第66話 模範的な五級
「前方、右側の棚の影。小型一体を確認しました」
佐伯直人は、そう告げてから足を止めた。声は思ったよりも落ち着いていた。自分でも、そこだけは少し安心する。息は荒い。肩にも力が入っている。握っている盾の縁が、手袋越しでも硬く感じる。だが、声だけは震えなかった。それだけで、事前講習の半分は報われた気がした。
『確認しました。佐伯さん、その場で待機。接近された場合のみ防御姿勢。先行はしないでください』
イヤホン越しに聞こえた職員の声に、佐伯は短く返す。
「了解。待機します」
場所は、国が管理する低危険度区域の倉庫型異常空間だった。表向きの施設名は出されていない。古い物流倉庫の内部を何倍にも引き延ばしたような空間で、鉄骨の柱と、使われていない棚と、濡れたような床が続いている。空気は湿っているのに、匂いは古い紙と油に近い。
佐伯は正面に盾を構えたまま、棚の下を見た。黒いものが動いている。体高は膝より低い。だが横幅は大きい。潰れた甲虫のような胴体に、細い脚が何本もついている。実物を見るのは二度目だった。初回は、職員が前に立って処理した。今回は違う。自分が前に出ている。
盾。短槍。保護具。首元の記録用カメラ。背後に安全管理要員二名。訓練通りだ。無茶はしない。勝手に進まない。見たものを言う。指示を待つ。それが五級仮登録者に求められる動きだと、何度も説明された。佐伯も、その方針に納得していた。異常空間は、勇気を見せる場所ではない。戻ってくるための場所だ。少なくとも今は、そういう扱いでなければならない。
棚の下にいた小型甲虫型が、脚を鳴らした。乾いた音だった。カチ、カチ、と床を叩く音がする。佐伯は喉が狭くなるのを感じながら、口を開いた。
「対象、こちらを向きました」
『距離は』
「目測、六メートル」
『そのまま。対象が三メートル以内に入ったら、盾で受けてください。突きは職員の合図後です』
「了解」
言われた通りに待つ。ただ待つ。それが、想像していたよりもずっと難しかった。来る。分かっている。こちらに来る。それでも自分から動いてはいけない。短槍を突き出せば届くような気がする。先に叩けば安全な気がする。だが、それは気がするだけだ。
事前講習で何度も言われた。距離を誤るな。相手の速度を決めつけるな。人間の都合で踏み込むな。小型甲虫型が、棚の影から出た。思ったより速い。分かっていたはずなのに、そう思った。黒い胴体が床を這い、脚がばらばらに動き、こちらへ滑るように近づいてくる。
佐伯は盾をわずかに下げた。足元を狙われる。そう判断した。
『防御姿勢』
声が重なる。その直後、甲虫型が跳ねた。低く来ると思っていた胴体が、床を蹴って胸の高さまで浮いた。
「っ」
盾に衝撃。重い。想定よりも軽いはずの個体なのに、受けた瞬間、肩まで響いた。佐伯は一歩下がった。下がるつもりはなかった。足が勝手に下がった。だが転ばなかった。盾は正面に残っている。まだ大丈夫だ。
『姿勢維持。押し返さない。槍、構え』
「はい」
佐伯は短槍を引いた。甲虫型は盾の表面に脚をかけ、がりがりと削るような音を立てている。視界の大半が、黒い胴体と細い脚で埋まった。気持ち悪い。それが最初に来た。怖い、より先に、気持ち悪い。その感覚を追い出すように、佐伯は奥歯を噛んだ。
『右下。関節部』
職員の声。佐伯は、見えた場所へ短槍を突き込んだ。一度目は浅い。硬い表面に弾かれる。二度目。少し角度を変える。ぬめるような抵抗があった。甲虫型が盾から剥がれ、床へ落ちた。
『下がってください』
「了解」
佐伯はすぐに下がった。追撃したくなった。倒せると思った。だが指示は撤退だった。下がる。二歩。三歩。そこで、安全管理要員の一人が横から前に出た。棒状の装備が、床で暴れる甲虫型の胴体を押さえた。もう一人が処理を引き継ぐ。
佐伯は盾を構えたまま、それを見ていた。息がうるさい。自分の息なのに、やけに遠くから聞こえる。
『佐伯さん、周囲確認』
言われて、はっとした。
「周囲、確認します」
遅い。自分でも分かった。対象を見すぎていた。倒れたモンスターから目を離せなかった。訓練では、倒した後こそ周囲を見る、と言われていた。分かっていた。だが、実物を前にすると、体の方が遅れた。
佐伯は盾を構え直し、右、左、背後の順に視線を動かす。棚の奥。柱の影。床。天井。異常なし。たぶん。
「周囲、追加個体なし。見える範囲では」
『確認しました。次は撤退地点まで戻ります。走らず、後退』
「了解」
佐伯は指示通りに下がった。足元を見すぎない。だが見なさすぎてもいけない。盾を下げない。短槍を振り回さない。背中を向けない。一つ一つを頭の中で確認しながら、来た道を戻る。安全圏を示す黄色いテープが見えた時、胸の奥に溜まっていたものが一気に抜けた。
膝が少し笑う。表には出さないつもりだったが、たぶん出ていた。
「お疲れさまです。装備確認を行います」
待機していた職員に言われ、佐伯は盾と短槍を差し出した。その動きも、少しぎこちない。盾の表面には、細い傷が何本も残っていた。短槍の先には黒い体液がついている。それを見た瞬間、ようやく実感が追いついてきた。自分は今、モンスターと接触した。防いだ。突いた。戻ってきた。
「佐伯さん」
担当職員が記録用端末を見ながら、穏やかに言った。
「今回の行動は、全体として良好です。発見報告、待機、防御、撤退指示への反応。いずれも大きな問題はありません」
「ありがとうございます」
「ただし、対象が盾から落ちた後、周囲確認までに少し間がありました。視線が対象に固定されています」
「はい。自分でも遅れたと思います」
佐伯は素直に認めた。言い訳は浮かばなかった。事実だった。
「初回対応としては珍しくありません。ですが、次回はそこを短くしましょう。倒したものを見るより、まだ動いているかもしれないものを見る。そこを優先してください」
「了解しました」
「それと、一歩下がった時、左足の置き場が狭くなっています。転倒はしていませんが、棚側に寄りすぎです」
「はい」
細かい。だが、ありがたかった。細かく言われるということは、次があるということでもある。少なくとも、即中止ではない。佐伯はそう受け取った。
少し離れた場所で、安全管理要員たちが処理済みの小型甲虫型を回収している。その動きは淡々としていた。慣れている。佐伯には、まだあそこまで割り切れない。
「佐伯さん、気分は」
「悪くはありません。ただ、少し手が震えています」
「問題ありません。記録します」
職員はそう言って、本当に端末に入力した。手の震えも記録される。呼吸の乱れも、視線の遅れも、足の置き場も。その全てが評価になる。
佐伯は、少しだけ笑いそうになった。試されている。自分という人間が、異常空間の中でどのくらい使えるのか。どこで遅れ、どこで耐え、どこで指示を聞けるのか。その全部を見られている。嫌ではなかった。むしろ、その方が安心できた。自分一人で判断しろと言われる方が、ずっと怖い。
「次回も、参加希望でよろしいですか」
担当職員が確認する。佐伯はすぐには答えなかった。黄色いテープの向こうを見た。薄暗い倉庫の奥。棚の影。さっきまで何もいないと思っていた場所に、何かがいるかもしれない空間。怖い。普通に怖い。今さらのように、そう思った。それでも、口は別の答えを出した。
「はい。希望します」
職員が頷く。
「分かりました。今回の解析結果を共有したうえで、次回可否を判断します」
「お願いします」
佐伯は短く頭を下げた。その姿勢は礼儀正しく、声も落ち着いていた。装備を返し、記録を受け、指摘を聞き、次回を希望する。模範的な五級仮登録者。制度側が求めているのは、おそらくこういう人間なのだろう。少なくとも、その場にいた職員の多くはそう評価した。
ただ、一人の安全管理要員だけが、処理済みの甲虫型を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「普通は、あれで十分なんだよな」
隣の職員が小さく頷く。
「十分ですよ。初回なら、むしろかなりいい」
「だよな」
その声には、褒め言葉とは別の響きが混じっていた。誰かと比べたわけではない。記録上、比べる必要もない。それでも、異常空間に入る人間を見続けている者ほど、分かってしまう。
正しい動き。慎重な判断。指示への反応。恐怖への耐性。それらは確かに必要だ。必要だが、それだけで足りるかどうかは、まだ誰にも分からない。
黄色いテープの向こうで、倉庫の灯りが一つ、遅れて瞬いた。佐伯はそれに気づき、視線を向けた。一拍遅れて、盾のない左手がわずかに動く。もう装備は返している。それでも体が、何かを構えようとした。
担当職員は、その小さな動きも記録した。




