第63話 暗渠ダンジョン 8
植物の気配が薄れていくボス部屋の中で、俺はしばらくその場に立っていた。
すぐに階段を下りる気にはなれない。怖いから、というのもある。疲れているから、というのもある。だが、それ以上に、今の状態で次へ行くのは雑すぎる気がした。
ボス部屋の中央では、さっきの植物の怪物が崩れている。口だったものは横倒しになり、蔓は力を失って床に落ち、赤黒い実の中身は黒い汁になって根の間に染み込んでいた。部屋に漂っていた灰色の粉も、少しずつ床へ落ちている。
俺は赤錆の山刀を軽く振り、刃に残った汁を落とした。
「さて、と」
言っても、返事はない。
左右の寄生ゴブリン二体は、何も言わずに立っている。今回の戦闘で大きく壊れてはいない。片方の腕に黒い汁が付いている程度で、もう片方も足に絡んでいた根を払った後は、普通に立てている。
普通に。
その言い方が、また少し嫌だった。
俺は頭を振って、考えを切った。今は確認だ。次に降りるかどうかを決める前に、見るものを見ておく。
ボス部屋の中央を占めていた根の塊は、かなり崩れていた。床の黒い石が少しずつ見え始めている。根が縮み、菌糸が乾き、さっきまでは見えなかった場所が露出していた。
その根の下から、四角いものが覗いている。
箱だった。
黒い石でできた、小さな箱だ。宝箱、と呼ぶには飾り気がなさすぎる。金具もない。派手な装飾もない。ただ、黒い石を四角く削り出したような、無骨な箱がそこにあった。
「……本当にあるんだな、こういうの」
政府発表でも、ネットでも、ダンジョン産アイテムの話は出ていた。けれど、こうしてボス部屋の中央に箱が残っているのを見ると、急に創作物じみてくる。創作物じみているくせに、床の血と臭いだけは現実のままだ。
俺は近づきすぎる前に、足元を確認した。黒ずんだ根はほとんど力を失っている。噛みつき花みたいな蕾も動かない。寄生体も騒がない。
それでも、山刀の切っ先で箱の蓋を軽く押す。
何も起きない。
もう少し強く押す。蓋が少しずれた。
「罠は、なさそうか」
罠がないと判断できる根拠なんて、ほとんどない。それでも、ここで永遠に警戒していても仕方がない。俺は片膝をつき、蓋を開けた。
中には、小瓶が二本と、黒い布のようなものが一対入っていた。
まず小瓶を手に取る。中身は赤みのある液体だ。形も大きさも、水門ダンジョンで見たポーションに近い。たぶん、回復系でいいと思う。だが、同じものだと決めつけるには早い。
水門で手に入れたものは、透明な液体だった。これは赤みがある。
形は似ている。瓶の雰囲気も近い。けれど、中身の色が違う以上、同じ効果だと考えるのは危ない。
「飲んで試す気にはならないな」
今の俺に傷はある。服も裂けている。失血の重さもまだ残っている。だから、使いたい気持ちがないわけではない。
けれど、効果不明の液体を、暗渠の深いところでいきなり飲むほど追い詰められてはいない。使うなら、もっと安全な場所で確認してからだ。
俺は小瓶を二本とも、いったん箱の縁に置いた。
次に黒い布のようなものを持ち上げる。
布ではなかった。
黒い革に似た素材の脚絆だ。膝下から足首までを覆う形で、表面には木目のような筋が走っている。触ると硬い。だが、曲げると少しだけしなる。金属ではない。革でもない。植物の繊維を固めたようにも見える。
「足か」
思わず呟いた。
この階層で散々足を取られた後に出てくるあたり、性格が悪い。いや、報酬としてはありがたいのかもしれないが。
俺は自分の足元を見た。登山靴は泥と灰色の粉で汚れている。ズボンの裾も裂けている。足を守れる装備は、普通に欲しい。
だが、次に寄生ゴブリンの脚を見た。
こいつらは痛がらない。根に絡まれても、花に噛まれても、無理に進もうとする。俺が止めなければ、そのまま壊れるまで動く。
俺が着けるより、こいつらに着けた方がいい。
そう思った。
「……こっちだな」
試しに、一体の寄生ゴブリンへ脚絆を当てる。見た目には少し大きい。ゴブリンの細い脚には余るように見えた。膝下から足首まで覆うどころか、下手をすれば膝の上までかかりそうだ。
それでも巻いてみる。
黒い素材が、ゆっくり縮んだ。
「うわ」
思わず声が出た。
紐も留め具もない。なのに、脚絆は勝手に締まり具合を合わせていく。余っていた幅が縮み、長さも詰まり、数秒後には寄生ゴブリンの脛にぴたりと収まっていた。
もう片方も同じように巻く。こちらも勝手に形を変えた。
「サイズ調整つきかよ」
便利だ。
便利すぎて、少し気持ち悪い。
寄生ゴブリンは何も言わない。ただ、脚絆を着けたまま立っている。歩かせてみると、特に動きは悪くなさそうだった。膝も足首も動く。素材は硬いが、曲がる場所ではちゃんとしなる。
噛みつき花や根にどれだけ効くかは分からない。だが、むき出しの脚よりはましだろう。
そういう、ましを積むしかない。
俺は残りの小瓶二本を見た。
自分のリュックに入れることもできる。だが、今の俺の荷物はそこそこ多い。動く時に邪魔になるものは減らしたい。
それに、寄生ゴブリンに預けるという選択肢がある。
落とさないかは少し不安だったが、こいつらは余計なことをしない。人間の荷物持ちより安全かもしれない、と思いかけて、それはそれで嫌な考えだなと思った。
俺は小瓶二本を、脚絆を着けていない方の寄生ゴブリンに持たせることにした。
腰に巻かれた赤黒い布の隙間へ、小瓶を差し込む。一本、二本。軽く揺らしてみるが、落ちそうにはない。寄生ゴブリンは抵抗しない。もちろん、返事もしない。
「割るなよ」
言ってから、たぶん意味がないと分かる。
ただ、そう思ったせいか、そいつは少しだけ腰を引いた。小瓶の位置を守るようにも見えた。
偶然かもしれない。
俺の意図に引っ張られただけかもしれない。
どちらにしろ、持たせることはできそうだった。
箱の中は空になった。
俺は蓋を開けたまま、少しだけ見下ろす。
ポーションらしき小瓶二本。脚絆一対。使い道は分かりやすい。分かりやすいが、効果までは分からない。
このダンジョンは、分かりやすい顔をして、平気で話をずらしてくる。
キノコ狩りの親玉だと思ったものが、あの植物の怪物だったみたいに。
「確認は、後だな」
俺は立ち上がった。
そこで、赤錆の山刀の重さを改めて感じた。
ずっと握っていた。ボス戦中は当然だ。植物相手にはよく通るし、これがなければ何度も詰んでいたと思う。だが、今は戦闘中ではない。宝箱を開ける時も、装備を巻く時も、片手に山刀があるのは邪魔だった。
常に俺が握っている必要はない。
使う時に戻せばいい。
近くの寄生ゴブリンを見る。脚絆を着けた方だ。手は空いている。こいつに持たせるか。
一瞬、迷った。
武器を預ける。
それはただの荷物持ちとは少し違う気がした。だが、こいつらは勝手に振り回さない。少なくとも、俺がそう思わない限りは動かない。
俺は山刀を柄から渡す。
寄生ゴブリンは受け取った。刃を下に向け、片手で持つ。構えるわけではない。ただ、持っているだけだ。
「使うなよ。持ってるだけだ」
やっぱり返事はない。
けれど、俺の中で、持つだけ、という意図は確かに残した。寄生ゴブリンは山刀を握ったまま、動かない。
少しだけ変な感じがした。
自分の武器を、敵だったものに預けている。
普通なら、絶対にやらない。まともな判断ではない。けれど、今の俺のまともさなんて、どこを基準に測ればいいのか分からない。
少なくとも、両手が空いた。
それは助かる。
俺は改めて部屋の奥へ向かった。
最深部の壁際に、下へ続く段差がある。さっき見つけた黒い石の階段だ。植物の根も、灰色の菌糸も、その入口手前で途切れている。そこから先の空気は違う。
湿ってはいる。
だが、甘く腐った匂いは薄い。
代わりに何があるのかは、まだ分からない。分からない方がいい。少なくとも、このフロアとは別だと分かれば十分だった。
フロアは切り替わる。
暗渠の中なのに、階層ごとに中身が違う。ゴブリンの層。植物の層。そして、その下。
俺は階段の入口にライトを向けた。黒い石段が、暗い奥へ沈んでいる。数段先までは見える。そこから先は闇だ。
下りるか。
いや、今はまだやめておく。
ポーションは未確認。新しい脚絆も、どれだけ使えるか分からない。赤錆の山刀を預ける運用も、今試したばかりだ。寄生ゴブリン二体は大きく壊れていないが、ボス部屋まで来た時点で俺自身の消耗もある。
それに、上にはまだ四体がいる。
ボス部屋の入口を守らせたままだ。
一度戻って全体を整理した方がいい。
「……撤収、ではないな」
撤収というには、まだ下が気になりすぎる。
だが、突入でもない。
確認して、戻る。そう決めた。
俺は階段の入口に小石を一つ落とした。数段転がり、暗い下で止まる。音は遠くまで響かなかった。何かが反応する気配もない。
今は、それでいい。
俺はライトを引き戻し、寄生ゴブリン二体を見る。一体は脚絆を着け、赤錆の山刀を持っている。もう一体はポーションらしき小瓶を腰に差している。
どう見ても、普通ではない。
それでも、ただ壊れるまで前に出すよりはましだと思った。
まし。
またその言葉だ。
俺は小さく息を吐いた。
「戻るぞ」
返事はない。
二体は、俺の動きに合わせて向きを変える。
階段の先は見た。
次へ進む道も見つけた。
なら、今やるべきことは一つだ。
俺は植物の気配が薄れていくボス部屋を後にし、いったん上のボス部屋へ戻ることにした。
一層のボス部屋に戻ると、残していた四体の寄生ゴブリンはまだ入口側に立っていた。傷ついた二体も、動かないまま立っている。休んでいるわけではない。けれど、少なくとも壊れてはいない。
俺は六体を見回した。
下へ続く階段は見つけた。植物のフロアも越えた。宝箱も回収した。なら、今ここでさらに進む理由はない。
脚絆を着けた個体には、そのまま赤錆の山刀を持たせる。ポーションらしき小瓶も、別の一体に預けたままにする。効果の分からないものを家へ持ち帰るのも気味が悪いし、暗渠の外で割ったり落としたりするのも避けたい。
「ここで待て」
言葉に意味があるかは分からない。
ただ、俺はそう思った。
ボス部屋の入口側に四体。下層へ続く階段側に二体。そう配置を分ける。六体は、俺の意図に合わせるように、音もなく位置を変えた。
便利だ。
便利すぎる。
それでも、今日はこいつらを連れて外には出せない。
俺はライトを一度だけ下層側へ向けた。植物の気配が薄れた先に、さらに下へ沈む黒い階段がある。
見つけた。
それだけで十分だ。
「今日はここまでだ」
返事はない。
俺は一人でボス部屋を出た。
暗渠の通路を戻り、横道を抜け、外の空気に触れる。夜の空気は冷たく、湿っていた。ダンジョンの中より安全なはずなのに、背中にはまだ、六体分の無音の気配が残っている気がした。
家に帰ろう。
風呂に入って、服を替えて、傷を確認する。
それから、次のことを考えればいい。
俺は暗渠を振り返らず、帰り道へ足を向けた。




