間を避けていた。だが、それは味方という意味ではない。命令を聞いたわけではない。助けを求めて応じたわけでもない。ただ現れ、敵性生物を呑み込み、亀山を見て、消えた。

「現場判断では、攻撃しない方針で助かりました」

 三宅は言った。

「ですが、接触も接近も避けるべきです。次に同じように動く保証はありません」

 村瀬が資料に書き込む。

「未分類群体。接触禁止。刺激禁止。出現時は退避優先、可能な範囲で記録。人員保護を最優先」

 幕僚が静かに頷いた。

「白い群れを戦力として数えるな」

 その一言で、会議室の空気が締まった。誰かが助けてくれる。未知のものが味方してくれる。そんな希望を、運用計画に入れてはいけない。

 水門の現場では、白い群れが現れた。次も現れるとは限らない。現れたとして、同じ対象を攻撃するとも限らない。亀山を見た理由も分からない。

「次の同種事案では、あれが来ない前提で考えます」

 三宅が言った。

「その上で、今回の敵性生物三種に対処できる班を作ります」

 幕僚は、資料を閉じた。

「いつから始められる」

 教育訓練担当が答える。

「基礎訓練の改訂だけなら、すぐに着手できます。斥候と後方警戒、非戦闘員退避、敵種別記録。装備がなくても変えられる部分はあります」

 装備担当が続ける。

「防護装備と拘束具は試作案を出します。既存品の転用で済むものと、新規設計が必要なものを分けます。刀剣類についても、実験試用案として別紙を作成します」

 村瀬も資料を整えた。

「内閣府側では、民間調査員制度との接続を見ます。自衛隊だけを育てても、現場には研究員、記録員、民間協力者が入る。彼らをどう下げるか、誰が守るかを合わせて考える必要があります」

 会議は終わりに向かっていた。だが、誰の顔にも解決したという色はなかった。問題の形が分かっただけだ。答えは、これから作るしかない。

 退出前、三宅はもう一度だけスクリーンを見た。停止画面には、カエル型の厚い皮膚に残った弾痕と、その傷へ入り込む白い虫群が映っている。

 人間が作った弾丸は、そこまで届いた。だが、止めきれなかった。白い群れは、その先へ入っていった。

 文明が無意味だったわけではない。ただ、十分ではなかった。

 三宅は、資料を脇に抱えた。次に入る時、同じ班では戻れない。それだけは、もう分かっていた。


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