第68話 先生方へのお願い
最初に思ったのは、冗談にしては金が掛かりすぎている、だった。
内閣府の建物に入り、受付で身分証を出し、スマートフォンを預け、持ち物検査を受ける。案内の職員は丁寧だったが、笑顔はない。通された廊下は妙に静かで、壁も床もきれいなのに、どこか病院の検査室へ向かう時のような落ち着かなさがあった。
三枝久人は、首から下げた来庁者証を見下ろした。
肩書きは、小説家。
主な執筆ジャンルは、現代ダンジョン、異世界迷宮、探索者もの。
封筒に入っていた案内状には、こう書かれていた。
異常空間に関する創作分野有識者意見聴取会。
有識者。
その3文字を見た時点で、三枝はしばらく笑っていた。二十年近く、魔物と罠と宝箱と回復薬と、都合よく強くなる主人公を書いてきた。まさか国から有識者扱いされるとは思っていなかった。
会議室には、すでに何人かが座っていた。
顔を知っている者もいる。ダンジョンものの古参作家。迷宮攻略漫画の原作者。ゲームシナリオライター。ダンジョン管理ものを書いている若手のWeb作家。探索配信ものを当てた作家。誰もがジャンルとしては近い。
逆に言えば、近すぎた。
この顔ぶれを見た時点で、ただの文化事業や広報協力ではないと分かる。
「三枝先生、こちらへ」
案内役に促され、三枝は指定された席に座った。
机の上には、名札と封筒が置かれている。封筒には、複写禁止、撮影禁止、持出禁止、と赤い文字で印字されていた。
隣に座っていた若い作家が、封筒を見つめたまま小声で言う。
「これ、導入としてはかなり良くないですか」
「分かるけど、声に出すのはやめましょう」
三枝も小声で返した。
向かい側にいたゲームシナリオライターが、少しだけ口元を緩める。
「でも、正直、わくわくしてます」
その一言に、何人かがうなずいた。
無理もない。
現実にダンジョンが現れた。
その時点で、この場にいる人間の大半は、一度は胸の奥を押さえたはずだ。危険だと分かっていても、怖いと分かっていても、それでも見てみたいと思ってしまったはずだ。
ただ、それを大声で言っていい場所ではなかった。
数分後、前方の扉が開き、背広姿の職員たちが入ってきた。中央に立った中年の男が、一礼する。
「本日は急なお願いにもかかわらず、お集まりいただきありがとうございます。内閣府異常空間対策室の村瀬と申します」
部屋の空気が少し締まった。
「先に申し上げます。本日の内容には、現時点で公開されていない情報が含まれます。お手元の資料は会議終了後、すべて回収いたします。個人の端末、私物のメモ帳への記録はご遠慮ください」
冗談の余地が、少しずつ消えていく。
村瀬は手元の資料を開き、静かに続けた。
「先生方にお願いしたいのは、異常空間に関する創作的観点からの助言です」
何人かが身じろぎした。
「戦闘方法や装備の助言ではありません。攻略法をお聞きしたいわけでもありません」
その言い方に、少しだけ肩透かしを食らったような空気が流れた。
「現場対応は、警察、自衛隊、消防、医療、研究機関の担当領域です。先生方には、ダンジョンという構造を物語上の装置として見た場合、何をしてはいけないか、何が人を誘引するか、どのような破局が起こり得るかを洗い出していただきたい」
三枝は、そこで背筋を伸ばした。
倒し方ではない。
壊れ方を聞かれている。
「まず、資料一ページ目をご覧ください」
紙をめくる音が重なった。
そこには、異常空間の確認件数、封鎖件数、負傷者数、死亡者数、行方不明者数が並んでいた。報道で見た数字より、少し多い。
その少しが、妙に重かった。
「公開数字と違いますね」
迷宮攻略漫画の原作者が言った。
村瀬は頷く。
「公開済みのものは、関連が確定した事案です。この資料には、関連が疑われる未確定事案を含みます」
「疑われる、ですか」
「はい。異常空間の内部では、痕跡が時間経過で薄れる、あるいは消失する事例が確認されています。行方不明者のすべてを異常空間と結びつけることはできませんが、無関係とも断定できない事例が増えています」
会議室が静かになった。
小説なら、迷宮で死体が消えるのは便利な処理だ。場面を汚さず、次の探索者を入れられる。
だが現実でそれが起きると、死者を死者として数えられない。
「本題に入る前に、一つ確認したいことがあります」
村瀬が言った。
「先生方は、ダンジョンというものを、どのような前提で捉えていますか」
質問が広すぎて、誰もすぐには答えなかった。
少し間を置いて、白髪交じりのベテラン作家が口を開いた。
「前提というのは、悪意があるかどうか、という意味ですか」
「それも含みます」
「なら、三つくらいに分けられると思います。一つ目は、災害。台風や地震と同じで、ただ発生しているだけ。二つ目は、罠。人間や動物を誘い込むための捕食装置。三つ目は、試練、あるいは資源供給装置です」
「試練」
「神、上位者、異世界の仕組み、呼び方は何でもいいですが、人間側に何かを与えるためのもの。魔石、ポーション、素材、身体の変化。危険はあるが、報酬もある。そういう構造です」
若いWeb作家が、少し前のめりになった。
「便利装置説ですね」
村瀬の隣にいた職員が、ペンを止めた。
「便利装置、ですか」
「都合よく見れば、です。ただ殺したいだけなら、もっと簡単な方法があると思います。毒でも病気でもいい。微生物やウイルスみたいなものを使えば、わざわざ魔物と戦わせる必要はない」
その言葉に、何人かの職員が顔を上げた。
「もちろん、未知の病原体や微生物汚染は警戒すべきです。でも、ダンジョンという形を取って、敵がいて、倒すと何かが残って、奥に進むほど価値がありそうなものが出るなら、主目的は感染や即死ではない気がします」
「では、何が目的だと」
「中に入らせることです」
会議室に、紙をめくる音だけが残った。
「人を釣る餌とも言えますし、成長させる餌とも言えます。悪意か善意かは分かりません。でも、構造としては、人間が危険を承知で入りたくなるように作られている」
三枝は、その言葉を聞きながら資料に目を落とした。
魔石。
ポーション。
採取物申告。
協力金。
登録証。
そして、等級。
国は被害を減らすために制度を作っている。だが、制度になれば、人はそこに意味を見つける。実績、等級、収入、名誉。危険を管理するためのものが、危険に近づく理由にもなる。
その時、別の作家が手を挙げた。
迷宮戦記ものを書いている男だった。
「もう一つ、前提として考えた方がいいことがあります」
「お願いします」
「ダンジョンが、本当に現代社会を前提に現れたものなのか、です」
村瀬が視線を向ける。
「どういう意味でしょうか」
「今の私たちは、現代日本の感覚で対処しようとしています。封鎖、調査、法整備、責任、広報、感染症対策、採取物管理。どれも必要です。ですが、ダンジョンそのものが、現代社会の法律や倫理や安全観を前提にしている保証はありません」
室内の空気が、少し変わった。
「もし、これが戦国時代に現れていたら、今のようにはならなかったと思います」
若い職員が眉を動かした。
「戦国時代、ですか」
「危ないから封鎖する、ではなく、どの家が入口を押さえるか、誰が奥まで潜ったか、何を持ち帰ったかになる。どこまで潜れるかが武功になり、名誉になり、家の力になる。死人は出ます。おそらく、かなり出る。それでも、潜れる人間は育つ」
「現代でそれをやれと?」
職員の声には、わずかに硬さがあった。
「いいえ。戦国時代に戻れと言っているわけではありません」
作家は静かに首を振った。
「ただ、私たちは理性を身につけました。危険を避け、責任を考え、制度を作る。人命を軽く扱わない。それは正しいことです。ですが、賢くなりすぎた結果、危険な場所に入れる人間を育てる仕組みまで殺している可能性もある」
誰も、すぐには反論しなかった。
現代の制度は、現代の人間を守るために作られている。
だが、目の前に現れた異常空間が、こちらの都合に合わせてくれるとは限らない。
危ないから入らない。
分からないから塞ぐ。
責任が取れないから許可しない。
それは正しい。
正しいまま、間に合わなくなる可能性がある。
三枝は、そこで初めて自分の中の笑いが完全に消えていることに気づいた。
さっきまで、有識者という言葉をどこか滑稽に感じていた。だが、今は違う。
国は、作家に未来を当てさせようとしているのではない。
現実の専門家だけでは見落とすかもしれない前提を、壊させようとしている。
村瀬はしばらく黙っていた。
やがて、机の上の資料に目を落とし、静かに頷く。
「承知しました。締め付ける方針だけでは、破綻する可能性がある。異常空間が、現代社会の制度や安全観を前提にしたものとは限らない。その視点も含めて検討します」
それから村瀬は、会議室を見渡した。
「それを踏まえた上で、さあ、意見を出していきましょう」




