第71話 完全攻略配信
亀山の配信画面には、いつもの水辺の草むらや小さな生き物は映っていなかった。
映っているのは、灰色の壁と、濡れた床と、等間隔に取り付けられた仮設照明だった。
画面右上には、普段の配信では見ない白い文字が表示されている。
【公式同行配信/異常空間第二層確認作業】
コメント欄は、開始前から流れ続けていた。
『きた』
『完全攻略配信』
『昨日のカマドウマやばかった』
『自衛隊つよすぎ』
『亀さん生きてる?』
『今日も公式?』
『第二層ってもう普通に攻略してるじゃん』
『銃でいけるなら安心感ある』
亀山は画面の端で、いつもの帽子を軽く押さえた。
胸元には、公式記録協力者の表示が付いている。
その隣には、配信画面にはほとんど映らない位置で、記録担当の職員と警備担当者が控えていた。
「はい、亀山です。今日は、昨日に続いて異常空間第二層の確認作業に同行しています。今回の配信は、関係機関の許可を得た公式同行配信です。場所が特定できる情報、未確認の構造、指示のあった映像については映せません」
そこで亀山は、手元の紙に視線を落とした。
「それと、敵性生物が出た場合、必ず配信を切るわけではありません。ただし、現場指揮から停止指示があった場合は、その時点で配信を停止します」
『敵出ても映るのか』
『完全攻略配信っぽい』
『指示があった場合だけ停止ね』
『そりゃ敵出るたび切ってたら何も見えん』
『安全第一で頼む』
亀山はコメントを確認して、頷いた。
「はい。安全第一です。僕は戦闘要員ではないので、指示があればすぐ下がります」
昨日、この第二層の奥で、ボス個体とされた大型の敵性生物が討伐された。
全長は二メートル近く。
外見は巨大なカマドウマに近く、異様に発達した後脚で壁や天井を跳び回った。
映像の一部はすでに短く公開され、切り抜きだけでも十分に視聴者の記憶に残っている。
鋭い脚が床を叩く音。
跳躍のたびにぶれる照明。
自衛隊員の短い指示。
そして、複数方向からの射撃で動きを削られ、最後は脚部を破壊されて制圧される場面。
配信後、ネット上では「二層までは銃火器でいける」という言葉が急速に広がった。
『カマドウマ、まだ夢に出る』
『昨日のやつ銃で止まってたよな』
『二層までは火器で安定?』
『自衛隊がいればだろ』
『民間人が真似するな定期』
『脚撃って止めるのプロだった』
『あれで二層ボスなら三層どうなるんだ』
亀山は歩きながら、コメントを拾う。
「昨日の個体については、現場の方からも、銃火器が有効だったと説明を受けています。ただ、これは“第二層の全ての敵に銃火器が有効”という意味ではありません。そこは注意してください」
画面の外で、自衛隊員の一人がわずかに頷いた。
亀山はそれを見てから続ける。
「昨日のカマドウマ型は、脚部への射撃がかなり効いていました。動きが速かったので簡単ではなかったと思いますが、構造としては止められる相手だった、ということですね」
『構造としては止められる相手』
『言い方が怖い』
『脚が弱点だったのか』
『じゃあ皮膚硬いタイプは?』
『フラグやめろ』
亀山は小さく苦笑した。
「フラグではないです。ただ、敵性生物と一括りにしても、全部が同じ作りをしているわけではない、という話です」
隊列は、第二層の広い通路を進んでいた。
先頭に自衛隊員二名。
その後ろに安全管理職員。
少し離れて亀山と記録担当。
さらに後方に、別の自衛隊員とカメラマンが続く。
完全攻略配信と呼ばれてはいるが、亀山自身が攻略するわけではない。
彼の役割は、公式が許可した範囲で現場を記録し、視聴者に伝えることだった。
第二層は、第一層よりも明らかに人工物に近かった。
壁は石でもコンクリートでもない灰色で、濡れているように見えるのに、触れても水が付かない部分がある。
昨日ボス個体がいた広間には、すでに目印のテープが張られていた。
床には擦過痕がいくつも残り、照明の下に黒ずんだ体液の跡が薄く広がっている。
「ここが、昨日の戦闘地点ですね」
亀山が言うと、コメント欄が一気に流れた。
『うわ』
『跡残ってる』
『ここで跳んでたのか』
『現場感すごい』
『思ったより広い』
『血?体液?』
『床えぐれてる』
亀山は不用意に近づかず、立ち位置の範囲でカメラを動かした。
「この辺りは、すでに安全確認済みの範囲です。ただし、勝手に触ったり採取したりすることはできません」
職員が横から短く付け加える。
「採取物は全量申告対象です」
『定期』
『全量申告』
『勝手に拾うな』
『床の欠片も駄目そう』
亀山はコメントを見て、少し笑った。
「駄目そうではなく、駄目です」
広間の奥には、低い水音があった。
昨日の配信では、そこまで進んでいない。
ボス個体の制圧と回収、負傷確認、撤収で終わったからだ。
今日はその先、第二層奥部の確認作業だった。
通路は少しずつ下っている。
床の濡れ方が変わり、壁の下部に黒っぽい筋が増えた。
仮設照明に照らされるたび、細い水の流れが光る。
「水の音が近いですね」
亀山が言うと、安全管理職員が手元の端末を確認した。
「昨日の記録より、水音が大きいです」
「水量が増えている、ということですか」
「断定はできません。記録との差異として残します」
『差異として残します』
『役所語』
『水量増えてるの怖い』
『昨日より変わってる?』
『ボス倒したから変化したとか?』
『またフラグ』
亀山は、足元の水筋を映した。
濁った水ではない。
むしろ、妙に透明だった。
だが、流れの底が見えない。
浅いはずなのに、影だけが深く見えた。
しばらく進むと、通路の幅が広がった。
左側に低い水路。
右側に壁。
正面には、半分ほど水に沈んだ広い空間がある。
天井は低く、湿った空気が顔にまとわりついた。
亀山の声が、少しだけ小さくなる。
「ここ、昨日のマップには入っていなかった場所ですか」
職員が頷く。
「昨日は未確認です。ボス個体の奥側にあったため、今日の確認範囲に入っています」
『新エリアきた』
『水辺だ』
『亀さん向き』
『水棲モンスター出そう』
『やめろ』
『いや出るだろこれ』
亀山はコメントを見ながらも、軽口を返さなかった。
水辺の気配には慣れている。
だが、ここには普通の水辺にあるものが足りなかった。
虫の羽音がない。
小さな水音のばらつきがない。
流れの端にいるはずの、小さな生き物の気配がない。
水はある。
湿度もある。
なのに、そこに棲むものの気配だけが妙に抜け落ちている。
「少し、静かすぎますね」
亀山が呟く。
先頭の自衛隊員が、すぐに手を上げた。
隊列が止まる。
コメント欄も、少し遅れて空気を変えた。
『え』
『止まった』
『何かいる?』
『静かすぎるって何』
『亀さんの水辺センサー』
『笑えない』
安全管理職員が配信端末の横に来る。
「亀山さん、音声を拾います。カメラはそのまま、指示があるまで前方に寄せないでください」
「分かりました」
亀山は答え、足を止めた。
画面には、水路の端と、灰色の床と、先頭隊員の背中だけが映っている。
数秒。
何も起きない。
水音だけが続く。
その水音の奥で、泡が弾けるような音がした。
先頭の隊員が、銃口をわずかに下げる。
水面が揺れた。
小さな波ではない。
何か大きなものが、浅い水の下で向きを変えた時の動きだった。
『今揺れた』
『水面』
『何かいる』
『映して』
『映すな』
『隊員さん構えた』
『これ指示出るやつ?』
「配信停止指示は」
記録担当が小声で確認する。
安全管理職員は、前方を見たまま答えた。
「まだ出ていません。画角維持」
亀山は息を殺した。
自分が撮っているのは、戦闘ではない。
だが、配信は続いている。
画面の向こうで何万人もの視聴者が、同じ水音を聞いている。
水面が、もう一度盛り上がった。
ぬめるような音。
濡れたものが床に乗る音。
仮設照明の端に、丸い影が映る。
それは、カエルに似ていた。
ただし、亀山の知っているどのカエルよりも大きい。
背中までの高さだけで、大人の腰を超えている。
折り畳まれた後脚は太く、湿った皮膚には灰色と緑の斑が浮かんでいた。
喉が、ゆっくり膨らむ。
『でか』
『カエル?』
『二メートルくらいない?』
『無理無理無理』
『昨日のカマドウマより怖い』
『銃いける?』
先頭の隊員が短く言った。
「接敵。大型一」
次の瞬間、別の水音が響いた。
カエル型の後ろ、さらに広い水場の奥で、長い胴体が動く。
ぬめる皮膚。
太い尾。
低く這うような姿勢。
山椒魚に似た巨大なものが、半身を水から出した。
カエル型よりもさらに大きい。
全長は三メートル近い。
動きは遅い。
だが、そこにいるだけで通路の奥を塞いでいた。
「大型二。奥に一」
自衛隊員の声は落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、亀山の背筋が冷えた。
「後退準備」
現場指揮の声が飛ぶ。
亀山は一歩下がろうとした。
その時、後方でカメラマンが小さく息を呑んだ。
亀山は振り返りかけたが、職員に肩を押さえられる。
「前を見ないでください。指示に従って後退」
だが、後方カメラの映像が配信に切り替わった。
意図した切り替えではない。
機材を持ったカメラマンが、反射的に背後へ向けてしまったのだろう。
画面に、濡れた壁が映る。
そこに、薄い影が張り付いていた。
一メートルほどの、細長いもの。
イモリに似た体。
濡れた壁とほとんど同じ色の皮膚。
丸い目だけが、照明を受けて光っている。
『後ろ』
『後ろ後ろ後ろ』
『なんかいる』
『イモリ?』
『壁にいる』
『退路切られてる』
『カメラさん逃げて』
その影が、壁から剥がれた。
「後方、敵性一!」
銃声が響いた。
同時に、正面のカエル型が喉を膨らませ、床を叩くように一歩前へ出た。
山椒魚型も、水を押し分けて動き出す。
通路の正面と背後。
退路と前進路。
その両方が、同時に塞がれた。
「配信停止、指示を――」
記録担当の声が、銃声にかき消される。
画面が大きく揺れた。
コメント欄が、白い文字で埋まっていく。
『止めろ』
『逃げろ』
『これ配信してる場合じゃない』
『銃声』
『後ろも前もいる』
『これやばい』
『カメラ切れてない』
『亀さん逃げて』
亀山は下がろうとした。
だが、後ろにはイモリ型。
前にはカエル型と山椒魚型。
自衛隊員の銃声が、低い水音と混ざって響いている。
弾は当たっていた。
カエル型の皮膚が裂け、ぬめった体液が飛ぶ。
だが、止まらない。
弾丸は深く入らず、湿った厚い皮膚の表面で潰されるように動きを失っている。
昨日のカマドウマとは違う。
そのことを、誰もが同時に理解した。
第二層だから通じる。
銃火器なら止められる。
配信の中で広がり始めていた認識が、濡れた床の上で音を立てて崩れかけていた。
正面のカエル型が、さらに一歩前へ出た。
背後のイモリ型が、カメラマンへ向かって跳ぶ。
その瞬間、画面は大きく傾いた。




