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第62話 暗渠ダンジョン 7 話が違うんですけど

 湿った空気の奥で、何か大きなものが動いた気がした。

 俺は一歩だけ踏み出し、そこで足を止める。ライトの光は、ボス部屋の奥までは届かない。灰色の粉が薄く漂い、床には黒ずんだ根が這っている。入口の周囲だけでも十分に足場は悪い。中へ入るなら、そこを踏まえた上で動かなければならない。

 左右に立つ寄生ゴブリン二体は、声もなく俺を待っていた。

 俺は深く息を吸う。苦しくはない。粉も気にならない。けれど、気にしなくていいのと、警戒しなくていいのは別だ。

「……行くぞ」

 返事はない。

 俺は赤錆の山刀を握り直し、ボス部屋の中へ足を踏み入れた。


 中は広かった。

 一層のボス部屋とは違う。床の黒い石は見えているが、半分以上は根と菌糸に覆われている。壁際には潰れたキノコの残骸みたいなものがいくつも貼りつき、天井近くには灰色がかった胞子の膜が薄く漂っていた。部屋の中央だけが、不自然に盛り上がっている。

 土ではない。

 根だ。

 何本もの太い根が絡み合い、うねるように積み重なって、小さな丘みたいな塊を作っている。その上に、そいつはいた。


 最初に見えたのは、口だった。

 花弁のように開いた肉厚の外殻。その内側に並ぶ棘。赤く濡れたような奥。食虫植物の口にも見えるし、花にも見えるし、裂けた肉塊にも見える。けれど、そのどれとも少し違った。

 その口を支える胴は、まっすぐではない。太い茎のようなものが何度も捻れ、節のように膨らみ、途中には赤黒く膨れた実みたいなものがいくつもぶら下がっている。片側には傘を重ねたようなキノコの塊。もう片側には、長く伸びた蔓の先に、腐った果実みたいな重い球が揺れていた。根元は床と一体化していて、どこからが本体でどこからが部屋の根なのか、一目では分からない。

 高さは三メートル近い。

 大型の歩くキノコをそのまま大きくしたようなものを想像していた俺の予想は、きれいに外れた。

「……話が違うんですけど」

 思わず呟いた。

 もちろん、返事はない。

 その代わり、中央の口がゆっくりこちらを向いた。


 来る。

 そう思った瞬間、床の根が動いた。

「下がれ」

 意味のある命令ではない。ただ、そう思いながら自分も横へ跳ぶ。寄生ゴブリン二体も、俺の動きに引かれるように左右へ散った。次の瞬間、さっきまで立っていた場所の床が盛り上がる。黒ずんだ根が束になって突き出し、足首を絡め取るように開いていた。

 拘束。

 そこへ、上から影が落ちる。

 怪物の蔓が振り下ろされた。蔓というより、太い茎の先に重りをつけた棍棒だ。先端の赤黒い球が床を叩き、黒い石と根の破片を散らす。まともに受けたら、腕だろうが足だろうが持っていかれる。

「一体で全部やるのかよ」

 噛みつき花も、根も、大型キノコの打撃も。

 この階層で見た面倒くさいものを、一匹にまとめたような相手だった。


 寄生ゴブリンの一体が左から回る。もう一体は俺の少し後ろに位置を取った。

 正面には出さない。受けさせない。

 戻ってまで交代させた理由を、ここで自分から潰すわけにはいかない。

 植物の怪物の口が開く。

 赤い奥が蠢き、内側の棘がわずかに閉じる。噛みつきだ。しかも速い。見た目に反して、口だけは妙に鋭い。

 俺は横に転がって避けた。歯の代わりみたいな棘が、さっきまであった位置の空気を噛み潰す。遅れて、根の束が足元を這う。

 連携している。

 根で止めて、噛む。

 蔓で追い込んで、噛む。

 単体なのに、やってくることが多い。


 俺は距離を取りながら、全体を見た。

 口は危ない。蔓も危ない。床も危ない。けれど、全部を同時に見ていたら、そのうち見落とす。何か一つ、芯になるものを見つける必要があった。

 右側の赤い実が揺れる。

 いや、揺れたんじゃない。脈打った。

 そのすぐ後に、右の蔓がしなる。

 今度は根元近くの膨らみが脈打つ。次の瞬間、床の根が盛り上がった。

「……合図か?」

 完全に確信はない。

 けれど、動きの前に何かしらの脈動がある。節ごとにぶら下がった赤い膨らみは、ただの飾りではなさそうだった。


 左から回っていた寄生ゴブリンが、怪物の根元へ踏み込む。足止めをしようとしたのだろう。だが、床に這った根がその足を引っかけた。たたらを踏んだところへ、口がそちらへ向く。

「下がれ!」

 届かない言葉を吐きながら、俺は前へ出た。

 赤錆の山刀を振る。狙いは口ではない。口の下、首に見える太い茎の側面。刃が食い込む。植物相手らしい、湿った繊維を裂く手応え。深く入る。だが、それだけだ。致命傷には見えない。

 それでも、口が一瞬ぶれた。

 寄生ゴブリンはその隙に横へ転がる。噛みつきは空を噛んだ。棘同士が擦れ合い、不快な音を立てる。

 危なかった。

 俺はすぐに下がる。追うように蔓が振られた。今度は上からではなく横薙ぎだ。先端の赤黒い球が壁をかすめ、張りついていたキノコの塊を砕く。

「硬いのはその先か」

 蔓そのものも切れないわけじゃない。だが、先端に近いほど硬い。大型キノコの腕と同じで、受ける前提の相手じゃない。


 もう一度、全体を見る。

 右腕代わりの蔓の先にある赤い球。左の節にぶら下がる膨らみ。胴の中腹にある大きな実。根元近く、根に半ば埋もれるようにして膨らんだ、ひときわ大きい赤黒い塊。

 どれも怪しい。

 怪しいが、全部が本命とも思えなかった。

 試すしかない。

 俺は中腹の実を狙って踏み込んだ。

 床の根がわずかに盛り上がる。左だ。避ける。次に口が来る。前ではなく、斜め上から振り下ろすように噛みついてきた。そこへ寄生ゴブリンの一体が横から根元にぶつかる。体を止めるほどではない。だが、口の軌道が一瞬ずれる。その隙に俺は懐へ入った。

 赤錆の山刀を振り上げ、中腹の赤い実を斬る。

 刃は通った。

 実は裂け、中から黒ずんだ汁が飛ぶ。手応えはあった。だが、怪物は止まらない。裂けた実をぶら下げたまま、蔓が暴れ、根がうねる。

「そこじゃないのかよ」

 舌打ちしながら飛び退く。

 外れだ。

 全部が弱点ではない。切れば嫌がる場所と、本当に止まる場所は別らしい。


 部屋の中央で、そいつが根を蠢かせる。

 さっき斬った中腹の実は、まだ揺れていた。けれど、その脈動は弱い。代わりに、根元近くに埋まった大きな赤黒い塊が、ゆっくりと脈を打っている。口が開く時も、根が動く時も、蔓が振られる時も、わずかにそこが膨らんで沈む。

 あれか。

 本命は、下。

 問題は、根に守られていることだ。


 植物の怪物が床を這う根を広げた。部屋の中央寄りが一気に危なくなる。逃げ場を削るつもりだ。俺はすぐに壁際へ寄りかけて、やめた。壁際には、部屋の根に紛れて噛みつき花みたいな口がいくつも混じっている。中央が危ないからといって、端が安全なわけじゃない。

「本当に、話が違う」

 苦笑する暇もなく、次の蔓が来た。

 今度は右。重い球を振り子みたいに回してくる。俺は身を低くして避ける。球が頭上を通る。そこへ、後ろにいた寄生ゴブリンが足元の根へ蹴りを入れた。いや、蹴りというより、わざと踏み崩した。根のうねりが一瞬乱れる。

 それで十分だった。

 俺は床を蹴る。

 まっすぐには行かない。蔓の戻りと口の射線を避けながら、斜めに、低く。根元近くまで入ると、部屋の根と本体の根の境目が少しだけ見えた。黒い石の床から直接伸びているものと、赤い塊を守るように巻きついているもの。後者の方が太い。

 赤錆の山刀を振る。

 外側の根を斬る。一本では足りない。二本、三本。湿った繊維が裂ける。刃は通るが、量が多い。

 上から影。

 口だ。

 俺は前には出られない。横にも逃げにくい。そこで、寄生ゴブリンの一体が反対側から根元に絡みついた。引っ張るというより、重心をずらすような動きだ。口がほんの少しだけ傾く。

 そのほんの少しで、俺は抜けた。

 噛みつきは肩の横を空振りし、棘が地面に食い込む。

「助かった」

 返事はない。

 だが、助かったのは事実だった。


 距離を取って見れば、さっき斬った根の奥に赤い塊が少し見えている。

 正解だ。

 あれを割れば止まる。

 たぶん。

 でも、そこへ行くまでが遠い。

 そいつも馬鹿ではないらしい。根元を庇うように蔓が低く動く。床の根も、その周囲だけ密度が高い。

 なら、崩す。

 正面から穴を開けるんじゃなく、姿勢そのものを崩す。


「右に回れ」

 意味はなくても、そう言葉に出す。

 俺自身は左へ回る。寄生ゴブリン二体も、左右に散った。一体は小型のキノコの残骸を蹴散らし、足場を少しだけ空ける。もう一体は怪物の後ろへ回り込もうとする。

 口が俺を追う。

 蔓が右へ振れる。

 後ろが薄くなる。

 今だ。

 俺は左前方から踏み込み、根元の守りを斬る。寄生ゴブリンの一体が背後から低い位置へ体当たりした。止めるためじゃない。傾けるためだ。

 怪物の上体がわずかに捻れる。

 根元の赤い塊が、半分ほど露出した。

 見えた。

 中腹の実より大きく、色も濃い。どす黒い赤に脈が走り、今まさに膨らんでいる。

「そこか」

 俺は両手で山刀を握った。


 床の根が盛り上がる。

 足を取るつもりだ。

 半歩だけずらす。完全には避けきれない。左足首に根が触れる。絡みつく前に、刃の柄尻で打ち払う。次に蔓が来る。右から。見えている。避ける。

 そして、口が開いた。

 その瞬間、赤い塊が強く脈打った。

 全部が繋がっている。

 噛む直前。根が伸びる直前。蔓が打ち出される直前。あそこが膨らむ。

 なら、今。

 噛みつきが閉じるより先に、俺は赤い塊へ飛び込んだ。

 赤錆の山刀を振り下ろす。

 刃が赤い表面を割る。硬い。これまでの繊維とは違う。硬質化した外皮がある。だが、完全に止まるほどではない。押し込む。手に返る抵抗が途中で変わる。殻を抜けた。

 その奥は柔らかかった。

 ぬるい感触と共に、刃が深く入る。


 植物の怪物が初めて、明確に暴れた。

 口が大きく開き、棘の奥から黒い液が飛ぶ。蔓がめちゃくちゃな軌道で振られ、床の根が一斉に跳ねる。俺は山刀を抜かず、そのまま体重をかけて横に引いた。

 切れた。

 赤い塊が裂ける。

 そこから漏れた黒赤い液が根に伝い、脈打っていた線が途中で途切れる。

 口の動きが止まった。

 蔓が半端な位置で落ちる。

 根の盛り上がりが、遅れて崩れた。


 それでも、まだ完全には終わらない。

 怪物の上体が、倒れながらなお俺に覆いかぶさろうとした。最後の反射か、最後の意地かは分からない。

 俺は山刀を抜き、もう一度振った。

 今度は、裂けた赤い塊の中心へ。

 刃が深く沈み、そのまま根元の節まで断ち切る。

 そこでようやく、そいつの全身から力が抜けた。


 崩れる、というより、ほどけた。

 口を支えていた茎が傾き、重い蔓が床に落ちる。壁際まで伸びていた根が、切れた糸みたいに緩む。積み重なっていた傘の塊が横へ崩れ、潰れた実から黒い汁が滲み出た。

 部屋の中に漂っていた灰色の粉も、少しずつ落ちていく。

 静かだった。

 自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。


「……終わった、か」

 しばらく待っても、口は動かない。蔓も跳ねない。根も持ち上がらない。

 寄生ゴブリン二体が、少し遅れて俺の近くまで来た。片方の腕には黒い汁が付いている。もう片方の足には細い根が絡んでいたので、俺は山刀の切っ先で払った。

「無茶はしてないな」

 返事はない。

 でも、今回はちゃんと受けさせなかった。

 それだけで少しだけ、胸の奥が軽い。


 倒れた怪物の根元から、白い糸が伸びた。

 右手の爪の間からだ。細く、静かに。今までの大型キノコの時と同じように、死体を立たせるためではない。ほどいて、食うための動きだ。

 白い糸は、裂けた赤い塊の中へ入り込む。根に、蔓に、口の奥に広がっていく。植物とも菌ともつかない繊維が、内側から萎びるように縮んだ。

 寄生体が何を取っているのか、俺には分からない。

 ただ、前みたいな粉や菌糸を弾く感覚に、もう一つだけ厚みが増した気がした。

 何が変わったのかは分からない。表面を守る感覚に近いようで、少し違う。けれど、今ここで確かめられるものでもなかった。

 気のせいかもしれない。

 けれど、まるで何も変わっていないとも思えなかった。

「……まあ、役に立つならいいか」

 こういう時だけは、あまり深く考えない方がいい。


 俺は周囲を見回した。

 ボス部屋の中央を占めていた根の塊は、かなり崩れている。床の黒い石が少しずつ見え始めていた。その奥、部屋の最深部の壁際に、下へ続く段差のような影がある。

 近づいてライトを向ける。

 階段だった。

 黒い石の階段が、部屋の奥からさらに下へ沈んでいる。植物の根も、灰色の菌糸も、その入口手前で途切れていた。そこから先の空気は、今いる場所と違う。湿ってはいるが、甘く腐った匂いは薄い。何の気配があるのかまでは、まだ分からない。

 分からない方がいい。

 このフロアは、これで終わりだ。


 俺は振り返って、崩れた植物の怪物を見た。

 思っていたのとは全然違う見た目で、やってくることも全部面倒で、最後まで話が違う相手だった。

「……キノコ狩りの親玉、ではなかったな」

 苦笑しながら呟く。

 寄生ゴブリン二体は、何も言わずに立っている。

 俺は赤錆の山刀を軽く振って、付いた黒赤い汁を落とした。

 階段の方へ視線を向ける。

 今すぐ降りる気はなかった。少なくとも、一度は息を整えたい。服の裂け目も気になるし、寄生ゴブリンの状態も見ておきたい。

 急いで突っ込む理由はない。

 ここまで来たなら、なおさらだ。


 植物の気配が薄れていくボス部屋の中で、俺はしばらくその場に立っていた。


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