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第59話 暗渠ダンジョン 4


 ボス部屋は、記憶より広く見えた。前に来た時も広いと思ったはずだ。けれど、今はそれ以上に空間が空いているように感じる。壁も床も黒い石で、ライトの光を吸うように鈍く沈んでいる。以前ここで流れた血も、倒れたゴブリンの痕跡も、レッドキャップが残した気配も、ほとんど残っていない。ダンジョンの中では、死体も血も消える。分かっていたことだ。それでも、何もなかったみたいな顔をされると、あれは本当に起きたことだったのかと、少しだけ疑いたくなる。

 俺の前で、二体の寄生ゴブリンが左右に散った。命令したわけではない。ただ、そうした方がいいと俺が思った。正面に固まるより、左右に分かれた方がいい。そう考えた瞬間、二体は足音を殺すように横へ動いた。言葉ではない。会話でもない。俺の中にある何かを経由して、こちらの意図に近い形が伝わっているだけだ。その線を、俺は自分の中で何度も引き直す。こいつらに話しかけても、返事はない。寄生体も、返事はしない。

 俺は赤錆の山刀を握り直した。刃は黒い石の床から跳ね返った光を受けても、明るくはならない。赤黒い色のまま、静かにそこにある。

 奥から、足音がした。一体ではない。三体。いや、四体だ。

 まず出てきたのは、赤黒い布を巻いたゴブリンだった。普通のゴブリンより少し大きい。肩幅があり、手には石刃の短い鉈のようなものを持っている。布は裂けているのに、腰や腕に何枚も巻きつけられていて、どこか儀式めいて見えた。その三体の後ろから、もう一体が出てくる。

 そいつは明らかに大きかった。レッドキャップほどではない。あの理不尽な速さも、あの場の空気を変えるような圧もない。だが、普通のゴブリンとは別物だった。背が高く、腕が太い。頭から肩にかけて赤黒い布を垂らし、片手に石鉈、もう片方の腕に骨を組み合わせたような盾を持っている。

「……近いな」

 思わず呟いた。レッドキャップそのものではない。けれど、近い。赤い布。石鉈。骨の盾。大柄な体。あの個体の手前にいる、近縁みたいなもの。

 そう思った瞬間、大柄なゴブリンが喉を鳴らした。それが合図だった。三体のゴブリンが左右に広がる。こちらの寄生ゴブリン二体が動いた。正面からぶつかるのではなく、左右へ散った敵を押さえようとする。俺は一歩遅れて前に出た。

 右側の一体が、俺ではなく寄生ゴブリンへ向かう。石刃が振り下ろされ、肩に食い込んだ。普通なら怯む。痛みに体が止まる。だが、そいつは止まらなかった。肩を割られたまま踏み込み、相手の胴へ頭からぶつかる。鈍い音がした。敵のゴブリンがよろめく。そこへ俺が入った。

 赤錆の山刀を横から振る。石刃で受けようとしたゴブリンの腕ごと、刃が通った。骨に当たる感触はあったが、そこで止まらない。湿った抵抗を裂いて、そのまま抜ける。よく切れる。そう思うくらいには、通りがよかった。ただ、喜んでいる暇はない。

 大柄なゴブリンが来た。骨の盾を前に出し、石鉈を肩の高さに構えている。動きは速くない。レッドキャップとは違う。見てから反応できる。だが、重い。骨の盾が、俺の正面を塞ぐ。俺は山刀を振り下ろした。

 刃が骨に入る。入った。だが、割れない。

「っ」

 思ったより硬い。骨の盾はただの骨ではなかった。何枚もの骨を重ねて、隙間を黒い何かで固めてある。赤錆の山刀の刃は表面に食い込んだが、一撃で断ち切れるほどではない。そのまま盾ごと押し込まれた。足が滑る。床に残っていた血か、何かの粘液か。靴底がわずかにずれた瞬間、横から小柄なゴブリンが飛び込んできた。

 視界の端で、石刃が光る。避けきれなかった。左脇腹の服が裂けた。熱いものが皮膚をなぞり、すぐに痛みが遅れてくる。深くはない。そう判断するより早く、体の内側が勝手に傷口を押さえるような感覚があった。止血。痛みの鈍化。助かる。助かるが、これは本当に助かっているだけなのか。考えかけたところで、大柄なゴブリンの石鉈が振り下ろされた。

 俺は横に跳んだ。跳んだ、というより転がった。石鉈が床を叩く。黒い石の床に火花のようなものが散り、砕けた小石が頬に当たった。体勢を崩した俺の前に、寄生ゴブリンの一体が割り込む。骨の盾が、その体を殴りつけた。首がありえない角度に曲がる。それでも倒れない。足を踏ん張り、大柄なゴブリンの盾にしがみついた。もう一体が横から飛びかかり、敵の膝に食らいつく。

 痛がらない。逃げない。便利だ。だが、便利という言葉だけで片付けていい光景ではなかった。

 俺は床の小石を蹴り上げるように拾った。正確に狙う余裕はない。大柄なゴブリンの顔、というより、布の隙間に向けて投げる。小石は目に当たったのか、額に当たったのか分からない。それでも一瞬、盾の角度がずれた。そこへ踏み込む。骨の盾の端ではなく、足だ。大柄なゴブリンの膝裏へ、赤錆の山刀を低く走らせる。

 刃が入った。肉と筋が切れる感触が、手の中に返ってくる。大柄なゴブリンが片膝をついた。石鉈が横薙ぎに振られる。俺は腕を引いたが、完全には避けられない。刃の端が右腕をかすめ、防護服の上から皮膚を裂いた。また血が出る。痛い。痛いはずなのに、痛みが途中で丸められる。

「本当に、便利すぎるな……」

 声に出したのは、たぶん自分を落ち着かせるためだった。

 大柄なゴブリンが立ち上がろうとする。寄生ゴブリンが盾に絡みつき、もう一体が足元を押さえる。動きは綺麗ではない。戦術とも呼びたくない。ただ、邪魔をしている。相手の自由を奪っている。

 俺は山刀を両手で持った。首は狙わない。盾も狙わない。布の下、肩から胸へかけて、骨の隙間が見える場所へ刃を入れる。大柄なゴブリンが唸った。石鉈が俺の頭へ向かう。間に合わない。

 そう思った瞬間、肩の奥から熱が走った。足が勝手に半歩ずれる。完全に避けたわけではない。石鉈がヘルメットの横を叩き、視界が揺れた。耳の奥で音が潰れる。それでも、手は止まらなかった。

 山刀の刃が、胸の奥へ抜けた。大柄なゴブリンの体が硬直する。そこからさらに押し込む。刃が骨に当たり、少しだけ角度を変えると、そのまま通った。体が崩れる。骨の盾が床に落ちた。

 最後の一体が逃げようとした。いや、逃げるというより、距離を取ろうとしたのかもしれない。赤黒い布を揺らしながら、部屋の奥へ下がる。俺は追わなかった。追う前に、寄生ゴブリンが動いた。首の曲がった一体が、走るというより倒れ込むように前へ出る。逃げるゴブリンの足にしがみつき、転ばせた。もう一体が上から押さえる。石刃が振り回され、顔に食い込む。それでも離さない。俺は近づいて、山刀を振り下ろした。鈍い抵抗。それから、静かになる。

 ボス部屋に、俺の呼吸だけが残った。

 いや、俺の呼吸だけではない。床に倒れた敵の体の中で、何かが小さく動いている。

 白い糸だった。

 止めようと思えば、止められたのかもしれない。少なくとも、俺はその瞬間、見ていた。倒れたゴブリンの傷口に、白いものが伸びていくのを。さっきまで敵だったものの内側へ、細く、静かに入り込んでいくのを。

 俺は止めなかった。止めろ、とも思わなかった。奥へ行くなら、数がいる。背後を守るものもいる。そう考えた。考えてしまった。

 倒れたゴブリンの指が動く。一体。二体。三体。最後に、大柄なゴブリンも、胸に開いた傷をそのままにしてゆっくりと上体を起こした。さっきまで敵だったものが、俺の方を向く。目に光はない。声もない。ただ、立っている。

 六体。

 増えた。

「……増えたな」

 それ以上の言葉は出なかった。

 寄生ゴブリン。

 口に出したわけではない。ただ、頭の中でそう呼ぶしかなかった。ゴブリンだったもの。白い糸に動かされているもの。俺の中にいる寄生体と、何かで繋がっているもの。

 呼びかけても返事はない。命令したつもりもない。だが、俺が入口側を見れば、四体がそちらへ向きを変えた。大柄な個体を含めた四体が、ボス部屋の入口側へ散る。俺は、それを見送った。見張り。そう考えたから、そう動いた。

 残った二体が、俺の近くに立つ。最初から連れていた二体だ。どちらも壊れている。肩は割れ、首は曲がり、顔には石刃の跡がある。それでも立っている。血の匂いが濃い。俺自身の血も混じっている。裂けた服の下に手を当てると、傷はもう塞がりかけていた。脇腹も右腕も、まだ熱はある。だが、流れている血は少ない。皮膚の下で何かが忙しく動いているような感覚がある。

「……無茶苦茶だな」

 返事はない。だが、体は動く。奥へ行ける。その事実だけが、今は残った。

 俺は骨の盾を見た。持っていくには大きい。石鉈も同じだ。赤錆の山刀ほど使いやすいとは思えないし、これ以上荷物を増やす余裕もない。それでも、骨の盾に入った刃跡だけは見た。一撃で割れなかった。赤錆の山刀でも、何でも簡単に切れるわけではない。覚えておくべきことだ。

 ボス部屋の奥には、前に気づかなかった段差があった。黒い石が階段のように沈み、下へ続いている。階段と言うには幅が不揃いで、自然に削れたようにも、誰かが雑に作ったようにも見えた。そこから、空気が上がってくる。湿っている。けれど、下水や泥の匂いとは違う。湿った土と、古い木材と、少しだけ甘い腐敗臭が混ざったような匂いだった。

「下、か」

 俺はライトを向けた。階段の先は暗い。黒い石の壁はそのままだが、隙間に灰色の筋が見えた。細い根のようなものが、石の割れ目から這い出している。

 二体の寄生ゴブリンが先に降りる。俺は数段遅れて続いた。下へ進むほど、足元の感触が変わった。硬い石の上に、薄い膜のようなものが張っている。靴底がわずかに沈む。湿ったものを踏む音が、階段の中で小さく響いた。

 最初、虫かと思った。床の端に、小さな黒い点がいくつも動いている。壁の隙間にも、細い脚のようなものが出入りしていた。だが、それより目立つものがあった。灰色の傘。黒い石の床から、キノコのようなものが生えていた。

 高さは膝より少し下。くすんだ柄に、灰色の丸い傘。傘の裏はひだになっていて、ライトを当てると湿った光を返した。根元からは灰色の菌糸のようなものが床へ伸びている。普通のキノコなら、それだけで終わりだ。

 だが、その一つが、ずる、と動いた。

「うわ」

 思わず声が出た。灰色の傘が、ゆっくりこちらへ向きを変える。目も口もない。足もない。ただ、黒ずんだ根のようなものを引きずって、床を擦りながら近づいてくる。速くはない。むしろ遅い。

 寄生ゴブリンの一体が前に出て、それを踏み潰した。ぐしゃり、と湿った音がして、灰色の傘が潰れる。湿った薄茶色の中身が床に広がり、周囲にいた小さな虫が散った。

「弱いな」

 弱い。少なくとも、今のボス部屋の連中とは比べものにならない。けれど、弱いから安全、とは言えなかった。踏み潰された跡に、ぬめった膜のようなものが残っている。一体が足を上げると、靴底に絡んだ灰色の菌糸が、少し遅れて床から剥がれた。

 俺はその動きを見て、眉を寄せた。こいつらは痛がらない。だから便利だ。だが、痛がらないということは、足を取られても、何かが絡んでも、気づくのが遅いということでもある。

「お前ら、雑に進むなよ……って言っても、どこまで通じてるんだか」

 返事はない。二体の寄生ゴブリンは、ただ前に立っている。

 通路の奥には、同じ灰色の傘が点々と生えていた。そのいくつかは床から生えているだけで、いくつかはゆっくり動いている。黒い石の隙間からは、黒ずんだ根のようなものが何本も伸びていた。根は床を這い、壁を伝い、ところどころで灰色がかった蕾のような塊を作っている。

 虫の階層ではない。虫はいる。けれど、主役はたぶん虫じゃない。ここは、もっと湿っていて、もっと鈍いものが増える場所だ。

 俺は山刀の刃を軽く振って、付いた血を落とした。下へ行くほどゴブリンが強くなる、というだけなら分かりやすかった。だが、どうやらそういう単純な話でもないらしい。灰色の傘が、通路の奥で一つ、また一つと動き出す。赤錆の山刀を握る手に、少しだけ力が入った。

「……キノコ狩りかよ」

 冗談のつもりで言ったが、あまり笑えなかった。

 二体が前に出る。俺はその後ろで、足元の黒ずんだ根を踏まないように、ゆっくりと暗渠のさらに奥へ進んだ。


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