第7話 帰り道
しばらく、橋の下から動けなかった。
暗渠の入口は、目の前にある。子供の頃に見た時と同じように、古い水路の奥で黒い口を開けている。外から見れば、ただの薄汚れた暗渠だ。そこにダンジョンがあるなんて、誰が思うだろう。
俺は泥の上に座り込んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。
左腕が痛い。
包帯の下で、傷が熱を持っている。外に出た瞬間から、抑え込まれていた痛みが少しずつ戻ってきていた。耐えられないほどではない。だが、無視できる痛みでもない。
それより問題なのは、人目だった。
探索用に選んだ服は、暗い色のものだった。汚れても目立ちにくいようにと思っていたからだ。実際、泥の跡は遠目には分かりにくい。
だが、血は別だ。
左腕には包帯。袖には裂け目。手袋にも血がついている。こんな状態で普通に道を歩けば、誰かに声をかけられてもおかしくない。
警察を呼ばれるかもしれない。
救急車を呼ばれるかもしれない。
そうなったら、説明しなければならない。
どこで怪我をしたのか。何に襲われたのか。なぜ一人でそんな場所に入ったのか。その後の話などもってのほかだ。
俺は付近に流れていた川に向かい、靴や袖についた泥をできるだけ水で落とした。血のついた手袋は外し、リュックに入れていたビニール袋へ押し込む。顔についた汚れも、タオルで乱暴に拭った。
左腕の傷には触れなかった。
包帯の下に何があるのか、今は見たくなかった。
リュックの中には、予備の長袖シャツが入っていた。探索中に濡れたり汚れたりした時のために用意していたものだ。暗い色のそれを上から着込み、左腕の包帯と袖の裂け目を隠す。
これで、遠目には分からない。
完全ではない。
近くで見られれば、様子がおかしい様は隠しきれない。
トレッキングポールは畳んでリュックの横に戻す。
立ち上がると膝が揺れる。
だが、歩ける。
歩けてしまう。
俺は暗渠を振り返らないようにして、橋の下から出た。
外の道は普通だった。
遠くで車が走っている。自転車に乗った学生が通り過ぎる。犬を連れた老人が、対岸の道をゆっくり歩いている。
誰も知らない。
このすぐ下に、黒い石室があったことも。
ゴブリンがいたことも。
俺の中に、何かが入ったことも。
世界は何も知らないまま、いつも通り動いていた。
人通りの少ない道を選んで歩いた。駅には向かわない。バスにも乗らない。電車に乗る気にもなれなかった。
スマホを見ると、まだ昼過ぎだった。
驚いた。
もっと長い時間が経っていると思っていた。半日くらい、あの中にいたような感覚だった。だが、画面に表示された時刻は、俺が橋の下へ降りてから一時間も経っていないことを示していた。
一時間。
たったそれだけで、人生はここまで変わるのか。
左腕が疼く。
俺は反射的に右手で押さえた。
痛みはある。
だが、また少し遠い。
歩くためにはありがたい。けれど、そのありがたさが気持ち悪かった。
少し離れた大通りまで出てから、タクシーアプリを開いた。
普段はほとんど使わない。だが、こういう時のために入れたままにしていた。目的地に自宅近くの通りを指定し、配車を確定する。
待っている数分が、やけに長かった。
通行人と目が合わないように、俺はガードレールのそばでスマホを見ているふりをした。左腕は体の影に隠す。息は整っている。顔だけが、どうしようもなく冷たく感じる。
やがて、アプリに表示されたナンバーのタクシーが近づいてきた。
後部座席に乗り込む。
ドアが閉まった瞬間、全身から力が抜けそうになった。だが、崩れるわけにはいかない。運転手がルームミラー越しにこちらを見た。
「お客さん、大丈夫ですか?」
俺は左腕を体の影に隠しながら、できるだけ普通に答えた。
「すみません、少し気分が悪くて。家までお願いします」
運転手はそれ以上、深く聞いてこなかった。
車が走り出す。
窓の外で、見慣れた街並みが流れていく。コンビニ、駐車場、信号待ちの車、歩道を歩く親子。何もかもが当たり前すぎて、かえって近づけない。
水を買った方がいい。
消毒液も、包帯も、追加で買った方がいい。
そう考えたが、今はどこかの店に入る気にはなれなかった。
監視カメラがある。
店員に顔を見られる。
血の匂いがする気がする。
そんな考えが次々に浮かんで、俺は座席の上で小さく息を吐いた。
家までの道が、やけに長く感じた。
それでも、歩くよりはずっとましだった。
自宅近くで降り、料金の支払いを済ませる。アプリ決済にしておいてよかったと思った。財布を出して、小銭を探して、運転手とやり取りする余裕はなかった。
タクシーが去ってから、俺は周囲を確認した。
誰もこちらを見ていない。
左腕をかばいながら、俺は自分の部屋へ向かった。
玄関の鍵を開ける手が震えていた。
鍵穴にうまく入らない。何度か先端が滑り、金属同士が小さく鳴った。その音にすら、心臓が跳ねる。
ようやく鍵が回る。
部屋に入った瞬間、俺はすぐに鍵を閉めた。
チェーンもかける。
それから、玄関に背を預けて座り込んだ。
帰ってきた。
家だ。
いつもの部屋だ。
脱ぎっぱなしの部屋着。テーブルの上のコップ。読みかけの本。充電ケーブル。何も変わっていない。
なのに、安心できなかった。
俺だけが違う。
俺の中だけが、まだ違う場所にいる。
替えの長袖シャツを脱ぐ。湿った水滴と、落としきれなかった泥が床に落ちた。靴もまだ湿っている。普段なら絶対に気になるはずなのに、今は後回しだった。
まず傷だ。
俺は洗面所へ向かった。
鏡に映った自分は、ひどい顔をしていた。
顔色が悪い。目が血走っている。髪には少し泥がついている。頬にも擦ったような汚れが残っていた。
そして、目。
俺は鏡に顔を近づけた。
右目。左目。どちらにも、見た目の異常はない。
赤くなっているわけでもない。出血もない。白いものが見えるわけでもない。瞳孔がおかしいようにも見えない。
普通の目だった。
普通に見えることが、逆に怖かった。
あれは確かに入った。
冷たいものが、目の奥に滑り込んだ。
その感覚を、俺は覚えている。
なのに、外側には何も残っていない。
俺は鏡から目を逸らした。
次に、左腕の包帯を外す。
血で張りついていて、剥がす時に鈍い痛みが走った。今度はちゃんと痛い。喉の奥で息が詰まる。
だが、包帯を外しきった瞬間、俺は痛みを忘れた。
傷が、おかしかった。
左上腕の外側。ゴブリンの刃物で裂かれた場所。そこには確かに傷がある。皮膚は斜めに割れ、赤黒い血が周囲に滲んでいる。
だが、その赤の中に、白いものが見えた。
脂肪かと思った。
怪我の画像を見たことがあるわけではないが、深い傷なら白っぽい組織が見えることもあるのかもしれない。そう考えようとした。
でも、違和感があった。
その白は、妙に目立った。
肉の奥にある白ではなく、傷口の縁を内側から薄くなぞるような白。細い膜のようでもあり、濡れた糸のようでもある。血に汚れているはずなのに、その部分だけがやけに白く見えた。
俺は息を止めた。
触る気にはなれなかった。
触れば、動く気がした。
もちろん、動くはずがない。
傷口の中の白いものが動くなど、そんなことがあってたまるか。
それでも、俺は指を近づけられなかった。
蛇口をひねり、水を出す。
傷口を洗うべきか迷った。泥が入っているかもしれない。細菌感染だって怖い。普通なら、ちゃんと洗って、消毒して、病院に行くべきだ。
分かっている。
それが正しい。
だが、蛇口から流れる水を見ながら、俺はしばらく動けなかった。
この傷を、他人に見せられるのか。
この白いものを、医者に見せられるのか。
もし検査されたら、何が見つかる。
俺の体の中に、何がいると分かる。
分からない。
分からないことが多すぎる。
結局、俺は水で周囲の血と汚れだけを慎重に流した。傷口に直接水を当てるのは怖かった。消毒液を使う時も、必要最低限にした。
しみる。
今度ははっきり痛かった。
それでも、痛みの奥に妙な鈍さがある。痛いのに、どこかで遮られている。自分の体なのに、反応が他人事のようだった。
新しいガーゼを当て、包帯を巻き直す。
今度はさっきよりはうまく巻けた。
手順を調べたわけではない。ただ、こうした方がいいだろうという感覚でやった。それが合っているのかは分からない。
処置が終わると、急に疲労が押し寄せてきた。
俺は洗面台に手をつき、深く息を吐いた。
体が重い。
頭が冷えている。
この二つが同時にある。
疲れている。怖い。混乱している。けれど、どこか一部分だけが妙に落ち着いている。
それが自分のものなのか、分からない。
部屋へ戻り、床に座る。
スマホを手に取った。
画面には、未読の通知がいくつか並んでいる。ニュースアプリ、通販サイト、どうでもいい広告。日常の残骸みたいなものがそこにあった。
俺は検索欄を開いた。
ダンジョン。
ゴブリン。
左腕 切り傷。
目 異物。
いくつか単語を打ち込んでは、消した。
検索したところで、何が分かる。
ゴブリンに斬られて、黒い石から出てきた白いものが目から入りました。
そんな検索結果が出るはずもない。
それでも、何かを調べずにはいられなかった。
ダンジョン関連のニュースは、相変わらず流れていた。政府の注意喚起。探索者制度の噂。未確認入口を探す配信者のまとめ。危険だから近づくなという専門家のコメント。
少し前の俺なら、食い入るように見ていたはずだ。
今は、画面の向こう側の話とは思えなかった。
危険だから近づくな。
その文字が、やけに正しく見えた。
俺はスマホを置いた。
警察に言うべきか。
病院に行くべきか。
誰かに相談するべきか。
考えは浮かぶ。
けれど、その先に進めない。
説明できない。
信じてもらえる気がしない。
何より、自分の体がどう扱われるのか分からない。
もし俺の中にいるものが、普通ではないと分かったら。
俺は患者なのか。
被害者なのか。
それとも、危険物なのか。
想像した瞬間、指先が冷たくなった。
俺は自分の目元に触れる。
目の奥で、何かがかすかに身じろぎした気がした。
気のせいであってほしかった。
だが、もう気のせいだとは思えなかった。
俺の中に、何かがいる。
しかもそれは、俺を殺してはいない。
むしろ、生かしているように見える。
左腕の出血を抑えたのも、痛みを遠ざけたのも、ゴブリンを殴り飛ばした力も、たぶん俺だけのものではない。
助けられた。
そう言えば聞こえはいい。
だが、俺は助けを求めた覚えはない。
勝手に入ってきて、勝手に俺の体を使い、勝手に生かした。
そう考えると、胸の奥がざらついた。
それでも、俺は生きている。
死ななかった。
死にたくないと思った。
その結果が、これだ。
部屋の中は静かだった。
外では車が通り過ぎる音がする。隣の部屋から、かすかに生活音が聞こえる。誰かが階段を上がる足音もした。
日常は、すぐそこにある。
壁一枚の向こうに、普通の生活がある。
だが、俺はもうそこに戻れる気がしなかった。
左腕の包帯を見る。
その下にある白いものを思い出す。
目の奥の異物感を意識する。
暗渠の奥にあった黒い石室を思い出す。
ゴブリンが壁に叩きつけられた音を思い出す。
全部、現実だった。
夢ではない。
俺は立ち上がり、玄関の鍵をもう一度確認した。
閉まっている。
チェーンもかかっている。
窓の鍵も確認する。
閉まっている。
それでも、不安は消えなかった。
何から身を守ろうとしているのか、自分でも分からない。外から何かが来るのが怖いのか。中にいるものが怖いのか。それとも、自分自身が怖いのか。
俺はカーテンを閉めた。
部屋が少し暗くなる。
その暗さが、ダンジョンの通路を思い出させた。
すぐに電気をつける。
明るくなった部屋で、俺はしばらく立ち尽くしていた。
眠れる気はしなかった。
だが、横にならなければ体がもたないことも分かった。
今日はもう、何も考えられない。
いや、考えてはいけない。
考えれば、壊れる。
俺は布団に倒れ込むように横になった。
左腕をかばいながら、天井を見る。
白い天井。
見慣れた部屋。
いつもの匂い。
いつもの静けさ。
それなのに、目を閉じるのが怖かった。
目を閉じたら、あの白いものが見える気がした。
目を閉じたら、自分の中で何かが動き出す気がした。
それでも、まぶたは少しずつ重くなっていく。
体が休もうとしている。
休めと命じられているようにも感じる。
俺は抗おうとした。
けれど、疲労の方が強かった。
意識が沈んでいく。
その直前、左腕の傷がわずかに熱を持った。
包帯の下で、白い何かが静かに広がっている。
そんな感覚があった。
俺は目を閉じた。
暗闇の中で、まだダンジョンの冷たい空気が残っている気がした。
家に帰ってきたはずだった。
けれど、戻ってきたのは体だけだった。
俺の中の何かは、まだあの場所から出てきていなかった。




