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第61話 暗渠ダンジョン 6


 俺は、そのまま奥へは進まなかった。

 赤錆の山刀で寄生ゴブリンの足に絡んだ灰色の菌糸を切り、脛の傷を見る。噛みつき花にやられた場所は、まだ裂けたままだった。黒っぽい血が滲み、肉の端に灰色の粉が付いている。肩を削られた方も似たようなものだ。骨までは見えていない。けれど、普通ならそのまま歩かせていい傷ではない。

 それでも、二体は立っていた。

 痛がらない。呻かない。膝も折らない。

 立てる。

 だから使える。

 そう考えかけて、嫌になった。

 死なれて困る、という言い方は違う。こいつらは、たぶんもう死んでいる。少なくとも、普通の意味では生きていない。なら、壊れて困る、か。それも嫌だった。その言い方を選んだ瞬間、自分の足元までぬめったものに沈む気がした。

 自分を慰めるつもりはない。俺がやっていることは、どう言い繕ってもまともじゃない。ゴブリンを殺して、寄生させて、立たせて、使っている。綺麗な話ではない。

 ただ、こいつらを死体だと仮定するなら。

 寄生体に傷を塞がれて、痛みを丸められて、それでも歩いている俺はなんなんだ。

「……戻るか」

 返事はない。

 ただ、二体の寄生ゴブリンが俺の動きに合わせて、ゆっくり向きを変えた。

 奥では、また大型のキノコが重い足音を響かせている。通路のさらに先には、まだ灰色の傘がいくつも揺れていた。進もうと思えば進める。傷ついた二体を前に出して、小型を踏ませ、大型の足止めに使えば、たぶん進める。

 進めるから、嫌だった。

 俺は来た道を戻った。足元のぬめりを避け、黒ずんだ根を踏まないように歩く。寄生ゴブリン二体は後ろからついてくる。脛を噛まれた一体は、歩くたびに傷口から血を落としていた。それでも速度はほとんど落ちない。肩を削られた方も、片腕の動きが少し悪いだけで、普通に歩いている。

 普通に歩けてしまう。

 それが、余計に気持ち悪かった。

 階段を上がると、黒い石のボス部屋に戻った。下層の湿った土の匂いが薄れ、代わりに血と石の匂いが残る。入口側には、残していた四体の寄生ゴブリンが立っていた。大柄な個体も、その中にいる。胸の傷は開いたままだが、倒れる様子はない。赤黒い布を巻いた三体も、部屋の入口を向いたまま動かない。

 見張り。

 そう考えて置いた。だから、そうしている。

 便利すぎる。

 俺は、負傷した二体を入口側へ下げる。言葉で命じたわけではない。交代。そう思っただけだ。二体が下がり、入口側にいた四体のうち、傷の少ない二体が前に出る。大柄な個体は残した。あれを連れていけば戦力にはなるだろうが、通路で扱うには大きすぎる。狭い場所で動かせば、俺の方が巻き込まれかねない。

 前に出た二体は、どちらも赤黒い布を巻いたゴブリンだった。最初に連れていた二体より体は大きい。傷も少ない。だが、目に光はない。声もない。俺の近くに立つだけだ。

「交代、な」

 言ってから、また返事がないことを確認する。

 確認する必要なんてない。分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。

 俺は傷ついた二体を見た。入口側に回したからといって、休ませているわけではない。あいつらは立ったままだ。痛みもない。たぶん疲労も、人間とは違う。それでも、前に出して壊れるまで使うよりは、まだましだと思った。

 まし。

 それくらいの言葉しか出てこない。

「行くぞ」

 俺は新しく前に出た二体を連れて、もう一度階段を下りた。

 植物の階層に戻ると、空気の重さがすぐに戻ってきた。湿った土、古い木材、甘い腐敗臭。ライトの光の中で、灰色と薄茶色の粉が舞っている。さっき大型のキノコを食わせたせいか、その粉が体に入り込んでくる感じはさらに薄い。何も感じない。だから安全、とはもう思わなかった。

 床のぬめりは残っている。潰した小型キノコの跡も、噛みつき花を切った茎も、そのままだ。ダンジョン内の死体や血は時間が経てば消える。けれど、今この瞬間に残っている足場の悪さは、ちゃんと俺たちを殺しにくる。

 前方で、小型の歩くキノコが三体、ゆっくり近づいてきた。

 俺は寄生ゴブリンをすぐには出さなかった。

 まず自分で足元を見る。右の壁際に灰色がかった蕾がある。左の床には黒ずんだ根が浮いている。真ん中はぬめっているが、踏めないほどではない。

「右は駄目だ」

 言葉で通じているわけではない。だが、右へ行かせたくないと思うと、二体は中央寄りに動いた。

 小型キノコの一体を、前に出た寄生ゴブリンが踏み潰す。俺はすぐにその足元を見た。灰色の菌糸が靴底に絡む。絡んだところを山刀の先で切る。二体目は踏ませず、俺が刃の腹で傘を払い、根元を斬った。湿った薄茶色の中身が飛び散る。三体目は左へ寄った寄生ゴブリンが蹴り倒し、床に転がったところを踏み潰した。

 遅い。

 たぶん、前に出して好きに潰させた方が早い。

 けれど、それをやると足元が悪くなる。足元が悪くなると、噛みつき花に引っかかる。大型が来た時に逃げ場がなくなる。

 早く進むことと、楽に進むことは、同じではない。

 そんな当たり前のことを、俺は今さら考えていた。

 奥から、また重い音がした。

 どすん。

 大型だ。

 今度は驚かなかった。ライトを向ける前から、音の重さで分かる。灰色の大きな傘が、通路の奥で揺れていた。二メートル近い体。太いくすんだ柄。硬質化した腕と脚。さっきの個体とほとんど同じだ。

 寄生ゴブリンの一体が前に出ようとする。

「違う」

 俺が前へ出た。

 すると、二体の動きがわずかに止まる。命令ではない。たぶん、俺の意図に引っ張られているだけだ。正面で受けるな。止めるな。潰されるな。そう思う。

 大型キノコが腕を振り上げる。

 俺は真正面には立たない。通路の中央から半歩左へずれ、足元のぬめりが少ない場所を選ぶ。腕が横から来た。重い。遅いが、受ければ終わる。俺は身を引き、空振りさせる。硬質化した腕が壁に当たり、黒い石片が跳ねた。

 その隙に、一体を横へ回す。

 もう一体は、後ろの小型キノコを処理する。踏み潰させる前に、俺が見た。足元に根はない。蕾もない。なら踏ませていい。

 大型キノコがこちらを向き直る。傘の端が壁を擦り、灰色の粉が落ちる。俺は腕を狙わない。傘も狙わない。最初から足だ。

 踏み込むタイミングを待つ。

 大型キノコの脚に見える根の束が、ぬめった床を踏んだ。外側は硬い。だが、踏み込む瞬間だけ、内側の根がわずかに開く。

 そこへ刃を入れた。

 赤錆の山刀が黒ずんだ根の束を裂く。前回より浅い。角度が悪い。すぐに引き、もう一度入れる。大型キノコの腕が戻ってくる。俺は屈んで避けた。ヘルメットの上を硬いものが通る。遅れて風が来る。

「横」

 声に意味はない。

 だが、横にいた寄生ゴブリンが大型キノコの脚に絡む。体当たりではない。ぶつかって止めるのではなく、根の束を引っかけるように足元へ入る。大型の体が一瞬だけ傾いた。

 そこへ三度目の刃を入れる。

 根の束がほどけた。

 大型キノコが崩れる。完全には倒れない。反対側の脚で踏ん張ろうとする。俺は追いかけない。追いかけたくなるのを抑えて、足元を見る。

 右の床に蕾がある。

 踏み込めば噛まれる。

「くそ」

 俺は蕾を先に切った。灰色がかった塊が開きかけたところで、赤錆の刃が茎を落とす。遅れた分、大型キノコが体勢を戻しかける。

 でも、それでいい。

 急いで足を食われるよりはいい。

 もう一体の寄生ゴブリンが、後ろから大型の根を引っかけた。大きくは崩せない。だが、一瞬止まる。その一瞬で十分だった。

 俺は低く入り、根と柄が集まる中心へ山刀を振り下ろした。湿った繊維の抵抗。骨とは違う。肉とも違う。刃の中で束が裂け、切れたものが遅れて崩れる。

 大型キノコの動きが止まった。

 倒れた傘が床にぶつかり、灰色の粉が舞う。

 俺は一歩下がった。息は上がっている。前よりは手順が見えた。だが、楽ではない。寄生ゴブリンに受けさせず、自分で足元を見て、花を切り、小型を処理し、大型の隙を待つ。やることが多い。

「これ、本来なら何人で見る場所だよ」

 小さく吐き出す。

 返事はない。

 ただ、二体の寄生ゴブリンは立っている。大きな損傷はない。片方の腕に灰色の菌糸が絡んでいたので、俺はそれを切った。

 進む。

 今度は、さっきより慎重に。

 通路は単純な一本道ではなかった。左右に浅いくぼみがあり、ところどころで黒い石の壁が膨らむように狭くなっている。その狭い場所ほど、床の根が嫌な形で伸びていた。小型キノコは数だけなら多い。だが、それ自体は弱い。問題は、どこで潰すかだった。

 踏ませていい場所。

 斬って落とす場所。

 避ける場所。

 噛みつき花を先に切る場所。

 いちいち見て、選ぶ。

 面倒だ。

 けれど、面倒だからこそ、雑に進んだやつから削られる。

 途中で、もう一体大型が出た。今度は通路の少し広い場所だった。広い分、避ける余裕はある。代わりに、壁際の蕾が多かった。俺は大型の方ではなく、まず花を三つ切った。寄生ゴブリン二体は、その間、大型の正面に立たせない。横へ散らし、小型キノコを蹴り飛ばさせる。

 大型の腕が床を叩く。ぬめりが跳ねる。俺は足を滑らせかけたが、踏みとどまった。前に出たい衝動を抑える。足元を見る。根の束が開く瞬間を待つ。

 待つ。

 待てる。

 制度側の訓練で言われた言葉が、妙なところで頭をよぎった。安定している。待てる。武器に振られていない。あの評価が正しいかどうかは知らない。ただ、今ここで待てなければ、たぶん死ぬ。

 大型が踏み込んだ。

 刃を入れる。

 根の束を裂く。

 寄生ゴブリンが横から足を引っかける。

 倒れたところへ、中心を断つ。

 止まった。

 俺はすぐに倒れたキノコを見た。白い糸が伸びる気配はある。だが、今度は強く食いつく感じではなかった。大型一体目で、必要なものはかなり取ったのかもしれない。白い糸は少しだけ灰色の菌糸に触れ、すぐに戻った。

「もういらないのか」

 返事はない。

 そういうところは本当に徹底している。

 さらに奥へ進むと、小型キノコの数が少し減った。代わりに、床の黒ずんだ根が太くなる。壁際の蕾も増えていた。植物が濃くなっている、というより、配置が嫌らしくなっている。足を置きたい場所に根があり、避けたい場所にぬめりがあり、壁際を通ろうとすると花がある。

 次の何かに繋がっている感じではない。

 ただ、この階層そのものが、奥へ行くほど雑な進み方を許さなくなっている。

 俺は何度か足を止めた。止まるたびに、二体の寄生ゴブリンも止まる。完全に分かっているわけではない。こちらの意図に合わせているだけだ。それでも、止まる。進ませなければ、進まない。

 なら、俺が見なければいけない。

 俺が止めなければいけない。

 使うなら、せめて壊れるまで勝手に進ませるな。

 その程度のことを、俺は自分に言い聞かせながら進んだ。

 やがて、通路の先が広がった。

 黒い石の壁が左右へ開き、天井も少し高くなる。そこに扉はなかった。暗渠らしい、広い開口部だ。ただし、入口の周囲だけ様子が違った。床から伸びた黒ずんだ根が、開口部の内側へ向かって集まっている。壁には灰色の菌糸が厚く張り、ところどころに潰れた傘のような跡がある。大型キノコが通った跡か、それとも最初からそういう場所なのかは分からない。

 中は暗い。

 ライトを向けても、奥までは届かない。湿った空気が流れてくる。甘く腐った匂いが、これまでより濃い。灰色の粉が、開口部の内側でゆっくり舞っている。

 ボス部屋。

 そう判断するのに、理由はいくつもあった。広さ。空気。根の集まり方。入口前だけ、雑魚が近寄っていないこと。なにより、俺の中の嫌な予感がそう言っていた。

 俺はすぐには入らなかった。

 二体の寄生ゴブリンを横に下がらせる。足元を見る。入口の手前には、噛みつき花の蕾が二つ。まず、それを切る。灰色の菌糸が絡んでいる場所も、山刀の先で払う。逃げる時に足を取られたら終わる。

 準備をしているだけだ。

 怖気づいたわけではない。

 そう思いかけて、少しだけ笑いそうになった。

 怖いに決まっている。

 でも、怖いから止まれる。止まれるから、まだ奥へ行ける。

 俺は赤錆の山刀を握り直した。寄生ゴブリン二体は、俺の左右に立っている。声はない。意志も、あるのかないのか分からない。ただ、そこにいる。

 早く進む方法は分かっている。

 こいつらを前に出して、壊れるまで押せばいい。

 けれど、それをやったら、俺は本当にこいつらを道具にする。

 俺はボス部屋の入口にライトを向けた。

「……さて」

 湿った空気の奥で、何か大きなものが、ゆっくり動いた気がした。

 俺は一歩だけ踏み出し、そこで足を止めた。

 キノコ狩りの親玉がいるなら、たぶんこの先だ。


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