第60話 暗渠ダンジョン 5
キノコ狩り。
自分で言っておいてなんだが、あまり笑えない言葉だった。
灰色の傘を持ったキノコみたいなものは、黒い石の通路をゆっくり徘徊している。足はない。目も口もない。ただ、黒ずんだ根を引きずりながら、床を擦るように動いている。その姿だけなら、怖いというより気持ち悪い寄りだ。動きも遅い。近づいてきた一体を、前に出た寄生ゴブリンが踏み潰す。ぐしゃり、と湿った音がして、薄茶色の中身が床に広がった。
弱い。
それは間違いなかった。
だが、踏み潰された跡が問題だった。床にぬめった膜が残り、灰色の菌糸が靴底に絡む。寄生ゴブリンは気にせず足を上げたが、剥がれるまでに一拍遅れた。痛がらない。怯まない。だからこそ、こういう細かい引っかかりに気づくのが遅い。
俺は自分の足元を確認しながら、ゆっくり進んだ。脇腹と右腕の傷は、もう開いてはいない。裂けた服の下に触れても、指に新しい血はほとんど付かなかった。ただ、失った血が戻ったわけではない。服に染みた血も、体の奥に残る重さも、そのままだ。
治ったというより、動けるように誤魔化されている。
そんな感じだった。
通路の空気は重い。湿った土と古い木材、それに甘く腐ったような匂いが混じっている。ライトの光の中に、灰色とも薄茶ともつかない細かい粉が舞っていた。胞子、という言葉が頭に浮かぶ。けれど、喉が焼けるわけでもない。目が痛むわけでもない。息もできる。体も動く。
だからこそ、判断しにくかった。
「……毒じゃない、のか?」
呟いても、返事はない。
体の奥も、騒がない。さっき倒したゴブリンたちを見た時のような、食いつくような反応はなかった。キノコに興味がないのか、それとも別の形で見ているのか。そこまでは分からない。
前方で、寄生ゴブリンの一体がまた灰色のキノコを踏み潰した。二体目、三体目。数はいるが、単体では話にならない。これだけなら、本当にキノコ狩りで済んだかもしれない。
そう思ったところで、左の一体の足が止まった。
いや、止まったというより、進もうとして進めなかった。足首に黒ずんだ根が絡んでいる。床の亀裂から伸びた根が、絡むというより巻きついていた。
「おい、待て」
声をかけたところで、寄生ゴブリンは痛がらない。そのまま無理に足を引こうとする。根が伸び、床の薄い膜がびりびりと剥がれた。引けば抜ける。そう思った瞬間、壁際の灰色がかった蕾が開いた。
花だった。
ただし、俺の知っている花ではない。肉厚の花弁が内側へ折り畳まれ、その縁に細かい棘が並んでいる。蕾だと思っていたものが、口みたいに開き、寄生ゴブリンの脛に噛みついた。
鈍い音がした。
肉を挟む音だ。
そいつは反応しない。正確には、痛みに反応しない。噛まれたまま足を引こうとして、棘が肉に食い込む。黒っぽい血が滲み、裂けた皮膚の隙間から、花弁の棘がさらに奥へ入ろうとしていた。
「それは駄目だ」
俺は慌てて近づいた。引き剥がそうとして、すぐにやめる。花弁の内側の棘が返しのようになっている。無理に外せば、肉ごと持っていかれる。
赤錆の山刀を低く構え、花の根元を狙う。
刃は素直に入った。
湿った繊維に少しだけ抵抗はあったが、押し切る前にすっと抜ける。花の茎が落ち、噛みついていた花弁が力を失った。寄生ゴブリンの脛から、ずるりと外れる。
「植物相手だと、かなり通るな」
思わずそう言った。
普通の鉈だったら、ここまで簡単にはいかなかったと思う。切れないわけではないだろうが、何度か叩きつけるか、力任せに押し込む必要があったはずだ。その間に、噛まれた方の肉はさらに裂ける。人間なら、悲鳴を上げて動きも止まる。
俺は寄生ゴブリンの脛を見た。血は出ている。だが、その足で普通に立っていた。立ててしまっている。
便利だ。
でも、やっぱり不便だ。
痛がらないから前に出せる。痛がらないから止まらない。止まらないから、放っておけば壊れるまで進む。
「これ、本当に管理が面倒だな」
返事はない。
ただ、俺が前へ出すぎるなと思ったせいか、二体の寄生ゴブリンは半歩ほど下がった。命令ではない。言葉もない。だが、こちらの感覚に合わせて、立ち位置だけが変わる。
通路はさらに奥へ続いていた。小型の歩くキノコは相変わらずいる。踏めば潰れる。斬れば崩れる。ただ、潰すたびに床が悪くなる。灰色の菌糸が広がり、黒ずんだ根が足元に絡み、壁際には噛みつく花が混じっている。弱いものが多い場所は、弱い場所ではない。
そう思った時、奥から重い音がした。
ずる、ではない。
どすん。
床を踏む音だった。
ライトを向ける。
通路の奥で、大きな灰色の傘が揺れた。
「……でか」
高さは、二メートル近い。
小型の歩くキノコをそのまま大きくした、というには雑だった。太いくすんだ柄から、腕のようなものが二本伸びている。菌糸が束になったような腕だが、先端は黒く硬質化していた。足元も同じだ。黒ずんだ根が何本も絡み合い、太い脚のようになっている。
顔はない。
目も口もない。
けれど、こちらを向いた、と分かった。
大型のキノコが一歩踏み出す。床のぬめった膜が潰れ、周囲の小さなキノコが押しのけられた。動きは速くない。けれど、一歩が重い。
寄生ゴブリンの一体が前に出た。
止めようとしたのだと思う。あるいは、俺がそうしてほしいと思ったのかもしれない。
大型の腕が横から振られた。
受ける音がした。
次の瞬間、寄生ゴブリンの体が横へ飛んだ。壁に叩きつけられ、黒い石の上を転がる。硬質化した腕の先端は、植物というより、木の根を石で固めたような質感だった。あれを防具なしの腕で受けたら、骨ごといく。
「受けるな」
言ってから、言葉では通じないことを思い出す。
それでも、思った。
受けるな。
押さえるな。
避けろ。
もう一体が、大型キノコの横へ回る。だが、足元の根に一瞬引っかかった。その半拍の遅れに、大型キノコの硬い脚が振られる。蹴りというより、根の束を叩きつける動きだった。寄生ゴブリンは避けきれず、肩口を打たれて膝をつく。
俺は前に出た。
赤錆の山刀を振る。
狙ったのは腕だ。硬質化した先端ではなく、その少し上。くすんだ柄から伸びる繊維の束。刃は入った。入ったが、浅い。硬い部分に近いせいか、刃が途中で押し返される。
「っ、硬いな」
大型キノコの腕が戻ってくる。
俺は身を引いた。風圧、というほど綺麗なものではない。ただ、重いものが横を通った。ヘルメットの端にかすり、視界がぶれる。受けていたら危なかった。
次に傘を狙った。
灰色の大きな傘は、見た目だけなら柔らかそうだった。刃を入れると、そこは確かに切れた。湿った繊維が裂け、傘の端が大きく落ちる。だが、大型キノコは止まらない。痛がる様子もない。体勢もほとんど変わらない。
「こいつ、どこ斬れば止まるんだよ」
思わず声が出た。
ゴブリンなら分かる。腕、足、首、目、腹。人型なら、どこを潰せば動きが落ちるか大体想像がつく。だが、キノコに心臓があるのか。脳があるのか。そもそも頭に見える傘が頭なのか。それすら分からない。
大型キノコが踏み込む。
足元の小型キノコが潰れ、灰色の粉が舞った。薄茶色の胞子がライトの光の中で広がる。俺は息を止めかけて、すぐにやめた。苦しくない。痺れもない。喉も痛まない。
おかしい。
普通なら、これは何かしら効いてもよさそうだ。
けれど、考えるのは後だ。
硬質化した腕が振り下ろされる。俺は横に転がり、床のぬめりで肘を滑らせた。立ち上がるより早く、噛みつき花の蕾が近くで開く。俺の足ではない。さっき壁に叩きつけられた寄生ゴブリンの腕に食いつこうとしていた。
「余計なことするな」
赤錆の山刀を振る。花の茎が落ちる。植物相手には通りがいい。そこは助かる。
大型キノコが、こちらへ向き直る。
傘を斬っても止まらない。
腕は硬い。
柄を切っても、たぶん厚すぎる。
俺は足元を見た。
黒ずんだ根の束。
大型キノコの脚に見える部分は、細い根が何本も絡まって太くなっている。硬質化しているのは外側だ。だが、踏み出すたび、根の内側がわずかにずれる。完全な一本の脚ではない。
そこか。
俺は寄生ゴブリン二体を見た。
言葉は通じない。
だが、止めるな、受けるな、邪魔をしろ。そう思う。
二体が動いた。
一体が正面に出る。大型キノコの腕がそちらへ向く。受けるなと思った瞬間、その寄生ゴブリンは腕の下へ沈むように身を低くした。完全に避けたわけではない。肩をかすめ、肉が削れる。それでも、正面では受けなかった。
もう一体が横から足元へ絡む。
大型キノコの根の束が一瞬止まる。
そこへ俺は踏み込んだ。
低く。
足元へ。
赤錆の山刀を横に走らせる。
刃が黒ずんだ根の束に入った。外側は硬い。だが、角度を変えて内側へ入れると、湿った繊維がまとめて裂ける。一本、二本ではない。絡んでいた根が、束ごとほどけるように切れた。
大型キノコの体が傾く。
すぐには倒れない。
逆側の根で踏ん張ろうとする。そこへ、寄生ゴブリンが体当たりした。綺麗ではない。力任せだ。だが、傾いた体には効いた。
灰色の傘が壁にぶつかる。
俺はもう一度、足元へ刃を入れた。
根の束が切れる。
大型キノコが崩れた。
倒れたところへ、柄の付け根を狙って山刀を振り下ろす。傘ではない。腕でもない。根と柄が集まる中心あたり。そこに刃が入った瞬間、大型キノコの動きが止まった。
完全に死んだのかは分からない。
ただ、もう起き上がろうとはしなかった。
「……一体でこれかよ」
息を吐く。
強敵、というほどではない。レッドキャップとは比べものにならない。大柄なゴブリンほどの圧もない。
だが、面倒だ。
硬いところを受ければ危ない。柔らかいところを斬っても止まらない。弱点が分かるまでに、周りの小型キノコが足場を悪くし、根が絡み、花が噛む。これを相手にしながら、足元まで見続ける必要がある。
普通に一人でやる場所じゃない。
そう思ったところで、倒れた大型キノコの中から、灰色の菌糸がほどけるように広がった。胞子が薄く舞う。俺は身構えたが、体は動く。やはり、痺れも重さもない。
その代わり、右手の爪の間から白い糸が伸びた。
ゴブリンの時とは違う。
動かすために入り込むのではない。立たせるためでもない。倒れた大型キノコの柄、根、傘の裏へ、白い糸が細く広がっていく。灰色の菌糸が、内側から乾いていくように萎んだ。
「食うのか」
返事はない。
止める理由も、すぐには思いつかなかった。
ゴブリンを動かす時とは違う。これは立たせるものではない。足元に転がる巨大なキノコは、もう動かない。白い糸は、その残ったものをほどいて、何かを抜き取っているように見えた。
しばらくして、体の表面に触れていた細かい粉の感触が薄れた。
何かが軽くなった、というより、触れていたものが触れなくなった。服や皮膚に粉は付いている。空気も変わっていない。けれど、その粉がこちらへ入り込もうとする感じだけが、意味を失ったように遠くなる。
俺は息を吸った。
やはり苦しくはない。
だが、さっきよりもさらに、何も感じない。
「……元から効いてなかった、のか?」
分からない。
ただ、粉っぽい空気の中をこれだけ歩き、潰し、斬っているのに、俺の体は何も訴えてこない。寄生ゴブリンたちも同じだ。傷口に菌糸が入り込む様子もない。
寄生体。
スライムの核片。
これまでに食ったもの。
そのどれか、あるいは全部が、俺たちを最初から守っていたのかもしれない。
そして今、大型のキノコを食ったことで、その守り方が少しはっきりした。
毒を消すとか、病気を治すとか、そういう万能なものではないと思う。
もっと物理的なものだ。
粉が入る。痺れさせる。筋肉を鈍らせる。菌糸が食い込む。絡む。動きを奪う。そういう、体そのものに働く邪魔を、表面で止める感覚。
言葉にすると雑だが、実感としてはそれに近かった。
俺は倒れた大型キノコから山刀を抜き、刃に付いた湿った繊維を振り落とした。
奥から、また重い音がした。
どすん。
一度。
少し間を空けて、もう一度。
ライトを向けると、通路のさらに奥で、灰色の大きな傘が揺れた。さっき倒したものと同じくらいの大きさだ。二メートル近い影が、黒い石の壁の向こうをゆっくり横切っていく。
「……普通にいるのか」
ボスではない。
たぶん、ここの巡回個体だ。
一体倒して終わりではない。珍しい敵でもない。歩くキノコがいて、噛みつき花がいて、根が絡み、大型のキノコが通路を歩く。そういう階層なのだ。
俺は寄生ゴブリン二体を見た。片方は脛から血を流している。もう片方は肩を削られている。それでも立っている。立ててしまっている。
本来なら、複数人で見る場所だ。
一人が大型を引きつける。一人が足元を見る。一人が花を処理する。一人が小型を潰して足場を作る。そんな役割分担が必要になる。俺には寄生ゴブリンがいる。だが、こいつらは仲間というより、放っておけば勝手に削れていく道具に近い。
そう考えて、少しだけ気分が悪くなった。
「……道具、か」
口に出してから、自分で嫌になった。
返事はない。
寄生ゴブリンも、寄生体も、何も言わない。
通路の奥で、また大型の影が動く。小型の灰色の傘が、その足元でいくつも揺れている。床にはぬめった膜が広がり、黒ずんだ根が通路の端から中央へ伸びていた。
キノコ狩り。
さっきはそう思った。
けれど、これはたぶん、狩りではない。
足元から削られる場所だ。
俺は赤錆の山刀を握り直し、まず寄生ゴブリンの足に絡んだ灰色の菌糸を切った。




