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第67話 欠損補填薬

「創傷閉鎖、確認。投与群A、三例とも同様の反応です」

白い実験室の中で、研究員の声だけが妙に乾いて聞こえた。

ガラス越しの観察室にいる者たちは、誰もすぐには返事をしなかった。無菌服の上からでも分かるほど、全員が同じものを見ている。小型哺乳類用の観察ケース。麻酔下の実験動物。一定の処置を施された創傷部。そして、そこに投与された透明な液体。

液体の名は、まだ正式には決まっていない。

仮称は、ポーション。

俗称をそのまま研究資料に載せることには反対もあったが、現場では結局それが一番通りが良かった。異常空間から回収され、容器ごと厳重に管理され、国の監督下で共同研究に回された未知の液体。製薬会社も、大学も、医療機器メーカーも、警備会社も、そこに群がろうとしている。

ここは、そのうちの一つだった。

東都バイオメディカル第三研究棟。表向きは再生医療関連の試験施設。実際には、異常空間由来物品の一部解析を請け負う、民間側の窓口の一つである。

「閉鎖速度は」

観察室の後方で、低い声がした。

研究主任の鹿島ではない。経営側から来た男だ。肩書きは事業開発本部長。実験の細部を理解しているわけではないが、この液体が何を意味するかだけは理解している。

鹿島はモニターから目を離さずに答えた。

「通常の創傷治癒としては説明できません。分単位で進行しています」

「分単位」

「はい。少なくとも、既存の外用薬、細胞治療、成長因子製剤の延長ではありません」

モニターには拡大映像が映っている。

傷が塞がっていく。

言葉にすれば、それだけだった。

だが、実際に目で見ると、そこには気味の悪いほどの滑らかさがあった。開いていた皮膚が寄る。血が止まる。赤い断面が薄い膜に覆われ、それが次第に本来の皮膚に近い色へ変わっていく。

暴走ではない。

腫れ上がるわけでもない。異常な肉芽が盛り上がるわけでもない。無秩序に増えるのではなく、まるで最初からそうなる順番が決まっていたかのように、損傷部位だけが戻っていく。

「炎症反応は」

「局所的には出ています。ただし、強すぎません。むしろ必要な分だけ起きて、必要がなくなると収まっているように見えます」

「都合が良すぎるな」

本部長の言葉に、鹿島は短く頷いた。

「ええ。都合が良すぎます」

それは褒め言葉ではなかった。

少なくとも、研究者の口から出る種類の褒め言葉ではない。

薬には効く理由がある。効きすぎるなら、その分どこかに負荷が出る。効く範囲が広いなら、余計な作用も増える。体は複雑で、都合よく傷だけを選んでくれるものではない。

だが、この液体は違った。

傷だけを見つけている。

そう表現するしかない。

「投与群B、失血モデルの確認に移ります」

別の研究員が言った。

観察室の空気が、さらに重くなる。

鹿島は端末を操作し、別のモニターを前に出した。

こちらの実験は、創傷閉鎖よりもさらに厄介だった。傷を塞げば終わりではない。出血した個体は、血液を失っている。傷口だけが塞がっても、血圧が戻らなければ動けない。赤血球が足りなければ酸素を運べない。循環が崩れれば、助かっても回復には時間がかかる。

だから、医療は輸液を使い、輸血を使い、循環管理を行う。

ポーションがただの止血薬なら、そこまでだった。

異常だが、まだ理解の端に乗せられる。

「投与後三分。血圧、回復傾向」

「酸素飽和度、戻ります」

「赤血球数、測定値上昇」

誰かが、息を呑んだ。

鹿島は画面に表示された数値を見た。見間違いではない。測定機器の異常でも、少なくとも今のところはない。複数系統の計測で同じ方向を示している。

失われた血液が、戻っている。

輸血はしていない。

外部から血液成分を入れたわけではない。

それでも、循環血液量は安定し、赤血球数は回復し、出血前の状態へ近づいていく。

「……止血ではないな」

本部長が呟いた。

鹿島は、自分の声がいつもより低くなっているのを感じた。

「はい。少なくとも、止血だけではありません」

「増血か」

「そう呼ぶには、過程が見えません。造血が起きているにしては速すぎる。脾臓や骨髄の動員でも説明できません。血漿成分の回復も早い。赤血球の形態にも大きな異常はない」

「では、何だ」

鹿島は少しだけ黙った。

研究者として、分からないことを分からないと言うのは難しくない。だが、目の前の現象は、それだけでは足りなかった。

「失われたものを補っている、ように見えます」

観察室の中で、何人かが鹿島を見た。

本部長が眉を寄せる。

「補っている?」

「傷口を塞ぐ。血管を戻す。血液量を戻す。失われた組織と成分を、元の状態に近づけている。創傷治癒というより、欠損補填に近い」

「そんな薬があるのか」

「ありません」

鹿島は即答した。

「少なくとも、我々の知る医薬品にはありません」

モニターの中で、投与群の個体がわずかに動いた。麻酔深度は維持されている。生命反応は安定している。過剰な痙攣もない。急性毒性を疑う数値も、現時点では出ていない。

それがかえって気味悪かった。

危険な薬なら、危険な反応を示す。強引な修復なら、どこかが破綻する。代謝が跳ね、臓器に負荷が出て、異常な増殖や炎症が見える。

だが、ポーションはそうではない。

ただ、治している。

必要な分だけ、失われたものを埋めている。

「副反応は」

本部長が聞いた。

「短期では大きなものは見られません」

「長期は」

「観察中です。ただ、少なくとも急性毒性、過剰増殖、血栓傾向については、現段階の条件では明確な異常はありません」

「それは朗報ではないのか」

「朗報です」

鹿島は、ゆっくりと言った。

「ですが、同時に問題でもあります」

「なぜ」

「完成されすぎています」

本部長は黙った。

鹿島は続ける。

「人間が作る薬は、狙ってもずれます。効かせたいところ以外にも効く。効かせたい量を超える。効かない個体も出る。だから安全域を調べ、用量を決め、副作用を記録する。ですが、これは最初から使用されることを前提にしているように見える」

「ダンジョン内でか」

「ええ」

異常空間の中で負傷した者が使う。

傷を塞ぎ、血を戻し、行動可能な状態へ戻す。

そういう用途に合わせて作られている。

その考えを、鹿島は口にしなかった。口にすれば、研究ではなく信仰の話に近づいてしまう。だが、この場にいるほとんどの者が、同じことを考えていた。

「サンプル量は」

本部長の声には、経営側の色が戻り始めていた。

鹿島は内心でため息をつく。

実験結果を見れば、当然そうなる。

これは医療を変える。救急医療、災害医療、軍事、労災、スポーツ、宇宙開発。用途を挙げればきりがない。既存の製薬企業が積み上げてきた特許も、治療体系も、医療保険制度も、これ一つで揺らぐ可能性がある。

「現在、当社に割り当てられている分はごく少量です。追加提供は国の判断になります」

「製造は」

「できません」

「解析は進んでいるだろう」

「成分は一部見えています。ですが、見えているものを混ぜても再現できません。水、微量金属、有機成分、未知の高分子様反応。どれも本質ではない可能性があります」

「本質ではない?」

「容器から出した時点で変化している可能性もあります。あるいは、我々が成分と呼んでいるものが、効果の残骸にすぎない可能性もある」

本部長は不満そうに唇を引いた。

「つまり、分からないと」

「はい」

鹿島は認めた。

「分かりません。ただ、効くことだけは分かりました」

その言葉は、観察室の中に重く落ちた。

効く。

医薬品としては、それ以上ないほど強い言葉だ。

だが、仕組みが分からない。作れない。量もない。国が管理している。ダンジョンからしか出ない。しかも、等級や色の違うものが存在するという未確認情報まである。

本部長が端末を取り出し、何かを確認した。

「色つきの小瓶についての噂は」

鹿島は顔をしかめた。

「社内で扱うべき情報ではありません」

「噂としては聞いているだろう」

「聞いています。透明ではない液体が回収された可能性がある、という程度です。効果も等級も不明です」

「透明でこれなら、上位品はどうなる」

その問いに、鹿島は答えなかった。

答えられない。

だが、想像はできた。

より深い損傷を戻す。大量出血を補う。内臓損傷に対応する。神経を繋ぐ。あるいは、低級では届かない欠損にまで作用する。

それはもはや薬ではない。

現代医療が長い時間をかけて近づこうとしているものを、異常空間は小瓶に入れて落としている。

「本部長」

鹿島は、あえて肩書きで呼んだ。

「これは市場に出せるかどうかを考える段階ではありません。まず、管理しなければ危険です」

「危険性はないと言ったばかりだ」

「液体そのものの急性危険性ではありません。価値の話です」

本部長の目が細くなる。

鹿島はモニターを示した。

「これが本物だと世間が理解したら、隠す人間が出ます。奪う人間が出ます。偽物を売る人間が出ます。怪我人に未確認品を飲ませる人間が出ます。医療機関の外で使われれば、記録も追跡もできない」

「つまり、国の管理が必要だと」

「少なくとも現段階では」

「企業の出番は」

「あります。解析、保管、検査、臨床移行の設計。ですが、独占を考えれば事故が起きます」

本部長は笑わなかった。

経営側の人間にとって、独占という言葉は甘い。だが、甘すぎるものには毒があることも知っている。

「君は慎重だな」

「研究者ですから」

「研究者は、未知のものを欲しがるものだと思っていた」

「欲しいですよ」

鹿島は、初めて本音を混ぜた。

「だから怖いんです」

観察室の向こうで、研究員が次の測定に入っている。投与群の数値は安定。対照群は当然ながら、通常の経過をたどっている。差は歴然だった。

同じ傷。

同じ失血。

片方は時間に任せるしかない。

片方は、失ったものが戻っていく。

その差を見せつけられて、欲しがらない研究者はいない。

「追加実験計画を出してくれ」

本部長が言った。

「国に提出する。倫理審査と安全審査を通せる形でだ」

「分かりました」

「それと、広報には一切出すな。社内でも共有範囲を絞る」

「賛成です」

「ただし」

本部長は、モニターの中の小さな命を見た。

「この液体の価値を、うちが見誤るわけにはいかない」

鹿島は何も言わなかった。

その言葉が正しいことも、危ういことも、どちらも分かったからだ。

実験室の照明は白く、清潔で、一定だった。ガラスの向こうでは、ポーションを投与された個体の傷が、もうほとんど見えなくなっている。

鹿島は記録欄に、短く所見を入力した。

――創傷閉鎖、循環回復、血液成分回復を確認。

少し迷ってから、次の一文を加える。

――本試料は、単純な治癒促進剤ではなく、負傷に伴う欠損状態を補填し、損傷前の生体状態へ近づける作用を有する可能性がある。

入力を終えた後、鹿島はしばらく画面を見ていた。

可能性がある。

研究者らしい逃げ道を残した表現だった。

だが、内心ではもう分かっていた。

あれは、治しているのではない。

戻している。

失ったものを、何事もなかったかのように埋めている。

そして、それを欲しがる人間は、これからいくらでも現れる。


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