第70話 戻れる人間
講習会場に集まっていたのは、二十代から五十代まで、年齢も服装もばらばらの男女だった。
場所は県内に設けられた異常空間民間調査員制度の仮登録講習所。
元々は企業研修用の施設だったらしく、白い壁、長机、パイプ椅子、前方のスクリーンはどこにでもある会議室のそれだった。
だが、受付で渡された腕章と、壁際に立つ警備員、廊下の奥に見える金属製の扉が、ここが普通の講習会ではないことを示していた。
「五級なら、まあ取れるだろ」
前の席に座っていた若い男が、小声で隣に言った。
「低危険度区域だろ? 初心者用ってことじゃないの」
「配信できたら一気に伸びるんだけどな」
「さすがに最初は無理じゃね」
「でも実績作ればいけるって。魔石とか出たら勝ちだろ」
似たような会話は、あちこちで起きていた。
声を潜めてはいるが、熱は隠せていない。
不安より期待。
警戒より好奇心。
危険を聞かされてなお、ここに来た人間たちだった。
やがて、前方の扉が開いた。
入ってきたのは、灰色の作業服を着た男だった。年齢は四十代半ばほど。体格は大柄ではないが、歩き方に無駄がなかった。
男は教卓の前に立ち、集まった受講者を一通り見渡した。
「本日の講習を担当する、安全管理班の榎本です」
声は大きくない。
だが、会場のざわめきは自然に止まった。
「最初に確認します。ここにいる皆さんは、異常空間民間調査員制度への仮登録を希望している方々です。ですが、今日ここに来たことで、登録が約束されるわけではありません」
何人かが姿勢を正した。
何人かは、まだ余裕のある顔をしていた。
「五級は、自由に異常空間へ入る資格ではありません。管理下での短時間調査、記録、採取、報告に協力するための区分です。敵性生物と戦う能力を証明するものでも、奥へ進む権利でもありません」
前の若い男が、わずかに口を尖らせた。
榎本はそれに気づいているのかいないのか、表情を変えずに続ける。
「今日、こちらが見るのは、皆さんがどれだけ進めるかではありません」
スクリーンに一枚の文字が映る。
戻れるか。
「戻れと言われた時に戻れるか。それを見ます」
会場の空気が、少しだけ変わった。
想像していた講習と違ったのだろう。
もっと装備の説明があり、もっと敵性生物の話があり、もっと実戦的な内容が始まると思っていた者も多いはずだった。
受講者の一人が手を上げた。
三十代くらいの、筋肉質な男だった。
「すみません。撤退命令を聞けるかが大事なのは分かるんですが、それって要するに、指示に従えるかどうかってことですか」
「半分はそうです」
榎本は即答した。
「半分?」
「はい。今の制度では、皆さんは管理下で活動します。外部に職員がいて、通信があり、記録があります。その状態で撤退指示に従えない人間は、当然不適格です」
そこで榎本は、少しだけ間を置いた。
「ですが、それだけではありません」
スクリーンの文字が切り替わる。
誰も止めてくれない時に、戻れるか。
「今後、制度が今のまま維持されるとは限りません。異常空間の発見数、未確認入口、海外事例、外部展開リスク。状況によっては、経験のある登録者に、より広い範囲で確認や巡回を任せる必要が出る可能性があります」
会場の何人かが顔を上げた。
自由に潜れるようになる。
そう受け取った者がいたのは、表情を見れば分かった。
榎本は、その反応を先回りするように言った。
「勘違いしないでください。自由探索を認めるという話ではありません」
小さく笑いかけた者の顔から、笑みが消えた。
「ですが、職員が常に横にいるとは限らない。通信が常に繋がるとは限らない。入口付近の確認を任された先で、想定外の変化に遭遇する可能性もある。そういう状況が、将来的に絶対にないとは言えません」
榎本は受講者たちを見た。
「その時に必要なのは、命令がなければ止まれない人間ではありません」
「自分の中に、撤退命令を持てる人間です」
会場は静かだった。
外を走る車の音だけが、わずかに聞こえた。
「これから、簡易訓練区画に移動します」
榎本の言葉で、受講者たちは隣接する棟へ移動した。
金属製の扉の先は、先ほどまでの会議室とは別の空気だった。
壁も床も灰色で、照明は少し暗い。
施設内に作られた模擬区画と説明されたが、入り口に立っただけで、何人かが無意識に声を落とした。
通路は一本道だった。
幅は人が二人並べる程度。奥は暗く、距離感が掴みにくい。
壁には吸音材が使われているらしく、足音が妙に響かなかった。
「この区画は、本物の異常空間ではありません」
榎本が説明する。
「ただし、実際の報告をもとに、不快感、距離感のずれ、音の消え方、視線誘導を再現しています。気分が悪くなった方は、その時点で申告してください」
前方に、淡い光が見えた。
通路の奥。
床の上に、小さな青白いものが置かれている。
「奥に何かあるな」
誰かが呟いた。
「魔石っぽくね?」
「模擬品だろ」
「でも、ああいうの実際にあるんだよな」
榎本は何も言わず、受講者を五人ずつに分けた。
最初の班が通路へ入る。
外から見ている分には、ただ暗い廊下を歩いているだけだった。
だが、入った者たちの足取りはすぐに鈍くなった。
音が吸われる。
壁が近い。
奥の光だけが、妙にはっきり見える。
「そのまま十メートル進んでください」
榎本の声が、スピーカーから聞こえる。
班員たちは進む。
青白い光が、少しずつ近づく。
「停止」
全員が止まった。
「ここで撤退してください」
あまりにもあっさりした指示だった。
受講者たちは一瞬、顔を見合わせた。
光は目の前ではない。だが、遠すぎるわけでもない。
あと十歩。
いや、十五歩。
それくらいで届きそうに見えた。
「撤退してください」
榎本の声がもう一度響く。
一人目はすぐに振り返った。
二人目も続いた。
三人目は数秒遅れて戻り始めた。
四人目の若い男だけが、足を動かさなかった。
「すみません、確認だけでも駄目ですか」
スピーカー越しに声が拾われた。
廊下の外で待っている受講者たちの空気が揺れる。
「撤退してください」
「いや、でも、あれが何か分からないと、記録にならないですよね」
男は悪びれている様子ではなかった。
むしろ、正しいことを言っているつもりの顔だった。
「記録のために確認を続けたい、ということですか」
「はい。ここで戻ったら、何も分からないので」
榎本は、通路の外から男を見ていた。
表情は変わらない。
「その場で待機」
「え?」
「待機です」
すぐに補助員が通路へ入り、若い男を外へ誘導した。
男は納得していない顔で戻ってくる。
「今の、駄目なんですか」
「駄目です」
榎本は短く答えた。
「でも、調査って、確認するために行くんじゃないんですか」
「はい」
「なら、あそこで戻ったら意味ないじゃないですか」
榎本は男の正面に立った。
「あなたは今、命令を破ったのではありません」
「いや、破ってはないですよ。まだ行ってないですし」
「そうです。だから、命令違反としては扱いません」
男の顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「ですが、不適格です」
空気が止まった。
「理由は、目の前に価値がありそうなものが見えた時、撤退の理由を自分で壊したからです」
男は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
「あなたは今、“確認しないと意味がない”と言いました。これは一見、調査員らしい言葉です。ですが、異常空間では非常に危険です」
榎本は、通路の奥に置かれた光を見た。
「あれが本物だった場合、近づくことで敵性生物を起こすかもしれない。床が変化するかもしれない。帰路が伸びるかもしれない。見たこと自体が条件になるかもしれない。こちらは、まだ安全確認を終えていません」
「でも、模擬訓練ですよね」
「模擬訓練でできないことは、本番でもできません」
男は黙った。
「もう少しで分かりそう。あと少しで届きそう。ここで戻ったらもったいない。異常空間は、そう思わせる場所かもしれません」
榎本の声は、会場全体に届いていた。
「だから訓練します。誰かに止められた時に戻る訓練ではありません。誰も止めてくれない時に、同じ判断ができるようにするための訓練です」
受講者たちの何人かが、通路の奥を見た。
青白い光は、まだそこにある。
ただ置かれているだけの模擬品だと分かっていても、目は吸い寄せられた。
「今は私が戻れと言います。ですが、将来あなた方が、職員のいない場所で入口を見つけるかもしれない。通信が途切れた状態で、奥に何かを見つけるかもしれない。報酬になりそうなもの、価値がありそうなもの、誰もまだ見ていないものが見えるかもしれない」
榎本は言った。
「その時、あなたを止めるのは、あなたしかいません」
誰も喋らなかった。
「五級で求めるのは、奥まで進める人間ではありません。戻って報告できる人間です。将来的に制度が緩和され、より自律的な調査が必要になったとしても、それは変わりません」
「自由に近い状況で動く人間ほど、戻れる能力が必要になります」
若い男は、視線を落とした。
悔しそうではあった。
だが、反論はしなかった。
次の班が呼ばれた。
同じ通路。
同じ光。
同じ指示。
「停止」
「ここで撤退してください」
今度は全員が戻った。
だが、一人の女性だけが、戻りながら何度も奥を振り返った。
外に出たところで、榎本が声をかける。
「振り返った理由は」
「気になりました」
「進みたいと思いましたか」
「思いました」
女性は正直に答えた。
「ですが、戻りました」
「はい」
榎本は頷いた。
「それで構いません。見たいと思うことは不適格ではありません。怖いと思うことも、不適格ではありません。大事なのは、その感情を理由にして行動を変えないことです」
女性は小さく息を吐いた。
「好奇心は必要です。恐怖も必要です。欲も、完全にない人間はいません。問題は、それらを自分で扱えるかどうかです」
榎本は全員に向き直った。
「異常空間に向いていないのは、弱い人間ではありません」
「自分だけは判断を間違えないと思っている人間です」
訓練はその後も続いた。
奥の光は、班ごとに色や位置を変えた。
時には小さな金属音が鳴り、時には通路の奥から空気が動いたような感覚がした。
どれも模擬だった。
だが、模擬だと分かっていても、人は足を止め、目を奪われ、戻るのを惜しんだ。
最後の説明で、榎本はスクリーンに一枚の図を映した。
入口、観測班、調査員、帰還報告。
その線の先に、赤字でこう書かれていた。
帰還しない情報は、情報ではない。
「死んで持ち帰れなかった発見は、制度上、存在しないのと同じです」
榎本は言った。
「行方不明になった人間を探すために、さらに人員が入ります。入口封鎖は遅れます。次の調査計画は崩れます。敵性生物を入口側に寄せる可能性もあります。あなた一人の判断は、あなた一人で終わりません」
誰も、最初のような軽口は叩かなかった。
「それでも、異常空間に関わりたい人は残ってください。今日、不適格とされた方にも、再講習の機会はあります。ただし、ここで求められるものを理解できない方は、登録には進めません」
講習終了後、何人かはそのまま帰った。
何人かは受付で再講習の日程を確認していた。
若い男も、しばらく迷った末に、再講習の用紙を受け取った。
出口へ向かう受講者たちの背中を見送りながら、補助員の一人が小さく言った。
「厳しすぎますかね」
榎本は、模擬通路の奥に残された青白い光を見ていた。
「今のうちに戻れない人間は、緩和された後では戻れません」
補助員は黙った。
「自由を与えるための訓練です。だから最初に、自由に負ける人間を見なければならない」
通路の照明が落とされる。
青白い光も消えた。
「探索の基礎を作るのは今しかない。遠回りでもだ」
何もなくなった奥を、榎本はしばらく見ていた。




