第55話 活動実績
小型蟷螂型の死骸は、もう少しずつ輪郭を失い始めていた。
さっきまで細い胴体と鎌状の前脚を持っていたものが、床の砂利に沈むように色を薄くしていく。血のようなものも、体液のようなものも、残り続けるというより、空気にほどけていく感じに近い。その前に、担当者が撮影を入れた。正面、横、上から。倒れていた位置、割れた頭部の跡、残った鎌先状の黒い欠片、緑がかった小さな結晶。
俺からすれば、石を投げて棒で殴った虫の死骸なのだが、カメラと記録用の番号札が置かれた瞬間、それは急に資料っぽくなった。
「小型蟷螂型、二体。個体A、頭部損傷。個体B、胴体部打撃痕。残留物、緑色結晶状物体、鎌状黒色片」
職員が読み上げ、安全管理要員が周囲を見ている。俺は短棒を握ったまま、指示された位置で待った。勝手に触らない。勝手に近づかない。勝手に奥へ行かない。
ダンジョン時代、人間は勝手に動かないだけで評価される。
それはそれでどうなんだと思うが、俺も勝手に動く側の人間だったので、あまり偉そうなことは言えない。
「戸張さん、そのまま待機でお願いします」
「了解しました」
採取用の袋に、緑がかった結晶と鎌先の欠片が入れられていく。黒い鎌先は、短棒で叩いたせいか端が少し欠けていた。虫の脚の一部だと考えると嫌だが、素材と言われると急に価値がありそうに見える。人間の頭は都合がいい。
処理が終わると、指示役の職員がこちらに向き直った。
「本日の戦闘記録は十分です。予定通り、この先の分岐手前まで構造確認を行い、そこで撤退します。以降、敵性生物を発見した場合は原則として接触を避けます」
「はい」
「危険度が上がると判断した場合は、こちらで即時撤退を指示します」
「了解しました」
短く返す。余計なことは言わない。ここで「奥も見たいですね」などと言うと、たぶん映像に残る。顔と名前を隠していても、発言内容までは消えない。
俺は右壁側を意識しながら、ゆっくり進んだ。先ほどまでの通路と同じように見えて、少しずつ床の感触が変わっている。砂利の粒が細かくなり、小石の下に薄く固まった土のようなものがある。靴底で踏むと、乾いた音の中にわずかに湿った鈍さが混じった。
壁も、ただの倉庫の壁ではない。棚だったものが石に飲まれたような出っ張りがあり、そこに錆びた金具らしいものが半分だけ埋まっている。元の資材置き場にあったものなのか、ダンジョンがそれらしく作ったものなのかは分からない。分からないものが、分からないまま記録されていく。
「壁面、金属片状構造あり。触れずに撮影」
「床材変化。砂利粒径、細かくなっています」
「照度、少し落ちています。ライト補助入れます」
後ろから聞こえる声は、戦闘中の細かい指示ではなくなっていた。俺を動かすための声ではなく、俺の周りで起きていることを拾う声だ。さっきよりずっと楽だった。楽ではあるが、聞こえすぎるのも困る。自分が教材にされている実感が、じわじわ背中に乗ってくる。
命の危険より、撮られる疲れの方が後からくる。
などと考えているうちに、前方が少し開けた。
分岐だった。
通路は三つに分かれている。左は床の色が少し濃く、湿った砂のような跡が奥へ続いていた。正面は幅が広いが、壁から棚の骨のようなものが突き出していて、歩ける幅は見た目ほどない。右は狭く、壁の低い位置に細かい傷がいくつも走っている。小型の虫が何度も通った跡、と言われたら納得してしまいそうな傷だった。
体の奥が、かすかに右へ向きたがった。
声ではない。言葉でもない。ただ、そちらに何かある、と体の内側が勝手に判断したような感覚だ。俺は右の通路を見たまま、足を止めた。
「戸張さん、停止してください」
「停止しました」
言われる前から止まっていたが、それを口に出す必要はない。止まった事実だけでいい。
職員たちが前に出すぎない位置で撮影し、ライトを振り、床と壁を確認する。安全管理要員は、俺より半歩後ろで分岐の奥を見ていた。構えは大げさではない。だが、何か出たら俺より先に動くつもりなのは分かる。
「左通路、湿潤痕あり。正面、構造物突出。右通路、壁面に擦過痕多数」
「本日はここまでです」
指示役の職員が、はっきり言った。
「撤退します」
奥を見たい、とは思った。
左の湿った跡も、正面の棚の骨も、右の細かい傷も、どれも気になる。体の奥の白いものも、右側へ行きたがっている。行けば何かがある。敵か、素材か、別の構造か、それとももっと面倒なものか。
けれど、ここで一歩でも余計に進めば、今日積み上げたものが崩れる。
「了解しました。撤退します」
俺はそう言って、来た道へ体を向けた。
職員が少しだけ息を吐いた気がした。気のせいかもしれない。ただ、気のせいだとしても、そういう場面だった。奥へ行きたがる五級仮登録者より、言われた場所で帰れる五級仮登録者の方が、制度側にはありがたい。
俺としても、ありがたがられるなら乗っておくべきだ。
撤退は、拍子抜けするくらい静かだった。甲虫型が倒れた場所を通り、蟷螂型を処理した場所を通り、最初に石を拾ったあたりまで戻る。床の砂利を踏む音、職員の記録音声、機材の小さな擦れ。敵性生物は出なかった。出ないなら出ないで、何かを見落としているような気がする。
だが、何も起きずに帰るのが一番いい。
これは講習でも言われたことだし、俺もそう思う。思うのだが、少し物足りないと感じている時点で、たぶん俺はもうだいぶ駄目だ。
入口を抜けると、外の空気が急に広くなった。仮設フェンス、受付テント、装備管理車両、発電機の低い音。さっきまで石のように盛り上がった壁を見ていたせいで、ただの資材置き場の景色が妙にまともに見える。
「お疲れさまでした。本日の内部活動は終了です」
「お疲れさまでした」
フルフェイスヘルメットを外すのは、指定された場所に戻ってからだった。手袋、プロテクター、首元ガード、軽量防護服。外すたびに、体が少しずつ普通の人間に戻っていくような気がする。実際には、戻ってはいないのだろうが。
装備管理の職員が、返却品を一つずつ確認する。
「短棒、一本目」
「はい」
「短棒、二本目」
「はい」
「二本とも返却確認しました」
借りた棒を返しただけなのに、妙な達成感があった。正式に借り、正式に振り、正式に返す。こん棒二刀流にも手続きがある。文明はすごい。
「防護具、破損確認します。目立った損傷なし。手袋、汚れあり。洗浄へ回します」
「すみません」
「使用範囲内ですので問題ありません」
そう言われて少し安心したところで、職員の視線が俺の腰のあたりで止まった。
「戸張さん、ポケットの中身も確認させてください」
「あ」
忘れていた。
俺は防護服のポケットに手を入れ、拳大の石を二つ取り出した。ひとつは投げずに残ったもの。もうひとつは、途中でなんとなく拾い足したものだ。なんとなく、で済ませていい物ではない気もする。
職員の目が、わずかに細くなった。
「内部由来物ですので、持ち出しはできません」
「すみません。癖で」
「癖」
復唱されると、かなり嫌な言葉だった。
「探索中、手元にあると落ち着くので」
「お気持ちは分かりますが、石でも異常空間内の物体です。採取対象にするか、現地廃棄扱いにするか、記録が必要になります」
「はい」
ついに石にも手続きが生まれた。
原始人にも規則がいる。いや、規則があるから原始人でもここにいられるのかもしれない。
石は撮影され、番号を付けられ、簡単なメモを添えられた。投擲用に使用したものではなく、携行状態で残っていたもの。形状、重量、色。そこまで書くのかと思ったが、書くのだろう。何かあってから「ただの石だと思いました」では済まない時代になっている。
その後、受付テントで本日の活動記録について説明を受けた。
「本日の実地活動は、五級仮登録者向け管理区域活動一件として記録されます。敵性生物との接触は、小型甲虫型一件、小型蟷螂型二件。いずれも安全管理要員の支援可能範囲内での対応です」
「はい」
「採取物の扱いは確認後になります。協力金については、映像記録協力分と、研究協力品として認められたものがあれば別途通知されます」
「分かりました」
「映像は、内部研修、五級向け講習資料、安全啓発資料に使用される可能性があります。顔、氏名は非公開。音声についても必要に応じて加工します」
俺は同意書の説明を聞きながら、署名欄を見た。
金になる。実績になる。制度側に、指示を守る人間として記録が残る。公式にダンジョンへ入った履歴ができる。
全部を正直に話しているわけではない。むしろ、一番大事なところは隠している。それでも、制度の中に足場を作れるなら、その方がいい。暗渠も、水門も、赤錆の山刀も、白いものも、外へ出せないものが多すぎる。だからこそ、出せる範囲ではきちんと出す。
俺は説明を聞き終え、必要な欄に署名した。
「お疲れさまでした。戸張さん、本日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
テントを出ると、安全管理要員の一人が近くにいた。甲虫型の時に正面で止めなかったことを評価してくれた人だ。名前はまだ聞いていない。
「短棒、慣れてますね」
軽い調子だったが、返答に困る言葉だった。
「……多少は」
「武器に振られていませんでした。あの重心、初見だと止める時に手首を持っていかれやすいので」
「そうなんですね」
「そうなんです」
それ以上は聞かれなかった。ありがたい。俺も余計なことは言わない。昔からやってました、と言える趣味はない。学校で習いました、と言える武道歴もない。ダンジョンでコボルトのこん棒を二本持って暴れていました、とはもっと言えない。
「ただ、投石は本当に周囲確認してください。人に当たると、普通に事件です」
「はい。気をつけます」
それは本当にそうだ。魔石や虫型以前に、人間社会では石を人に投げてはいけない。
装備管理車両の向こう側で、亀山さんがスタッフと何か話していた。手にはカメラがあり、首からは関係者用のタグを下げている。こちらに気づいたのか、一瞬だけ視線が合った。
会釈された。
俺も会釈を返す。
それだけだった。
顔は見えていない。声も、加工されているか、そもそも向こうの記憶にない。水門の時の俺と、今日の俺を結びつける材料はほとんどない。そう分かっているのに、あの人の視線には少しだけ落ち着かないものがあった。
背格好か、立ち方か、危険な場所での動きか。
いや、考えすぎだ。
「戸張さん」
受付の職員に呼ばれ、俺はそちらへ向き直った。
「本日の活動実績は、後日マイページに反映されます。仮登録期間中の審査資料にもなりますので、内容を確認しておいてください」
「はい」
活動実績。
石を拾い、石を投げ、棒で虫を殴り、言われたところで帰ってきた。
それが、役所の言葉になると活動実績になる。
変な話だ。変な話だが、悪くない。俺が制度の中にいてもいい理由が、ほんの少しだけ増えた気がした。
体の奥で、白いものがかすかに疼いた。さっきの分岐の右側を、まだ覚えているような感覚だった。
返事はない。言葉もない。
ただ、行きたいという感覚だけが、薄く残っている。
俺は受付テントの外から、もう一度だけ倉庫の搬入口を見た。シャッターの奥は、外から見る限りただの暗い入口だ。その先に分岐があり、湿った床があり、棚の骨があり、虫の傷跡みたいな壁がある。
今日は行かない。
そう決めて、俺は登録証をしまった。
今日手に入れたのは魔石でも、武器でも、隠し持てる素材でもない。
活動実績だった。




