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第58話 暗渠ダンジョン 3

 ボス部屋に近い通路の空気は、昨日より重かった。

 ライトの光が黒い石の壁を撫でる。奥へ伸びる通路の先は、以前逃げ込んだ広い空間へ続いている。あの時は、とにかく生きて帰ることしか考えていなかった。今は山刀を持ち、前には二体のゴブリンがいる。

 状況だけ見れば、ずいぶん頼もしくなったようにも思える。

 ただし、その頼もしさの出どころが全部怪しい。

 俺は山刀の柄を握り直した。赤黒い刃はライトを受けても光らない。錆びているような色なのに、刃先だけは妙に薄く、触らなくても危ないと分かる。

 二体のゴブリンは、俺より先に通路の奥を見ていた。昨日のやつが左寄り、増えた方が右寄り。こちらが頼んだわけでもないのに、自然と通路を塞がない位置に分かれている。

 便利だ。

 そう思った瞬間、胸の奥に嫌な引っかかりが残った。

 便利になっているのは、俺だけではない気がする。

 通路を少し進むと、乾いた足音が聞こえた。

 二体のゴブリンが同時に低く身を沈める。俺もライトを下げ、壁際へ寄った。奥の角から、小柄な影が一つ現れる。濁った目。粗いこん棒。昨日間引いたはずの、いつものゴブリンだった。

 数が完全に戻ったわけではない。

 だが、ゼロにもなっていない。

「……もう湧くのか」

 小さく呟く。

 昨日倒した死骸は消えた。残った痕跡も薄い。なら、補充される可能性は考えておくべきだった。国所有ダンジョンでも、出現数や再出現間隔は記録対象だったはずだ。ここには記録担当がいない。俺が見て、覚えるしかない。

 ゴブリンがこちらに気づいた。

 濁った声を上げ、こん棒を振り上げる。

 二体の眷属ゴブリンが前へ出かけた。

「待て」

 声に出したつもりだったが、実際にはほとんど息に近かった。

 それでも、二体は止まった。

 ぴたり、ではない。足の出方が鈍り、肩の位置が下がり、俺の横に残る。命令を理解したというより、こちらの体の奥で生まれた制止が、二体の動きに混ざったように見えた。

 便利だ。

 やっぱり、気持ちが悪い。

 俺はその感想を飲み込み、前へ出た。

 今日は山刀を使う。

 この先に何がいるか分からない以上、持ってきただけで満足している場合ではない。どれくらい振れるのか。どの距離なら届くのか。相手の動きに対して、どこまで体がついていくのか。暗渠の奥で試すなら、今がちょうどいい。

「悪いな」

 何に対して謝ったのかは、自分でも曖昧だった。

 ゴブリンが踏み込んでくる。こん棒は大振り。軌道は見える。俺は半歩下がり、山刀を斜めに振った。

 刃がこん棒に当たった。

 重い音がすると思った。

 違った。

 木が割れる音は、思ったより軽かった。

 こん棒の先が斜めに裂け、勢いを失ったゴブリンの腕ごと横へ流れる。俺はそのまま一歩踏み込み、刃を返した。深く狙ったつもりはない。だが、赤黒い刃は相手の首元へ吸い込まれるように入った。

 ゴブリンが崩れた。

 血の匂いが立ち、すぐに薄れ始める。

 俺は山刀を構えたまま、少しの間動けなかった。

「……刃物があるって、こんなに楽になるのか」

 思わず声が出た。

 トレッキングポールで弾くなら、相手の手首を狙い、体勢を崩し、倒れたところを確認する必要がある。投石なら距離と角度がいる。外せば詰められる。石も毎回都合よくあるとは限らない。

 だが、刃物は違う。

 当てれば終わる。

 いや、正確には、終わらせる場所が増える。

 こん棒を割る。腕を止める。踏み込みを潰す。首や胴に届けば、その時点で勝負が傾く。俺が強くなったというより、道具の持つ暴力があまりにも分かりやすい。

 文明のこん棒などと言っていたが、刃物は刃物で別の文明だった。

 しかもこれは、たぶん普通の刃物ではない。

 俺は刃先を見た。

 赤錆のような色は変わらない。血を吸ったようにも、汚れたようにも見えない。ただ、今ゴブリンを斬った感触だけが手に残っている。

「そりゃ、レッドキャップも持つわ」

 嫌な納得だった。

 倒れたゴブリンの輪郭が薄くなっていく。残ったこん棒の破片も、しばらくすると床の色に溶けるように見えなくなった。

 二体の眷属ゴブリンは、俺を見ていた。

 表情は読めない。拍手もしない。そもそも手を叩かれても困る。ただ、俺が山刀を使ったこと、その結果として前の敵が消えたことを、低い位置から見ている。

 昨日のやつが、奥へ顔を向けた。

 まだいる。

 そう言われた気がした。

 もちろん言葉ではない。

 俺は山刀を軽く振り、手首の感覚を確かめた。重い。だが、振れない重さではない。片手でも扱えるが、無理に速く振ると手元が流れる。狭い通路で大きく振り回せば壁に当たる。突くより、短く斜めに落とす方がいい。

 考えることが多い。

 ただ、投石と棒だけでどうにかしていた頃より、選択肢は明らかに増えている。

 次の角を曲がる前に、俺は二体へ手を向けた。

「先に出すぎるな」

 言ってから、自分で苦笑しかける。

 通じるはずがない。

 だが、二体は角の手前で止まった。片方が低く、もう片方が壁際。俺のライトが届く位置を空けている。

「……通じてるっぽいのが嫌なんだよな」

 返事はない。

 奥から、二体目の普通のゴブリンが出てきた。

 今度は石刃持ちだった。粗い石を削っただけの短い刃。人間相手なら十分危ない。こっちの山刀と比べると、武器というより尖った石だが、近づかれれば怪我はする。

 眷属ゴブリンが片方、飛び出しかける。

 俺は肩に力を入れた。

 止まれ、と思う。

 声には出さない。

 それでも、眷属は床を蹴る直前で止まった。

 白いものが、体の奥で細く震える。

 俺の意思なのか、寄生体の補助なのか、二体への伝達なのか。切り分けようとしても、境目が見えない。

 今は後回しだ。

 俺は山刀を前へ出し、石刃持ちのゴブリンを迎えた。

 相手は低く跳ねるように来る。顔ではなく腹を狙っている。俺はライトを少しずらし、視界の端で石刃を追った。トレッキングポールなら弾くところだ。今回は山刀を下げ、相手の手元へ刃を置くように振る。

 硬いものに当たる感触。

 石刃が欠けた。

 ゴブリンの腕が跳ね、体勢が浮く。そこへ、山刀の柄尻を押し込むようにして肩を打った。刃ではなく柄で崩す。倒れかけたところを、短く斬る。

 大きく振らなくてもいい。

 刃が触れるだけで、相手の動きが止まる。

「楽だな、本当に」

 嬉しいというより、怖いくらいだった。

 これを知ってしまうと、棒には戻りづらい。もちろん、外で使えるものではない。国所有ダンジョンに持ち込めるはずもない。動画に映れば終わる。警察に見つかっても終わる。

 だから、これは暗渠の中だけだ。

 俺が隠している場所で、俺が隠している武器を使う。

 どんどん戻れない方向へ進んでいる気がする。

 それでも、山刀を手放す気にはなれなかった。

 倒したゴブリンが薄れていくのを待ってから、俺は刃先を床に向けた。呼吸を整える。肩に力が入りすぎている。握りも強い。切れると分かった途端に頼りたくなるのは、危ない。

 強い道具ほど、使う側が雑になる。

 そこは覚えておいた方がいい。

 二体の眷属ゴブリンは、まだ前に出ない。俺の歩幅を待つように、曲がり角の先で止まっている。

 昨日は、こいつらが前にいることを嫌だと思った。

 今も嫌だ。

 ただ、別の感情が混ざり始めている。

 隊列。

 索敵。

 囮。

 そんな単語が、自然に頭へ浮かぶ。

 俺はその考えを振り払うように、山刀を軽く持ち直した。

「利用するにしても、飲まれるな」

 自分に向けて言った。

 白いものは何も返さない。二体のゴブリンも黙っている。暗渠の奥だけが、こちらを待っているように静かだった。

 ボス部屋の入口に着く頃には、普通のゴブリンを三体処理していた。

 多い、というほどではない。昨日間引いた分が、少し戻った程度だろう。だが、放置していればまた増える。暗渠を未申告のまま隠すなら、定期的に見に来る必要がある。

 それはもう、探索というより管理だった。

 管理者でもないのに、管理している。

 役所に出せない場所を、自分だけで。

 笑えるほど筋が悪い。

 広い空間の前で、二体の眷属ゴブリンが止まった。

 昨日と同じ場所だ。

 空気が重い。奥に何かがいる。見えないのに、壁の向こうから湿った圧が来る。山刀を持っていても、安心できる感じではなかった。

 俺はライトを少し上げる。

 入口の床に、浅い傷が増えていた。爪跡か、武器を引きずった跡か。前に来た時には気づかなかったものだ。

 山刀の柄を握る手に、汗が滲む。

 刃物があれば楽になる。

 それは分かった。

 だが、楽になるのはゴブリン相手までかもしれない。

 この先にいるものに通じるかは、まだ分からない。

 二体の眷属ゴブリンが、低く身を沈めた。

 入る気だ。

 俺は一度だけ息を吐き、山刀を構え直した。

「試し切りは終わりだ」

 声は、自分で思ったより落ち着いていた。

 ここから先は練習ではない。

 そう言い聞かせるために、もう一度だけ刃先を見た。

 赤黒い山刀は、何も答えない。

 ただ、手の中で妙に馴染んでいる。

「行くぞ」

 二体のゴブリンが先に動いた。

 俺はその背中を追い、一層のボス部屋へ足を踏み入れた。


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