第6話 冴えた頭
しばらく、動けなかった。
目の前には、壁際で倒れたゴブリンがいる。小柄な体は変な方向に折れ、粗末な刃物は少し離れた床に転がっていた。動く気配はない。
俺はトレッキングポールを握ったまま、荒い息を吐いていた。
助かった。
そう思うべき場面だった。
実際、俺は生きている。左腕は斬られたが、まだ動く。ゴブリンは倒れた。行き止まりに追い詰められた状況から、どうにか生き残った。
なのに、安堵は来なかった。
目の奥に、何かがいる。
その感覚だけが、頭の中で膨らんでいた。
目を閉じても消えない。まぶたの裏に白いものが焼きついている。眼球の奥、頭の奥、もっと深いところで、細い何かがゆっくりと身じろぎしている。
吐き気がした。
今すぐ目を掻きむしりたかった。
だが、体はそうしなかった。
俺の呼吸は、少しずつ整っていく。心臓の音も、さっきより落ち着いていく。震えていた右手は、トレッキングポールを握り直していた。
おかしい。
もっと取り乱していいはずだった。泣いても、叫んでも、這いつくばってもおかしくないはずだった。
なのに、俺はまずゴブリンが動かないかを見ていた。
次に、落ちている刃物の位置を確認していた。
その次に、左腕の出血量を確かめようとしていた。
順番が、妙に正しい。
それが怖かった。
俺はゆっくりと左腕を見た。
上腕の外側、服が裂けている。その下の傷は、思っていたより深かった。皮膚が斜めに裂け、血が赤黒く滲んでいる。少し動かすだけで、傷の奥が熱を持って脈打った。
だが、出血は思ったほどではなかった。
さっきは腕を伝うほど流れていたはずだ。なのに今は、傷口の周りで血が粘るように留まっている。完全に止まっているわけではない。けれど、本来ならもっと流れていてもおかしくない傷に見えた。
痛みもある。
確かにある。
だが、遠い。
熱いのに、遠い。痛いのに、意識の中心まで届いてこない。まるで、痛みの音量だけを誰かに勝手に下げられているようだった。
助かっている。
そう考えた瞬間、背筋が冷えた。
助かっていることが、気持ち悪い。
俺はリュックを引き寄せ、片手で中を探った。救急セット。包帯。消毒用の小さなボトル。止血パッド。準備していたものを取り出す手は震えている。
それでも、動く。
左腕をできるだけ動かさないようにしながら、傷口にパッドを当てる。歯を食いしばるほどの痛みが来ると思った。
だが、来なかった。
痛い。
痛いはずなのに、俺は作業を続けられた。
包帯を巻く。うまく巻けない。片手では限界がある。血で滑る。焦りで指先が震える。それでも、何とか傷を押さえる形にはなった。
普通ならもっと慌てている。
普通ならもっと失敗している。
普通なら、こんなふうに考えられない。
俺は息を吐いた。
考えるのは後だ。
ここから出る。
まず、生きて外に出る。
それだけを考えろ。
そう決めた瞬間、目の奥の何かがわずかに動いた気がした。
俺は立ち上がった。膝に力が入りにくい。体が重い。けれど、立てる。トレッキングポールを右手に持ち、リュックを背負い直す。
足元には、砕けた黒い殻の欠片が散らばっていた。
持っていくべきか。
一瞬だけ、そう思った。
これが何なのかを知る手がかりになるかもしれない。外へ出て、誰かに見せれば分かるかもしれない。証拠になるかもしれない。
だが、すぐに首を振った。
今は駄目だ。
触りたくない。
あれ以上、あの黒いものに関わりたくなかった。
俺は欠片から目を逸らし、通路の方へ向かった。
ゴブリンの死体の横を通る必要があった。
近づくほど、倒れた体の異様さがはっきりする。濁った目。開いた口。緑がかった灰色の皮膚。壁にぶつかった頭のあたりから、黒っぽい血が滲んでいる。
俺がやった。
そう思うと、胃が縮んだ。
人間ではない。
人間ではないが、生き物だった。
それを俺は殴り飛ばして、動かなくした。
その事実に足が止まりかけた時、目の奥がぴくりと反応した。
視線が、ゴブリンの傷口へ向きそうになる。
違う。
俺は反射的に顔を背けた。
だが、目が戻ろうとする。
倒れたゴブリンを見ろと、頭の奥から細い指で視線を引かれているような感覚があった。
気のせいかもしれない。
恐怖でそう感じただけかもしれない。
けれど、俺には分かった。
中の何かが、あの死体に反応している。
「見るな」
声に出していた。
自分に言ったのか、中の何かに言ったのかは分からない。
俺は無理やり視線を外し、ゴブリンの横を抜けた。足早に通り過ぎる。背中がぞわぞわした。振り返りたくない。振り返ったら、何かが始まってしまう気がした。
通路を戻る。
来た道を戻っているはずだった。
だが、似たような石壁が続くせいで、自信がなくなる。さっきは必死で逃げていた。曲がり角の数も、通路の向きも、まともに覚えていない。
ライトの光が揺れる。
呼吸を整える。
足を止めるな。
けれど、急ぎすぎるな。
自分に言い聞かせる。
通路は静かだった。
静かすぎた。
自分の靴音だけが、やけに大きく響く。どこかで水が滴る音もしない。外の気配もない。さっきまでいた暗渠の湿った空気が、もう遠いもののように感じられた。
分かれ道に出た。
右と左。
来た時にこんな場所を通ったかどうか、覚えていない。
俺はライトを左右に向けた。どちらも同じような石の通路に見える。左の方がわずかに広い。右の方は狭く、奥が暗い。
普通に考えれば、広い方を通りたい。
左へ足を向けた。
その瞬間、足が止まった。
止めたのではない。
止まった。
踏み出そうとした右足が、床に貼りついたように動かなかった。
全身から血の気が引いた。
「……ふざけんな」
小さく吐き出す。
足に力を込める。
動かない。
いや、動く。動かせないわけではない。無理やり動かそうと思えば動く気がする。だが、体の奥から強烈な拒否感が上がってくる。
そっちへ行くな。
そう言われているようだった。
その時、左の通路の奥から音がした。
かつん、と。
石を踏むような、小さな音。
続いて、低い息遣いのようなものが聞こえた。
ゴブリンか。
別の何かか。
分からない。
だが、何かいる。
俺は息を止めた。
足が動くようになった。
今度は右の通路へ向けて、体がすんなり動いた。
助かった。
そう思いかけて、すぐに違うと思った。
これは助かったのか。
それとも、助けられたのか。
俺は右の通路へ入った。足音をできるだけ殺す。トレッキングポールを握る手に力が入る。左腕が痛む。だが、痛みはまた少し遠ざかっていた。
気持ち悪い。
ありがたい。
怖い。
その全部が同時にあった。
通路は少しずつ狭くなっていった。
やがて、壁の質感が変わる。
黒ずんだ石が、ひび割れたコンクリートへ戻っていく。足元に泥が混じり始める。鼻の奥に、湿った水路の匂いが戻ってきた。
暗渠だ。
俺は、思わず息を吐いた。
戻ってきた。
帰り道は完全に分からなくなっていたはずなのに、戻ってこられた。喜ぶべきなのかもしれない。だが、それすら素直には受け取れなかった。
俺は本当に、自分でここまで戻ってきたのか。
それとも、戻されたのか。
暗渠の低い天井をくぐり、腰をかがめながら進む。外の光はまだ見えない。だが、空気は明らかに変わっていた。湿っている。冷たいが、さっきの石室の冷たさとは違う。泥と苔と、古い水の匂い。
現実の匂いだった。
水たまりを踏む音がする。
リュックが壁に擦れる。
右手のトレッキングポールが、時々コンクリートに当たって小さな音を立てる。
その音が、妙に安心できた。
しばらく進むと、暗渠の出口が見えた。
薄い灰色の光。
外だ。
俺は最後の数メートルを、ほとんど転がるように進んだ。膝をつき、片手を泥につきながら、暗渠の外へ這い出る。
草の匂いがした。
川の匂いがした。
遠くで車の音がした。
どれも、ほんの数十分前までは当たり前だったものだ。
俺は橋の下に出た瞬間、その場に崩れ落ちた。
膝が笑っている。
右手からトレッキングポールが滑り落ちた。
左腕が痛い。
今度ははっきり痛い。包帯の下で、傷が熱を持っている。服も手も泥と血で汚れている。呼吸は乱れ、胃の中がせり上がってくる。
それでも、生きている。
外に出た。
俺は空を見上げた。
橋の隙間から見える空は、信じられないくらい普通だった。雲が流れている。鳥の声がする。どこかで自転車のブレーキ音が鳴った。
世界は何も変わっていない。
変わったのは、俺だけだった。
その事実に気づいた瞬間、ようやく恐怖が戻ってきた。
指が震える。
歯が鳴る。
呼吸が浅くなる。
さっきまで抑えられていたものが、少しずつ漏れ出してくる。
俺は右手で自分の目元に触れた。
傷はない。
血もない。
だが、確かにそこから入った。
あの白いものは、俺の中にいる。
目の奥で、細い何かがゆっくりと身じろぎした。
俺は吐きそうになりながら、暗渠の入口を振り返った。
そこには、ただの古い水路が口を開けているだけだった。
誰も知らない入口。
俺の人生を変えるかもしれない場所。
そう思って探していたものは、確かに見つかった。
けれど、俺が持ち帰ったのは宝でも、名誉でも、夢でもなかった。
俺は自分の胸を押さえた。
心臓は動いている。
息もできる。
生きている。
それなのに、自分の体の内側だけが、まだあの黒い石室に繋がっている気がした。
外に出たはずなのに。
俺の中だけは、まだダンジョンの中だった。




