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第57話 暗渠ダンジョン 2

 暗い。冷たい。石の匂いがする。

 黒い石の外へ、熱が離れていった。

 湿った水路の匂い。遠い音。広い空気。そこへ向かって体が傾き、けれど足は境目で止まる。

 爪が石を擦った。

 喉が鳴る。

 白いものが、体の奥で細く蠢く。

 境目の向こうには出ない。

 出られないのか、出る必要がないのか。その形は、どこにも結ばれなかった。

 ただ、入口の方へ体が向く。

 熱の残りが、まだそこにある。


 奥から音がした。

 小さい足音。濁った息。粗い木が石を擦る音。

 背の低い同じ形。似た匂い。けれど、体の奥が強く縮む。歯がむき出しになり、足が前へ出た。

 相手が声を出す。こん棒が振られる。肩に当たる。痛みはある。だが、遠い。押し返す。腕を掴む。倒す。石の床へ押さえつける。

 相手が噛む。

 こちらも噛む。

 裂けたところから、白いものが伸びた。

 相手の体が跳ねる。背中が反り、指が曲がり、喉から濁った音が漏れる。こん棒が床を叩き、転がった。

 跳ねる。

 反る。

 濁った息が途切れる。

 やがて、その体が静かになった。

 倒れていたものが、腕をつく。

 膝を立てる。

 こちらを見る。

 噛みつく力は、もう来ない。

 白い筋が、別の体の奥にも残っている。

 二つの体が、同じ入口の方を向いた。

 黒い石の通路に、低い呼吸が二つ並んだ。


 目が覚めた時、天井を見たまましばらく動けなかった。

 夢を見た、という感覚だけが残っている。暗い石の通路。濁った息。床を擦るこん棒の音。低い位置から見る入口。自分の手ではない手。自分の足ではない足。

 あまり気分のいい夢ではない。

 それでも、ただの夢だと片付けるには、感触が生々しすぎた。

「……昨日のせいか」

 俺は起き上がり、顔を洗った。

 昨日、暗渠の中にゴブリンを一体置いてきた。置いてきた、という言い方がまずおかしい。倒すはずだったゴブリンが、俺の中の白いものに触られて、敵ではない何かになった。帰る時には入口の内側で立ち止まり、こちらを見送っていた。

 あれがまだいるのか。

 いなくなっているのか。

 そこを確かめないまま奥へ進むのは、さすがに落ち着かない。

 今日は確認だけではない。昨日、一層のボス部屋手前までは見た。今日はそこから先も見る。そのために、俺は押し入れの衣装ケースを開けた。

 布に包んだ赤錆の山刀が、奥に沈んでいる。

 手に取ると、不思議なほど手に馴染んだ。刃は赤黒く、錆びているようで錆びていない。持ち歩いていい物ではない。見つかったら説明できない。制度側に出せないどころか、普通の警察相手にも出せない。

 だからこそ、暗渠の奥へ持っていく。

 矛盾しているのは承知している。だが、暗渠は俺の始まりの場所で、レッドキャップがいた場所だ。昨日の一層確認だけならともかく、今日は奥へ行く。トレッキングポールと投石だけで済むと思う方が甘い。

 俺は山刀を布で巻き直し、ザックの底へ入れた。街中で見えないように、余計な音がしないように。ほかにはライト、予備電池、手袋、飲み物、タオル。短棒は持たない。ナイフも持たない。表向きは、少し荷物の多い散歩か、川沿いの作業帰りに見える程度に抑える。

 現代日本で蛮族をやるには、まず移動が面倒だ。


 暗渠の入口は、昨日と同じように何も変わっていなかった。

 看板もない。規制線もない。通行人は川沿いの道を普通に歩いている。ここに何があるのか、誰も知らない。知らないまま通り過ぎる。

 俺は周囲を確認してから暗渠へ入り、記憶にない横道の前で足を止めた。外の水路は湿っているのに、横道の奥からは乾いた石と土の匂いが流れてくる。昨日より濃い、気がした。

「いるのか」

 返事はない。

 あるわけがない。

 俺はライトを向け、横道に入った。

 黒い石の通路に足を踏み入れてすぐ、前方で何かが動いた。反射的にトレッキングポールを構え、足元の石を探る。

 ゴブリンがいた。

 昨日のやつだ。

 頭の打撃痕が残っている。濁った目。短い体。だが、こちらへ飛びかかってくる気配はない。通路の端に立ち、俺の方を見ている。

 そこまではいい。

 問題は、その横にもう一体いたことだった。

 同じくらいの背丈。手にはこん棒を持っていない。肩のあたりに噛み跡のような裂け目があり、その奥に白い筋がちらついた気がした。そいつも、こちらを見ている。襲ってくる気配はない。

「……二匹に増えてやがる」

 声が暗渠の中で妙に軽く響いた。

 笑うところなのか、怖がるところなのか、自分でも処理に困る。昨日一体置いてきたら、今日二体になっていた。畑の作物でももう少し遠慮する。

 二体のゴブリンは動かなかった。俺が一歩踏み込むと、昨日のやつがほんの少し前に出る。庇うようにも、こちらを押しとどめるようにも見えた。もう一体は斜め後ろに立ち、通路の奥へ体を向けている。

 昨日と同じだ。

 俺の前に出る。俺が行こうとする方向を先に取る。危ない場所に、自分の体を置く。

「増やしたのか」

 誰に聞いたのか、自分でも曖昧だった。

 当然、返事はない。

 体の奥の白いものは静かだった。誇るでも、隠すでもない。ただ、目の前の二体がこちらを害する存在ではないことだけは、嫌になるほどはっきり伝わってくる。

 その瞬間、別の夢を思い出した。

 水の匂い。濡れた床。低い視点。人間の足音を、遠くから聞いている感覚。

 水門ダンジョンの夢。

 あれも、ただの夢だと思っていた。俺が見たもの、俺の記憶が勝手に作ったものだと。けれど、今目の前にいる二体を見ていると、その前提が崩れていく。

 昨日のゴブリンは、俺がいない間に増えた。

 なら、水門のあれは何だった。

 あそこには、白いものの残りがあるかもしれない。俺が亀山さんを助けた時、俺はあの場所で色々やった。記録カードも壊した。糸も使った。今考えると、残っていない方が不自然かもしれない。

「じゃあ、あれも現実じゃん」

 口に出した瞬間、背筋が冷えた。

 夢ではない。

 別の何かが見ていたもの。別の寄生先から流れてきたもの。そう考えれば、今目の前で起きていることと繋がってしまう。

「今、虫の何匹が寄生済みなんだよ」

 暗渠の中で言うことではなかった。

 だが、言わずにはいられなかった。

 水門ダンジョン。スライム。虫。下層。湿った壁。白い残り。そこにいる何かが、俺の知らないところで増えている可能性。考えるほど、胃のあたりが重くなる。

 便利だとか、戦力だとか、そういう話ではない。

 俺の中にいると思っていたものが、俺の外にも枝を伸ばしている。

 しかも、俺が寝ている間に。

 二体のゴブリンは黙っている。片方は俺を見る。もう片方は奥を見る。まるで、ここで足を止めている場合ではない、とでも言いたげな配置だった。

 そう見えるだけだ。

 なのに、そう見えてしまう。

 俺は喉の奥に残った嫌な感覚を飲み込んだ。

「じゃあ、なんで人間にはやらない」

 その疑問は、自然に出た。

 ゴブリンには寄生した。水門の虫にもしているかもしれない。なら、人間はどうなのか。

 亀山さんは、近くにいた。弱っていた。助けるためなら、寄生して動かすという選択肢があってもおかしくなかった。けれど、そうはならなかった。

 俺以外の人間には寄生できないのか。

 それとも、しないのか。

 前者なら、まだ理解のしようがある。

 後者なら、選んでいることになる。

 俺の体の奥で、白いものがほんの少しだけ動いた。

 答えではない。肯定でも否定でもない。ただ、そこにいるという反応だけだった。

「……考えるほど沼だな」

 俺はザックを下ろし、布に巻いた山刀を取り出した。

 二体のゴブリンが、それを見る。

 怯えたようには見えない。警戒した様子もない。ただ、俺が何をするのかを見ている。いや、俺の中の白いものがどう動くのかを待っているのかもしれない。

 布を解くと、赤黒い刃がライトを鈍く返した。

 嫌な武器だ。

 握ると、手に馴染む。馴染んでしまう。昨日まで借りていた国の短棒とは違う。これは記録されない。返却確認もない。使用上の注意もない。使った結果を、誰かが後付けで解析してくれることもない。

 だからこそ、使うなら自分で決めるしかない。

「今日は戻らない」

 二体のゴブリンが、少しずれてこちらを見た。

「本格探査だ。昨日の続きに行く」

 理解したようには見えない。

 それでも、昨日のゴブリンが前へ出た。もう一体も遅れて、その横に並ぶ。二体とも、俺より先に奥へ体を向ける。

 盾役。

 先導。

 見送りではない。

 今日は、連れていく。

 いや、こいつらがついてくるのか、俺がついていくのか、その辺りも怪しい。俺の考えを読んでいるのか、俺の中の白いものが俺とゴブリンをまとめて動かしているのか。判断材料は足元の影ほどもない。

 だが、奥へ進むには都合がいい。

 そう思ってしまったことが、喉に小さな棘のように残った。

 俺は山刀を右手に持ち、左手でライトを構えた。トレッキングポールは畳まずにザックの横へ差してある。必要なら使う。石も拾う。蛮族装備にも段階がある。

 二体のゴブリンが先に歩き出した。

 曲がり角では昨日のゴブリンが先に顔を出し、もう一体が少し低い姿勢で反対側を見る。通路の床に落ちた石片を避け、壁際の影を確認しながら進む。ぎこちない。だが、雑ではない。

 俺の動きに合わせている。

 いや、合わせられている。

 ボス部屋手前の通路に近づくにつれ、空気が重くなった。昨日もここで止まった。黒い石の壁は変わらない。床に古い血痕はない。倒したはずの敵の痕跡も、ほとんど残っていない。ただ、奥から来る気配だけが前より濃い。

 二体のゴブリンが、俺より前に立つ。

 まるで、ここから先は自分たちが先に入る、と言っているようだった。

 俺は山刀を握り直した。

 今日は入らない、とは言わない。

 昨日そう言って帰ったから、今日は来た。

「行くぞ」

 返事はない。

 それでも、二体のゴブリンは動いた。

 俺はその後ろから、一層の奥へ踏み込んだ。


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